大輪の花
二人で想いを交わした後、私は梅雨の晴れ間を見つけては薔薇園に足を運んだ。
いつものように薔薇の手入れをしていた八雲は、私を見ると笑顔を見せる。
「今日は来られると思ってました」
「しばらく雨が続いて退屈したわ。刺繍はだいぶは
「雨が降ると泥がはねて葉が悪くなりますから。そういうのをこまめに取り除いていおかないと良い葉まで悪くなってしまうんです」
「お邪魔だったかしら?」
「とんでもない。蓮水様が来られる前に粗方済ませてしまおうと頑張りました!」
八雲はそう言うと人懐っこい笑みを見せた。
当初、取り澄ましたような顔をしていたことが多かった八雲だったが、逢瀬を重ねるにつれ、年相応の顔を見せるようになった。その様子はどこか大きな犬が褒めてほしいと擦り寄ってくるような感じにも見えて、私も思わず表情が緩む。
「今、手を洗ってきますから、お好きに見て回っていてください」
八雲が一旦奥に引っ込んだので、私はひとしきり薔薇園を見回す。そして、ひと際大きい赤い薔薇に目が止まった。その花びらはまだ開き切る手前で、これからさらに大輪の花になりそうな花だった。
その花を眺めていると、背後から手が伸びてきた。
「その花はこれまでで一番大きく咲きそうなんですよ」
私の体を囲うように腕を回しながら嬉しそうな声で言う。
「明日、蓮水様のお部屋にお持ちしますね」
頭の上からする声に心が跳ねる。
「近過ぎるわ。誰かに見られたら」
「大丈夫です。ここには誰も来ません」
八雲は私の心配を他所に、私を後ろから抱きしめ、顔を髪に埋めてくる。
「蓮水様。薔薇の良い香りがします」
「貴方が教えてくれたのでしょう。萎れかけた薔薇の花を浴槽に浮かべたら良いって」
「そうでしたね。外国では薔薇の花からの抽出液を化粧品に使うそうですよ。蓮水様はそんなもの付けなくても綺麗ですけどね」
八雲は私の手を取った。私の細くて青白い手とは対照的に八雲の手は大きくてよく日に焼けていて逞しい、その手にすっぽり包まれるのに心地よさを感じた。
背中に感じる体温も私を安心させる。
「蓮水様」
八雲に呼ばれ振り返ると、顔が近づいてきたので慌てて首を
「嫌ですか?」
八雲が悲しげな顔をする。
その顔に首を横に振り私は言葉を紡ぐ。
「……こんな昼日中の明るいところで、恥ずかしいわ」
そう口にすること自体に羞恥を感じて顔が熱くなり下を向く。じっと私を見る八雲の視線を感じてさらに顔が熱くなる。
「なら、こちらに」
八雲に手を引かれ、奥の生け垣の陰に入る。そこで二人向き合う格好になる。
「ここなら大丈夫でしょう? 誰にも見えない」
正面から顔を覗き込まれて思わず腰が引けた私を八雲の腕が絡め取る。あごを掬い取られ、目を合わせられる。その懇願するような目の色に視線が反らせずにいると、おもむろに顔が近づいてくる。
唇が重なった。一度触れてしまえば想いが溢れ、止まらなくなる。
だんだん熱くなって絡まる吐息が、一層恋を燃え上がらせるようで、私は夢中で彼を感じた。
***
また雨の日が続く。
私は、花瓶に生けられた先日の大輪の赤い薔薇に近づいた。
その花びらを数枚取って、懐紙に挟む。それを本に挟んだ。
「奥様、それ押し花になさるのですか?」
お茶を用意していた小梅が尋ねてくる。
「大きな花びらだし、薄紙で挟めば栞にでもなるかと思って」
「それは素敵です! そうすれば長く残りますものね。」
小梅はにこにこしている。
「奥様は薔薇の花が本当にお好きなのですね。花を飾るようになって、前よりいきいきとなさっているように思います。まるで恋しているみたい」
小梅の屈託のない言葉に思わず動揺する。
「何言ってるの。そんな莫迦なことないわ!」
私の剣幕に小梅は驚いて、反射的に「すみません」と頭を下げた。そこで、はっと我に返る。
「こちらこそ、急に大きな声出してごめんなさい。思わぬ言葉だったから」
そう言って弁解したものの微妙な空気が流れ、小梅はペコペコ頭を下げながら部屋を出ていった。
確かに、薔薇の花と出会って、八雲に出会って私は変わった。以前は無色だった私の世界が鮮やかに色付いた。
それが私を幸せにするのか不幸にするのかわからない。けれど、一度色彩を知ってしまった私はもうそれを知らない私には戻れなかった。もう手放せない。
もはやこの恋を止めることは不可能だった。
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