薔薇と蓮
万之葉 文郁
運命の出会い
「奥様。おはようございます」
私は侍女の声掛けを待って布団から起き上がり、身支度を始める。
髪を
『人生、
それを悟ったのはいつだったか。
「お前も妥協しろ」
そう言われた時、私は怒りを通り越して呆れしかなかった。私が20歳を過ぎても結婚できなかったのは、親たちが嫁ぎ先の条件を妥協しなかったからだ。それを彼らはさも当然と私のせいにした。
結局、彼らは娘をより多くの金に換えられるというだけでこの縁組を決めた。娘のこれからの人生などまったく頭になかっただろう。
血筋だけが高貴で、没落寸前だった生家。
末娘の私は時流に乗って成金となった地方の大地主の後添えとして山奥の村へと嫁がされた。
品性の欠片もない中年男である夫だが、商才だけはあったようで、嫁の実家の名前を存分に利用し大いに成功した。数年前に東京に屋敷を構えてからは本家があるこの村にはほとんど帰ってこない。大層羽振りが良いようである。
私は田舎には不釣り合いな立派な屋敷で侍女に囲まれて何の不足もなく、けれども自由もない生活をしていた。万が一にも逃げ出さないようにしっかり囲われている。嫁の実家の家名が田舎者の彼の信用になっていたからだ。
私はもう30歳手前。ここで何を思うことなく人生を終えるのだろう。
物思いにふけっていたところに、嗅ぎ慣れない匂いが鼻に届いた。
その元を辿ると、飾り棚の花器に侍女が色とりどりの花を生けていた。和室には少々不釣り合いな華美な姿と匂いの花だった。
「その花は?」
私の問いに侍女はかしこまって答える。
「庭師より届いた薔薇の花でございます。以前、奥様がこの花を気に入られたのを見て、旦那様が庭に薔薇園を作るようお命じになったのです」
確かに、だいぶ前に気まぐれに帰ってきた夫から貰った薔薇の花の華やかさに感動したことがあった。普段、私のことなど放っているくせにこういう機嫌取りには本当に如才がない。
私は花器に生けてある薔薇を一つ抜き取り、自分の鼻に近づけた。甘い香りが鼻孔を擽る。
「良い香りね」
夫の機嫌取りの道具とわかっていても、その花は美しく、思わず笑みがこぼれた。
「庭園の奥の一角に薔薇園が作られていて、それはそれは素晴らしいですわよ」
侍女の言葉に私は口を引き締めた。
「そう」
努めて気のない返事をし、興味がなさそうに目を細めた。
***
正午を過ぎてからの時間は一人で過ごしたいからと侍女を部屋から遠ざけていた。侍女にとっても息抜きの時間だ。
今日はいつものように刺繍を刺して過ごそうと思っていたが、思い立って庭を散策することにする。
この屋敷の庭は広大な上に手入れが行き届いていて、散策するにはうってつけだった。
侍女たちは私が戸外に出ることをあまり良い顔をしないが、それで気が晴れるのならと思っているのか表立って諌めることはなかった。
居室の縁側から庭に降りる。そして、足早に緑の深い方に入っていった。
普段はそんなに遠くへは行かないが、今日はいつもは行かない所まで足を運ぶ。
しばらく歩いていると、かすかに部屋で嗅いだあの甘い匂いを感じた。私は匂いを頼りに歩を進める。すると、緑の木々の奥から薔薇の花が咲き乱れる一角が現れた。
「まぁ。なんて見事な」
私は思わず感嘆の声を上げていた。
大輪の花から小ぶりのものまで様々な種類のものが競い合うように咲いていた。
近づいてみると、大輪の花といっても株ごとにいろいろな形があった。どれも綺麗で夢中で見て回る。
「何か御用ですか?」
ふいに後ろから声が掛かりビクリとする。振り返ると、大柄の青年が立っていた。まだ20歳そこそこだろうか。日に焼けてがっしりした体格をしている。この屋敷で若い男を見るなど珍しかった。
「薔薇を見に来たの。貴方は誰?」
私は青年を真っ直ぐ見据えて尋ね返した。
「僕はこの庭園で薔薇を育てるために雇われた者です」
はきはきと答えるその姿はどこか垢抜けた印象を受けた。
「この村の者ではないわね?」
「はい。東京の薔薇園で働いていた時に旦那様に声を掛けられてこちらに参りました」
「よくこんな山奥まで」
「旦那様に金に糸目はつけないから日本一の薔薇園を作ってくれと言われたので、喜び勇んでやってきました」
目を輝かせて返事する青年は本当に薔薇を育てるためだけにこの山奥の村にやってきたようだ。
「薔薇が本当に好きなのね」
「はい!」
彼の曇りのない瞳が眩しくなり、私は目の前の薔薇に目を移した。真紅の薔薇。その吸い込まれそうに深い赤に自然と手が伸びた。
「あっ、棘が!」
「えっ」
青年が声を上げたと同時に指先にちりっと痛みが走る。右手の人差し指を見ると、小さな傷がついていた。薔薇の茎にある棘が刺さったらしい。
傷口にぷっくりとした血の玉ができた。
私の中から外に出てきたその血は薔薇のように真っ赤だ。それを見た私の胸はどくんと跳ね奥が熱くなった。
血を見て止まっている私の傍までやってきた青年はどうしたらよいかわからず、あたふたとしていた。不用意に私に触れるわけにもいかず、かといって渡せるような布も持っていないようだった。
「申し訳ありません」
青ざめて謝ってくる青年に私は自然と笑いがこみ上げた。
「貴方が悪いわけではないでしょ。私の不注意ですもの」
そうして、自分の血の溢れた指をペロッと舐めた。ほろ苦い血の味が舌に残る。
「こんなの舐めとけば治るわ」
そう言って再び指に口付けて青年を見遣ると、青年は顔を赤くして私の様子をじっと見ていた。
二人視線を合わせたまま時間が過ぎる。
「奥様〜!どちらにいらっしゃいますか?」
遠くで侍女が私を探す声が聞こえ、二人の間の空気が緩んだ。
「もう行かなくては」
私は屋敷の方を見た。
「貴方。名前は?」
青年に尋ねる。
「……
「八雲。私に会ったことは誰にも秘密、ね?」
私は人差し指を立ててそう言った。
「奥様」
八雲が私を呼んだ。なぜだか心がちくりと痛んだ。
「
「蓮水様?」
「まぁ、いいわ。薔薇、また見に来るわね。八雲」
私はそう言い置いて、屋敷の方へ踵を返した。
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