恋、患う
『僕は蓮水様のことを愛しています。ひとりの女性として』
雨の音が続く小屋に響いたその声は私の心を震わせた。
けれど、八雲の言葉を鵜呑みにできるほど、私はおめでたくはなかった。
「貴方は私をからかってるの? 先日初めて顔を合わせたばかりじゃない」
「からかってなんてないです!」
八雲は必死な顔で私の言葉を否定し、そして、切々と語りだす。
「僕は貴女をずっと見てきました。始めて見たのは昨年の夏、お屋敷の裏手にある蓮池の手入れを手伝った時でした。そこで満開の蓮の花を愛でていた貴女に一目で心を奪わました。けれど、相手は奥方様。叶う想いではないと、時折お姿を目で追うだけの日々でした。それが先日、貴女がこの薔薇園に足を運んでくれた。そして、今、貴女は僕のすぐ近くにいる。想いを伝えずにはいられませんでした」
八雲はずずいと前のめりになってきた。顔が近い。私は後ずさって彼と距離を保った。
「私には夫がいるのよ。許されないわ」
「わかっています。けれど、貴女は今、幸せじゃない」
私は自分が幸せでないと断言されて思わずカッとなる。
「そんなことないわ! 貴方に何がわかるのよ」
「わかります。貴女の目はいつもどこか虚ろで寂しく見えました。ずっと見ていたのです。僕は貴女のその心を満たしたい」
私はそのすべてを見透かすような瞳に、射抜かれてしまいそうな感覚に陥る。
「僕の全てを貴女に捧げます」
初めて注がれる、情熱的な眼差しにこのまま、身を委ねてしまいたくなった。
けれども、それはいけないと、自分の中で理性が叫ぶ。
私は反射的に立ち上がる。
「蓮水様!」
私は八雲の呼ぶ声を無視して、履物を履いて出口に向かう。
「帰る。もう二度とここには来ないわ」
戸を開こうと手をかけたとき、バンと頭の上がした。見上げると八雲の腕が戸を抑え、私は戸と八雲の体に挟まれるような格好になっていた。
「僕はこれからも貴女のために薔薇を贈り続けます。僕の貴女への想いは決してなくなりません」
八雲が私にくれる言葉に揺らがないわけではない。けれども、私はそれを振り切るように彼の目をにらむように見て言い放った。
「どきなさい」
八雲は、痛みに耐えるように顔を歪め、力なく戸から手を下ろす。
私は彼の方を見ずに戸を開けた。
外に出ると、雨は弱くなっていた。
私は振り返ることなく、薔薇園を後にした。
***
薔薇園から帰った私はしばらく床に臥せった。ずっと熱が下がらないのだ。
「奥様。どうして雨の中、外にお出になられたのですか。体調が思わしくなかったご様子だったと聞いておりますのに」
小梅が遠慮なく聞いてくる。
あの雨の日外に出たことは、濡れた着物と履物の汚れですぐに気付かれた。
「どうしても、外に出たかったのよ」
私はそれだけ言うと、布団で顔を隠した。
あの日八雲が私に与えた言葉の数々が私の心に根を張るように絡みついていた。
拒絶したことを後悔している?
いや、後悔はしていない。
だって、私には夫がいるのだ。絶対に許されることはない。
私はこれまで向けられたことの無かった恋情というものをまともに受けて、ただ舞い上がってしまっているだけなのだ。彼が好意を向けてくるから、気になるだけでその相手は彼でなくても構わないのだ、きっと。
そうは思っても、私の心の奥の熱が収まらない。この熱は布団に包まっていればいずれ消え去るのだろうか。
自分がどうしたいのかわからない。
しばらく悶々としていると、小梅が声をかけてきた。
「奥様。庭師から薔薇を貰ってきました。奥様が臥せっていると申しましたら、寝所に置くならこれが良いと」
私はそろりと布団から顔を出し、小梅が持ってきた薔薇を見た。
それは一本の純白の薔薇だった。
「薔薇の匂いは心を癒す効果もあるらしいですよ。これは枕元に飾っておきます。だから奥様。早く良くなってくださいませ」
小梅は薔薇を一輪挿しに挿すと枕元の盆の上に置いて部屋を出ていった。
私はそろりと起きあがり、白い花弁に手を伸ばした。そして、顔を近づけると芳しい匂いが鼻腔を通り、全身に回るような感覚に陥る。それはとても甘美なもので、まるで一度嵌ると止められない麻薬のようだと感じた。
もう逃げられない、と私は目を閉じた。
***
数日後、やっと寝所から出た私は薔薇園に来ていた。
「蓮水様」
私を見た八雲は驚いた顔をしてこちらに駆け寄ってきた。
「体調を崩されていたとか。お体は大丈夫ですか?」
「小梅から聞いたのね」
「侍女殿が、雨の日に奥様が薔薇園に来なかったか、と聞きに来られ、その時にお聞きしたのです」
小梅がそんなことを、私は少し焦る。
「小梅にはなんと言ったの」
「初めてお会いしたときに蓮水様に秘密にするように言われていたので、こちらには来ていないと答えました」
私はほっと息を吐いた。
そして、気付いてしまった。
「私は貴方のことを初めから秘密にしたがっていたのね」
私の中でどうしたいかなんて、遠の昔に決まっていたのだ。
「蓮水様?」
私は不思議そうな顔をする八雲の手に触れる。八雲はぴくりと肩を揺した。
「貴方は本当に私を満たしてくれるの?」
私の問いかけに八雲は驚いたように目を見開いて、それから、何かを決心したように私の手を握り返す。
「はい。必ず」
私たちはそうして刹那的な愛に手を伸ばした。
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