『天盤』 作 神谷 咲妃
以前より自分がおかしくなった気がする。
今までずっと自分の中身を誰にも見せないようにして、嫌な思い出はその人間関係ごと全部切り捨ててきた。簡単に縁を切りリセットしてやり直す。そういうやり方をしてきたはずだった。
なのに律には凪のことで散々中身を晒して、それでも一緒にいたいと思って。凪にはずっと切り捨てたかった思いを掘り出して謝って、また縁を繋ぎ直した。
自分の中では大きな変化であるそのことを律に話したら、そういう気分の時もある、と言われまあそうなのかと呑み込んでしまったけれど、以前ならそんなことも人になんて話さなかったはずだった。
律と凪。いつも一緒にいるわけではないけれど、その二人のおかげで今までの息苦しさは少し弱まった気がする。物心ついた時から漠然と感じてきた息苦しさ。その正体がなんなのかもまだ依然としてわからないけれど、姉に頼り過ぎていた頃よりかは自分の目を向ける範囲が広がった気はする。
一番近くにいた姉や身近な友達すら見えていなかった。自分のことだけで精一杯だった。今だって自分のことでいっぱいいっぱいになっているが、自分のことを見てくれた人に同じだけのものを返したいと思えるようになった。
自分の中に余裕ができたと言えばいいのかもしれない。その余裕だってたいしたほどではないが、学校、家、と拘束されていた場所とは別のところに逃げ込める場所ができたから、来てもいいと言ってくれるところがあったから、少しは安心して自分以外を見ることができたのかもしれない。
最初は夏が嫌いで暑さから逃れるためだけに入り込んだところだった。彼は何も聞かないし彼自身のことは何も教えてくれなかった。でもそれがその時の自分にはとてもありがたかった。ただ居てもいいと言ってくれるだけで嬉しかったから。楽になれたから。
ずっとそこにいることが許されればと思った。
♦
次の日、また凪と一緒にあの画廊へ行った。まだなんとなく凪は彼を警戒しているようだったが、胡散臭さでは他の大人の追随を許さないのが彼なので仕方ないだろう。もちろんまだ名前なんて教えてもらえてない。一体いつになったら教えてもらえるのか。
シャーペンをノートに走らせながら必死に彼のことを頭の隅に追いやる。今は勉強しようとしてるのだから、出来るだけ余計なことは考えないようにしないと。
「今日は大人しいな」
「凪くん、人の勉強の邪魔するの良くない」
「いつも俺の邪魔するのはお前だろうが」
目の前に座って同じく勉強していたはずの凪に話しかけられて顔を上げる。
「勉強してるんだから大人しいよ」
「そうじゃなくて、今日はあの人に突っ掛からなかったなって」
「そう言えばそうかもね」
「……てっきりもう名前を聞き出すのは諦めたのかと思った」
律もそうだが目の前にいる凪も殊の外自分のことをよく見ている。それともそんなに自分がわかりやすい奴なのか。
昨日の律の言葉を聞いてから彼の近くにいると頭がぐるぐるして自分がまともな状態でないと感じる。昨日だって顔が赤くならないように堪えるので精一杯だった。一晩経ってもそれは変わらず、凪の前で変なことを自分が起こさないよう、なるべく自分からは彼に近づかないようにしていた。
律にはもう彼を思ってることがバレたが、バレたというか指摘されたが、凪には何となく気づかれたくはなかった。異性の友達と同性の友達の差なのだろうか。
彼の名前は知りたいことは知りたいが、凪の前で自分のまともでない状態を晒したくはなかった。
日も暮れ、いつもの如く彼に礼を言って画廊を出た。誰もいない道を凪と並んで自転車を漕ぐ。適当に口を開いて思ったままのことをそのまま話して、そんなことをしていたら凪と別れる地点まで来ていた。
一度止まってじゃあ、と言い掛けたがそれは中断される。
「お前あっちの神社の祭り覚えてる?」
「あっちってどっち」
「毘沙門天の方だよ」
画廊がある神社とは別の方か、と考えを巡らすがはっきり言ってあまり覚えていない。多分近所の祭りだから行ったことはあるだろう。姉と行った気もする。
でもそれは小学生の頃で中学の頃はあまり覚えていない。思い出したくなくて卒業式の凪のことを除いて自分から記憶丸ごと切り離したのかもしれない。自分のすることだからありえそうなものだった。
「覚えてないですね」
「まあいいけど、倉岡とあと他にも誰か来るかもだけどみんなで行ってみないか?」
倉岡とは律のことで律と凪が行くなら行ってみたい気はする。誰かの部分が不確定で気にはなるが。微妙な顔をしていたのがこの暗がりでもバレたのか凪が苦笑いを浮かべる。
「変なやつは呼ばないって。嫌なら呼ぶのもやめとくか?」
今年は市の行政が頑張ったらしく近場で花火も観れるらしい。
「行けたら行きます……」
「それ行かないやつだろ」
「そんなことないです……」
行きたい気持ちはもちろんあるし、友達に自分のことを配慮してもらってることもわかる。でも、長らく友達と遊ぶことを避けていたからかなんとなく頷きにくかった。
律とだってこの前赤本をもらいに行った時くらいで、他の時は他人を避け続けていたから遊びになんて行かなかった。その方がずっと自分は楽だったから。
「まあ、行くなら俺が倉岡に言えよ」
「わかった……」
また凪に気を使わせてしまっただろうか。ここで自己嫌悪を起こしかけるならその場で凪に行くと伝えればよかったのに、あやふやなままなんとなく凪と別れた。
誘ってもらったのは素直に嬉しかったが、自分といて果たして楽しいのか、何かやらかさないかと、凪や律に対しては大丈夫だと思っていた不安が首をもたげる。
自分は常々ろくでもないのかもしれない。用事がある時ならば会えても、用事のない時に会う価値が友人たちにとって自分にあるのかずっと考えてしまう。
せっかく取っ払ったと思っていた壁をまた凪や律に作ってしまいそうで、そんな自分がまた嫌になった。
♦
「白乃から祭りのこと聞いた?」
翌日、律に会ってかけられた一言目はこれだった。
「あー、聞いた」
「蓮もおいでよ、女子一人になる」
「なんだそれ」
律は行く気らしい。律からも誘われ行きたい気持ちが膨れ上がる。が、それでもまだ怖かった。
「祭りの日にちっていつだっけ……もしかしたらどこかで家族と出かけるかもしれなくて」
聞きようによっては明らかに行かない口実を着々と作り上げているように聞こえるだろう。それでも律は特に気にもせず答えたてくれた。
「8月の31日。今週末。夏休みの最終日って凪が言ってた」
「8月31……」
果たして自分は行けるだろうか。とりあえず律に考えておくと伝えてその場は逃れた。
♦
今日も夏期講習が終わった後は一人だった。凪もなかなか忙しいらしい。別に一人でだって構わないし、なんなら一人の方が気楽なのは変わらない。
そんなことを考えながら画廊の扉を開ける。彼を探そうとうろうろと歩き回る。まずは一階。フロアを1つ1つ覗いて回るが彼はいなくて、ならば二階かと階段を上る。それでもざっと見れるところには彼はいなくて、あと見ていないのは彼が入れてくれなかった奥の部屋だけになった。もうそこを見るしかないが、まあ入らないしノックをするくらいなら許してもらおうと奥へ進む。
その部屋の扉は相変わらず重厚で大きくピタリと閉じられている。さてノックをしようとした時、ガチャリと扉の片側が開いた。
「ああ、ごめんね。また探させちゃったね」
いつもとは違って下で緩やかに淡い髪をまとめた姿の彼が部屋から出てきた。びっくりはしたが最初からここにいるだろうことには見当がついていたし、彼の神出鬼没にま流石に慣れてきた。慣れないのは最近彼を見るとぐるぐるするこの頭だが。
出てきた扉をまた閉じて、彼は少女に向き直った。
「そう言えば、君に伝えないといけないことがあってね」
「?」
「明日からここをしばらく閉じないといけなくなったんだ」
「え」
どうして。まず思い浮かんだのはそれで、そのあとで何が自分がやってしまったのかと不安が駆け巡る。いつ、何が、ダメだったのだろう。固まっている少女を宥めるように彼は優しく話す。
「ごめんね、これは僕自身の問題だから」
君がここを使ってくれたのはとても嬉しかったよ、と彼に言われさっきまで固まっていた体が幾分解れる。
「明日から少し出る準備でここを閉じて、31日まではこっちにいるけど、その後はイギリスに戻ろうと思って」
「イギリス?」
突然出てきた単語に目を白黒させていると、また彼はくすりと笑った。
「イギリスにね、実家があるんだ。少し父親に会いに行こうと思って」
どうやら里帰りらしいということを聞き、自分が原因でない理由に安堵するとともに、彼の今まで知らなかった情報が次々と出てくることに驚く。
「君のおかげだよ」
「ん?」
先ほどから首を傾げているばかりの少女を見て、彼はさらに笑みを深める。少女からすれば彼に対して何かした覚えなどない。居場所をもらっていたのは自分の方で。
「君にここの絵画たちを見てもらうのも多分最後になる。どんな絵が見てみたいとかある?」
最後という言葉に途端に悲しくなってくる。この居場所をくれたから。もしかしたら会うのも最後だろうか。
「なら、お兄さんが描いた絵を見たいです」
なぜか泣きたくなってしまう気持ちを抑えて彼を見上げる。彼はしばし目を瞬かせていたが、フッと笑い背の扉を開けた。
「じゃあ、こっちへおいで」
♦
今まで彼から入ることを許されなかった場所。そこは広々とした書斎だった。しかし壁際に連なる棚には本の他に薄い箱が夥しい数しまわれていた。そして部屋の至る所に何事か書かれた紙の束と色とりどりのまだ額に入っていない絵が置かれていた。そして窓際にはイーゼルに立て掛けられたキャンバスに沢山の絵具や絵筆。
「棚に置いてあるのは全部祖父のコレクション。床に散らばってるのは僕が描いていたもの」
「お兄さん、画家だったんですか」
「どうだろうね」
また笑ってはぐらかされたが、彼が今まで自分をここに入れなかった理由がなんとなくわかった。ここは彼のアトリエでもあった。
「こっちだよ」
イーゼルの方へと手招きされ彼の隣に立つ。と、立て掛けてあるキャンバスが既に出来上がった絵なのだと気づく。
「星だ……」
それは星空だった。緻密に無数に光る星。明るく眩く光る星、儚く消えそうになりながらも光る星。しかしそれは真っ暗な夜空ではなく、まだわずかに太陽の光を滲ませる色。黄昏時のような空の色だった。星座の下にそれを模したシルエットが描かれているが、なんだか自分の知っているものと何か違う。自分の記憶違いかと首を傾げると隣で彼が笑う声がする。
「これはちゃんとした星空じゃないよ。僕が勝手に好きな星座だけ好きなところに置いただけ」
自分の中の疑問が解けた。星見表を見た時と配置が違ったから不思議と感じたのだ。
「君が好きだと言ってくれたから」
「?」
「あの出来損ないの絵を君が気に入ってくれたから、久しぶりに好きなように描いてみようと思った」
優しげに笑う彼の横顔を見て、顔に熱が集まってくる。
「この絵の題は何ですか」
「……天盤」
数多の星を抱え空を閉じ込める大きすぎる盤。こんな空ならいいと彼が思い、描いたのならそれ以上に綺麗な空はないだろう。
「この絵はどうするんですか」
「そうだね、捨てるかな」
「なんで?!」
くすくすと笑いながら驚いている少女の頭を撫でる。
「売るつもりで描いているわけではないし、本当に好きなように描いたんだ。楽しかったからもう良いかな」
「……なら私が欲しいです。この絵も綺麗で好きだから……」
捨てるのはひどいと、彼に訴えれば目を細めてありがとうと、嬉しそうに微笑まれる。
「そう、ならもう少し仕上げないとね」
「完成じゃないんですか」
「君がこの絵をもらってくれるならもう少し手を加えておきたい」
うーん、と手を組み彼はしばし考えていたが、にこりと笑い口を開く。
「明日からここは閉めてしまうけど、31日の夕方には仕上げておくから、そのころ、ここにおいで」
「はい……」
ここへ来たのがすでに日暮れ近くだったためか、外はもう暗くなりかけていた。窓の外を見て、彼が申し訳なさそうな表情をする。
「ごめんね、今日は勉強できなかったね」
もう帰りなさい、と部屋の外へ促される。言われるがままに少女が廊下に出たのを確認して、彼が再び書斎に戻ろうとした時、思わず彼の右腕を僅かに引いた。少女が彼の手を両手で掴んでいた。俯いて表情は読めない。
「どうしたの」
「あ、の」
彼の手をぎゅっと握り、つっかえながらも必死に言葉を紡ぐ。
「あなたの、名前が知りたいです」
教えてください、と最後の方はとても小さくなってしまって彼に聞こえたかわからない。咄嗟に手も掴んでしまって少女の方がパニックになっていた。やっぱり今の自分はまともじゃない。
彼のアトリエに入れてくれて、彼の絵を見せてくれた。それだけでも嬉しくて、でも嬉しいと思うほど彼の名前を呼べないのが苦しかった。顔が熱くて息がしずらくて、俯いて硬く目を閉じて、彼の返事を待った。
「……咲妃」
「え……」
「神谷咲妃。僕の名前」
ハッとして顔を上げる前にまたぽんぽんと頭を撫でられる。
「さあ、もう帰りなさい」
掴んでいた手もするりと抜けて、そのまま肩を掴まれてくるりと彼とは反対方向を向かされる。
「31日の夕方、またおいで」
それだけ言って、後ろで彼が部屋に戻った気配がした。
取り敢えずここから出て言われた通り帰らないとと、思いながらも頭の中は彼に名前を教えてもらった喜びでいっぱいで、気をつけていないと顔が緩んでしまいそうだった。
画廊から出て扉をバタンと閉める。そのまま背中を預けてもたれかかる。
「サキさん」
どんな漢字を書くのかもわからないし、もしかしたら偽名という線もある。が、今までになく嬉しくて、思わず言葉にしただけで顔が熱くてたまらなくなってしまって、あたりには誰もいないのに顔を覆って、心の中で彼の名前をまた唱えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます