侵食される心

 その夜。

 私は昼間の出来事が思い出されて、布団の中でなかなか寝付けないでいた。

 夫が東京で女を囲っていたことを聞いた瞬間はかなり衝撃を受けた。しかし、よくよく考えてみれば、今なお精力的に仕事に打ち込み、あれだけ財を成している男となれば、いくら地方の中年男だろうと女の影があってもおかしくないような気がした。むしろ、さして仲睦まじくもない妻が遠く離れているとなればねんごろになる女の一人や二人いるだろうとも。


 それよりも。と、私は昼間に八雲にもらった薔薇を見た。薔薇は月の光に照らされ青白く浮かび上がっていた。


『僕自身が蓮水様のために薔薇を咲かせたいのです』

『忘れないでください。僕はいつでも蓮水様を想って薔薇を咲かせています』

 頭の中で八雲の言葉が蘇る。

 どういう意味だったのか。「僕のために」だなんて、まるで私を特別に想っているような思わせぶりな言葉だった。

 私は胸が締めつけられるような感覚に陥った。初めての感覚に胸がざわつく。これまで夫には感じたことがないものだった。

 そこまで考えて、私は首を振る。

 ちょっと弱気になるようなことがあったからと言って、ほんの少し優しい言葉を掛けられたくらいで舞い上がるなんて、なんて私は浅ましいのだろうか。

 相手はまだ20になったかならないかの青年。こんな年増の女を、しかも雇い主の妻を想うなんてあるわけがない。

 わかっている。しっかり現実を見なければならない。

 でも……

 このままではこの不毛な堂々巡りで夜が明けてしまう。


 私は睡眠時間をこれ以上奪われないように、全ての思考を無理やり心の奥に押し込み、暗い眠りの淵に意識を投げ出そうとした。


***


 次の日は空をどんよりとした雲が覆い始めていた。

 私は朝から本を読んでいたが、なかなかページが進まない。

 昨夜は結局よく眠れずに夜を明かした。睡眠不足でぼうっとした頭を覚ますべく伸びをして部屋を見回すと、小梅の代わりの年配の侍女が花瓶に生けられた薔薇を手入れしていた。 

 町に出ている小梅が今日の外出日を心待ちにしていた様子を思い出し、夕方こちらに戻ってくるまで天気がもてばよいと思う。堅苦しい職場であろうし、たまには存分に気を晴らして帰ってきてほしい。


「奥様。お昼からはどうなさりますか?」

 侍女がうやうやしい態度で尋ねるてくる。

「昨夜寝付けなくて寝不足気味なの。午後は寝所で休むわ。食事の時間まで構わないで頂戴」

「かしこまりました」 

 侍女は折り目正しい所作で一礼して部屋を出ていった。


 私は深く息を吐き出して本を閉じ、寝所には向かわずに庭に出た。そして、真っ直ぐに薔薇園に足を運んだ。


「こんにちは。蓮水様」

 私に気がついた八雲は笑顔で私を迎える。

 八雲は何やら忙しそうに作業をしていた。

「これから天気が崩れるみたいなのでその前に手入れを済まそうかと思いまして」

「邪魔だったかしら?」

「いえいえ。お相手はできなくて申し訳ないですが、お好きに見て回ってください」

 そう言われたので、勝手に見て歩くことにする。

 たくさん咲き誇っている薔薇を見つつも、つい八雲のことが気になってちらちら見てしまう。

 枝葉を注意深く観察し、なにやら作業している真剣な眼差しに私の視線は引き寄せられた。

「蓮水様? 何か?」

 八雲が私の視線に気づき声を掛けてきた。

 私はじっと見てしまっていたことが恥ずかしくなって、しどろもどろになる。

「や……何も、ただ……一人でここの薔薇をひとつひとつ世話するのは大変だろうな……と思って……」

「そうでもないですよ? 薔薇たちのことだけ考えていればよいですし、人付き合いも得意ではないので、この状態は快適です」

 私が焦っているのに構わず、愛想よく答える。こんなににこやかに話をする八雲が人付き合いが得意でないことは信じがたいが、他の者と話をしているのを見たこともなく、案外都会から来た男ということで、閉鎖的な屋敷の者からは遠巻きに見られているのかもしれないと思う。

「それなら良いのだけど。仕事の邪魔したわね。続けて」

 私はそう言うとまた薔薇に視線を戻し、八雲のいる場所から少し離れ、薔薇園の奥の方へと向かった。


 一番奥へ行くと、突き当りに蔓のように絡まって生け垣のようになっている木々があった。小さな薔薇がたくさん連なっていてこれもまた可憐で美しかった。

 その生け垣をまじまじと近くで見ていると、顔にぽつんと雫が落ちてきた。そして、やがてぽつぽつと雨が降り出した。

「やだ。もう降ってきたわ」 

 まだ夕方にはもう少しある。小梅はそろそろ帰途につくあたりだろうか。

 そんなことを呑気に考えている間に雨足があっという間に強くなる。このままでは着物が濡れてしまう。

「蓮水様! 早くこちらへ!」

 慌てて走ってきた八雲に手を取られ、小さい薔薇の生け垣の裏に回り込む。

 生け垣に隠されるように物置小屋のような小屋があり、八雲が戸を開けて私を中に入れた。

 

 薄暗い小屋の中は案外奥行きがあった。手前の土間には庭仕事の道具が置かれていてその奥は板の間になっており真ん中には小さな囲炉裏があった。部屋の隅に布団が置かれているところをみると、八雲はここで寝泊まりしているのだろう。

「蓮水様これを。すみません。これが一番きれいなものになります」

 八雲が部屋の奥から手拭いを持ってきた。

 私はそれを受け取ると少し濡れた髪と着物を拭いた。少しごわついているが、使うのに問題はなかった。

「結構降ってきましたね。すぐ止むととよいのですが」

 八雲は小さな窓から外の様子を伺った。思ったより降っているようだ。これではしばらく動けそうにない。

「汚い所で申し訳ないのですが、しばし上がってお待ちください」

 促されるまま、板の間に上がり、そして差し出された薄い座布団に座る。

 物珍しさも手伝って、私は部屋を見回した。綺麗とはとても言えないが、掃除は行き届いているようで、私物はあまり無くきちんと片付けられていた。

「あんまり見ないでください。恥ずかしいです」

 八雲が顔を赤らめる。

「こういう部屋に初めて入ったけど、思ったより居られるわ」

「だとよかったですけど」 


 不意に沈黙が降りた。

 そこで、私は初めて夫以外の男と部屋に二人きりでいることに気がついた。

 急に落ち着かなくなり目を泳がせた。

 いや。でも、彼にはそんなやましい思いは何ひとつないはずだし、そんなひとり勝手に意識してるなんて滑稽もいいところだ、と自分に言い聞かせる。

 

 そこで、私は話題をひねり出した。

「貴方、使用人屋敷で寝泊まりしていないのね。あちらの方が何かと整っているでしょうに」

「始めはあちらに居たのですけどね。何かと都会育ちが鼻につくらしくて、居づらくなって物置小屋として作ったこちらに居着いてしまいました。台所番の方々は優しくて毎日食事は頂いています」

 やはり館の者とうまくいっていなかったのか。食事は出ているということでそこはまだよかった。

「困ったことがあったら言いなさいよ?」

「ありがとうございます。蓮水様はお優しいですね」

 八雲は嬉しそうにはにかんだ。その顔が直視できず、私は横を向いた。

「貴方に何かあって、折角綺麗に咲いた薔薇の手入れが行き届かなくなったら嫌だもの」

「何があってもこの薔薇園は守ります。蓮水様のための薔薇園ですから」 

 八雲の視線を感じる。じっと見られてるのがわかる。私は横を向いたまま動けない。

「いや。その『蓮水様のため』っていうのやめてくれない? なにか勘違いしそうで困るのだけど」

 私がそう言うと、一瞬沈黙が下りた。

「……勘違いってどんなですか?」

 急に声音が低くなったような気がして、八雲の顔を反射的に見ると、思ったより近くに顔があって、びっくりする。いつの間にか八雲は手がすぐ届く距離にいた。

「勘違いって、蓮水様はどんな勘違いをしたのですか?」

 さらに顔を近づけてきた八雲に私は何も言えず、体が固まったように動けなくなった。視線も逸らせない。

「その勘違い、間違ってないですよ」

「……間違って、ない?」

 私はかすれた声で問い返した。

 頭が正常に働かずに何を言われているのか理解が追いつかなかった。

「僕は蓮水様のことを愛しています。ひとりの女性として」


 ぱらぱらと屋根を弾く雨の音だけが聞こえる部屋で二人ただ見つめ合っていた。

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