貴女のための薔薇

 薔薇園からこっそり帰ってきた私は何食わぬ顔で居室に戻り、生けられた薔薇の花を見ていた。

 しばらくすると、私を探していた侍女が戻って来る。

「奥様! どちらにいらしていたのですか。探しましたよ」

 息を切らせて部屋に入ってきた侍女は、この屋敷で一番若い侍女で小梅という。この村の中では裕福な家の娘で、この屋敷で行儀見習いも兼ねて私付きの侍女をしている。

 古参の侍女に言葉遣いなど日々叩き込まれてはいるが、まだ少し砕けたところがある。私はこの堅苦しい屋敷で、そんな彼女のことを好ましく思っていた。

「書庫に籠もっていたのよ。あなたが探しているなんて思いも寄らなかったわ」

 私は平然と嘘をついた。端から薔薇園に行ったことを話す気はない。

「書庫なんて普段行かないじゃないですか。今日は刺繍を仕上げるのではなかったのですか?」 

 小梅は訝しげな顔を見せる。

「そのつもりだったのだけど、気分が変わったのよ」 

 今ひとつ納得のいっていない小梅を適当にあしらおうとした時、彼女が、あっ、と声を上げる。

「奥様! 指に怪我してるじゃないですか。それならおっしゃってくださいよ。手当て致します」

 先程、薔薇園で作った小さな傷に気がついたようだ。彼女は普段から些細なことに目敏く気がつく娘だった。

 私は怪我をした右手の人差し指を隠す。

「大袈裟ね。これは針で突いてしまったの。こんなの舐めとけば治るわ」

「いけません! ちゃんと手当てしませんと」 

 小梅がずずいと迫ってくる。


 結局、半ば無理やり手当され、指には大仰に包帯が巻かれた。すごく邪魔だ。

「これやりすぎじゃない?」

「そんなことありません」 

 キッパリ言う彼女に私はため息をついた。

 過保護なのにも程がある。

 けれども、反論しても仕方ないことはわかっているので、それ以上は何も言わなかった。


 気持ちを切り換えるべく、薔薇の花に目を遣る。そして、小梅に言い付ける。

「薔薇園の花はこれから暫くは咲き続けるのでしょう。その間、庭師に持ってこさせて、部屋に絶やさずに生けておいて頂戴」

「かしこまりました。奥様。薔薇の花、大層気に入られましたね」

 小梅はにんまり笑う。

「せっかく咲いているのですもの。愛でなければもったいないでしょう」

 小梅のその含みのある笑みが何だか気に入らず、私はそう言ってふいっと横を向いた。



***


 薔薇園を訪れてから10日ばかり経った。

 この間言い付けた通り、部屋に薔薇が絶えることはなかった。


「本日はこれで下がらせて頂きます」

 昼過ぎに小梅が挨拶にやって来た。

「久し振りに実家に帰って明日は町に出るって言ってたわね」

「左様でございます。申し訳ございませんが、明日はお暇を頂きます」

「ゆっくりしてらっしゃい」

 礼儀正しく礼をする小梅を快く見送った。


「さてと」

 私はいつもの刺繍をすることにする。

 この間から作っていたものは完成したし、今度は薔薇の花でも刺そうか。そう思い、刺繍糸の色を物色する。赤系の色が少なくなっていた。

 明日、小梅に町で買って来て貰おう。

 まだ屋敷は出ていないだろうから間に合うはずと私は彼女を探すことにした。


 屋敷の端にある侍女たちの詰め所に足を運ぶ。いきなり入っては驚かせるだろうと、そっと部屋に近づいて様子を窺ってみると、小梅の声が聞こえた。

「奥様は毎日、薔薇の花を愛でてらして。態度は素っ気ないですけど、旦那様に薔薇を頂いたのがよほど嬉しかったのでしょうね。旦那様はお優しい方です」

 小梅は邪気の無い声で言い募る。彼女は普段こんなふうに私のことを話しているのか。

「まぁ。優しいというか、旦那様の目論もくろみは成功しているわね」

 古参の侍女が意味ありげに言う。

「目論み?」

 小梅が問い返す。

「この間、東京に遣いに行った甥に聞いたのだけど、旦那様は数年前から東京の邸宅に身請けした元芸姑を囲っているそうよ」

 それは私にとって寝耳に水なことだった。

 夫が女を囲っている?

「まぁ。それは奥様が知ったらなんと思われるか」

 暫く絶句して驚きの声を上げる小梅。

「何も知らずに旦那様からの薔薇の花を喜んでらっしゃる奥様はそれこそ旦那様の思う壺よね」

 少し嘲りを伴うその声を背中に、私はそっと侍女たちの部屋を離れた。


 私は足の向くままに庭に出て、気がつくと薔薇園に来ていた。

 元より夫とは愛のある結婚ではなかったし、私も夫を愛しているわけではない。けれども、仕事一辺倒だと思っていた彼に女がいることを知って、思いの外ショックを受けている自分がいた。何も知らず侍女に嘲笑されていたことにも心を乱される。

 目の前にある美しい花々。この閉じられた屋敷で唯一心が動かされたものが霞んでいくような気さえした。


「蓮水様?」

 しばらく薔薇園で佇んでいると、不意に声が掛けられる。振り返ると八雲がいた。

「どうかなさったのですか?」

 八雲が怪訝そうに近づいてきた。

「……どうって、また薔薇を見に来るって言ったでしょ」

 私は強気に振る舞う。

「そうですけれど、何かとても悲しげな顔をされていたので」

 見られていたのだと思うと顔が熱くなった。私は彼に背を向け薔薇の花に目を向ける。

「なんでもないわ。貴方の気のせいじゃない」

「……そうですか」

 八雲はそれ以上追求してこなかった。

 そのことにほっとしつつ、初めて来た時のようにひとつひとつ花をじっくりと見ていく。そして、花に手を触れようとした。

「蓮水様。棘が」

「わかってるわよ。同じ失敗はしないわ」

 焦る八雲をよそに、指先で花弁にそっと触れた。そして、ゆっくりと顔を近づけ、胸いっぱいに甘い香りを吸い込んだ。強張った心が少し解けていくようだ。


「本当に魅惑的な香り。……ねぇ。八雲はどうして薔薇を育て始めたの?」

 沈んだ思考を断ち切るように興味本位で聞いてみる。

「身寄りのなくなったところをある外国の商人に拾われ、その家の庭師の助手として薔薇の育て方を学んだことが始まりでした」

「生活のためってこと?」 

「まぁ、始めはそうだったのですけれど今は違います。薔薇は手を掛ければ掛けるだけ美しく咲いてくれます。丹精込めて育てた薔薇が美しく花開いた時の喜びは何物にも変えられません」

 どこか恍惚とした表情で語る八雲は本当に薔薇が好きなのだろう。

「でも、折角美しく育てたのにここじゃ私と屋敷の者とにしか見てもらえない。勿体ないわね」

 本当はもっと沢山の人に見てもらいたいのではと思う。

 八雲は首を横に振る。

「僕はここに来て二年余り、蓮水様のためだけに薔薇を作ってきました。蓮水様に愛でて頂けるならそれで十分です」

 こちらをじっと見てそう言う彼に私の心は落ち着かなくなる。

「主人からそう言い付かってきてるのですものね」 

 そう。彼は夫からの言い付けを忠実に守っているだけなのだ。自分に言い聞かせるためにもそう言葉にする。

 しかし、彼はそれを否定した。

「旦那様から言われたからやっているのではありません。僕自身が蓮水様のために薔薇を咲かせたいのです」

 それはどういう意味なのか聞いてみたかったが、ここから先は聞いてはならない気がした。

「それじゃあ、これからも部屋に薔薇を持ってきて頂戴。楽しみにしてるわ」

 それだけ言って私はそそくさと屋敷に帰ろうとした。


「あっ。待ってください」

 彼は私を引き留める。持っていた鋏で薔薇を一本切出し、丁寧に棘を取った後で私に差し出してきた。

 彼から手渡された大輪の黄色い薔薇は今まで嗅いできたどの花よりも甘く匂い立っているように感じた。

「忘れないでください。僕はいつでも蓮水様を想って薔薇を咲かせています」


 彼の真摯な言葉に私の胸に何かが芽生えたような気がした。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る