『rough sketch』

 自分につけられたこの名前は、自分の名前であって、しかしそうではない。咲妃という名は母の名で、神谷という名字も母の旧姓で、つまりはそっくりそのまま母のものだった。

 母は生まれつき体が弱かったらしい。自分を出産して、そしてそのまま亡くなったそうだ。父は母をとても愛していたらしい。だからこそ、伴侶の死に耐え切れなかった。そんな父が残された赤子に縋るようにつけた名が咲妃という名だった。

 ここまで全て、伝聞のようになってしまうのはそれこそ全部祖父から聞いたことだからで、自分の預かり知らぬところで起きたことだからだ。

 父は何も話してくれなかった。一番古い記憶は目の前を歩く父の歩幅に追いつけなくて、父さんと呼びかけた時に振り返り無表情で自分を見下ろしていた父。

 話しかければ顔を向けたがいつも無表情で父から何も話さず、いつも自分の部屋である仕事場に篭って出てこなかった。自分でこの名をつけたくせに一度も呼んではくれなかった。ネグレクトを受けていたわけではない。衣服も食事も望めば玩具も与えてもらった。

 でも父から褒められた記憶も、手を繋いでもらった記憶もない。いつも温度がなくて、父が向ける視線は自分を見ていても何も映していないことくらい物心つく頃にはわかっていた。いっそ女であれば良かったのか、そうでなくても日本人の母のような顔立ちであれば父は見てくれたのか。気づけばずっとそんなことを考えていて、父の部屋の前で開かない扉を見つめていた。

 学校へ行く年になって、大勢の同い年の子供を見て明らかに自分とは違うと感じた。

 意欲、興味関心、学校に上がる年代なら当たり前に持っていていいものが自分にはなかった。何より唯一関わりのあった父とろくに話をしていなかったせいで対話能力が著しく遅れていた。押し黙って先生の顔色を伺って、家に戻ったら口を開かない父と過ごした。幸いにも勉強は周りの子供と同じようにできた。

 学校の先生は全く話そうとしない自分を気にかけてくれてはいたが、好意や配慮の受け取り方もわからなくて、自分に向けられる何もかもがわからなくて怖くていつも逃げ隠れしていた。学校でも家でも変わらず息苦しかった。

 イギリスでは7月下旬から9月の上旬まで長期休みに入る。それが終われば進級することになる。また父と一日中閉じ籠る日々が始まった。


 初めての長期休みに入って3日目。家の玄関のベルが鳴った。たまたまその時に父が外出していて、ベルが鳴るといつも父がやっていたように扉を開けてしまった。


「おや、君一人だけかい?」


 腰を落とし視線を合わせ、流暢な英語で話しかけてきたのは見知らぬ老人だった。


「君のお父さんはどこだい?」


 首を横に振って答えると、目尻を緩め大きな手で頭を撫でてくれた。


「お留守番かい?偉いねえ。利口そうな孫で何よりだよ」


 孫と言ったか。頭を撫でてくれた目の前の老人が自分の祖父だと認識した途端、ボロボロと涙が際限なく溢れた。黙ってただただ涙を零す自分を見て祖父は悲しそうに笑って抱き上げてくれた。


「そうかい。やはりこうなってしまったか。すまなかったね……もっと早く君に気付いてあげられればよかった」


 家に入ってもなかなか泣き止まない自分を、祖父はずっと膝の上に乗せ宥めていた。背中をゆっくり叩いてあやしながら祖父は口を開いた。


「私はね、一条逢間という。君の父親のリチャードは私の息子だ。君はあの子の子供だね」


 ぽろぽろと相変わらず涙をこぼしたまま首を今度は縦に振ると、祖父はそうかい、と頷いた。


「君の名前はなんだい?言えるかい?」

「……サキ」


 喉が震え、ちゃんと声らしい声を今まで出してこなかったせいで果たして祖父に聞こえたかどうかはわからないが、祖父はしっかりとこちらを見て何度も頷いてくれた。


「咲妃。君の名だ。ちゃんと君の名前だ」


 いよいよ頭の中がぐちゃぐちゃになってしゃくり上げて泣き始めた自分を変わらず宥めながら、祖父はある提案をしてきた。


「咲妃。長期休みの間、私と一緒に日本においで。君の父親には私から言っておこう」


 祖父にしがみついて何度も頷いた。


 ♦


 しばらく経って疲れてようやく泣きやんだ自分の手を引いて、さあ行こうと、そのまま祖父とともに日本へ向かうことになった。

 道中、祖父が手を引いてくれるのが嬉しくてたくさん自分に向けて話してくれるのが嬉しくて、自分からも会話をしておかげで声もちゃんと出るようになった。

 日本に着いて、感じたことないほどとても暑くて驚いた覚えがある。空港からバスや電車、いろんなものを乗り継いで着いたのは自然が多く残る田舎の町だった。じりじりとする暑さでくらくらしながらも祖父の手を握って歩いた。

 すると途端にひんやりとした空気が流れてきた。顔を上げると青々とした木々に囲まれた木造の建物と赤い門のようなもの。


「ここは神社だよ。神様がいるところ。みんなが願うところ」


 何のことかわからなかったが、祖父がやってごらんと言うから、真似をして水を掬って手を洗った。思った以上に冷たくて、驚いて祖父を見上げると笑って頭を乱暴に撫でられたから、それにまた安心した。

 奥にある二つ目の建物をぐるりと回り込むとまた道があった。自分の横をゆっくりと歩いてくれる祖父を何度も見上げて確認していたらまた抱き上げてくれた。

 しばらく歩いて、開けた場所に出る。白塗りに濃い赤茶の屋根。大きな洋館が建っていた。


「ここが私の仕事場だ。そしてこれから君の居場所となるよう願っているよ」


 そう言って祖父は大きな扉にガチャリと鍵を差し込んだ。


 ♦


 中はまだ新しい建物の匂いがした。壁も一面真っ白でどの部屋も物が極端に少なかった。


「一年前に新しいアトリエが欲しくてここに来たんだが、なんとも広すぎてな」


 祖父は有名な画家であり、画商でもあった。祖父の仕事部屋は二階の一番奥の書斎だった。仕事場に自分を入れてくれた時はひどく驚いた。父は絶対に自分の部屋には入れてくれなかったから。

 書斎のくせに気が向けばイーゼルを引っ張り出してきたり、かと思えば洋館の広いホールの床で絵を描き始めたり、祖父は自由に好きなようにやっていた。だから自分も好きなようにやっていいと言ってくれた。

 と言っても基本はずっと祖父にくっついて回っていた。祖父が仕事部屋にいれば同じ部屋の中で課題をして、祖父がホールで絵を描いていれば、隣で寝転がって見様見真似で絵を描いていた。一緒にいるのを許してくれることがとても嬉しかった。何より絵を描いて見せると毎回いろんな言葉をくれた。


「本物よりそれらしい!いいじゃないか」

「咲妃にはそう見えるならそれが一番いい物だ」

「綺麗な色を見つけたね。よく見ることはとても大事だ」

「はっはっは、星空がめちゃくちゃだな。本当の空もそうなったらさぞ美しいだろう」


 ちゃんと自分を見てくれる祖父が大好きだった。ここはあっちの家や学校のように息苦しくなかった。このまま祖父と居たいと思った。しかし、長期休みは所詮は1ヶ月程度、学校が始まる時には帰らなければならない。目に見えてしょげていた自分を見て祖父は言った。


「ここは君が居ていい場所だ。いつでも来ていい。なんなら、また私が迎えに行ってあげよう」


 明らかな逃げ場を祖父が作ってくれたのが嬉しくて、今まで持てなかった居場所をくれたのが嬉しくて、また堪え切れずに祖父に抱きついて泣いていた。


 ♦


国に帰ってくると空港には父が迎えに来ていた。祖父と一緒にいる自分を見てもやはり無表情で。あそこに戻らないといけない、そう思うととてもつらくてまた苦しくなった。


「大丈夫。咲妃なら大丈夫だから。顔を上げなさい」


 そう言って祖父は背中をトンと押し出してくれた。押されるままに父の元へ駆け出し祖父を振り返る。祖父がまだこちらをちゃんと見てくれているのを確認して、手を振って別れた。


 家に戻るとやはり変わらず父は何も話さない。それでも来年の長期休みまで上手くやろうとそう思えた。


 祖父とたくさん話したおかげで会話もスムーズにできるようになり、学校でも前ほど苦はなく過ごせるようになった。それでもやはり自分はここにいてはいけないんじゃないかと漠然と思っていた。


 ♦


 毎年長期休みには祖父が迎えに来る。それを支えとしてずっと過ごしていた。

 8歳になった長期休みの1日目。玄関のベルが鳴る。きっと祖父だと出迎えようとしたが、扉へ向かったのは父だった。父が扉を開けて何事もなく祖父がこちらへ向かってくる。


「また背が伸びたなあ、咲妃。ここで待ってるから出掛ける準備をしておいで」


 返事をして自分の部屋に入る。扉を閉める直前に祖父と父が向かい合って何事か話そうとしているのが見えた。

 何を話しているのだろう。自分のことだろうか。自分には聞かれたくないことだろうか。そう言えば父は長期休みが終わると毎回必ず空港に迎えにきてくれる。だけど、父にとって自分はいらないものではないのか。なんなら祖父に押し付けようとは思わないのか。どうして父は何も言ってくれないのか。

 そんなことをぐるぐる考えながら支度を済ます。一瞬部屋のドアを開けるのを躊躇したが、外から話し声が聞こえなかったのを確認してガチャリと開く。と、父と祖父が揃ってこちらを見ていた。


「おお、終わったかい。では行こうか」


 そう言って祖父に外へ促される。玄関を開けた時には父はもうこちらを見てはいなかった。


「父さん……行ってきます」


 聞こえるかわからないほど小さな声。当然父にも聞こえてはいないだろう。いや、聞こえていたとしても答えてはくれないだろう。バタンと扉が閉まる。


「がんばった」


 祖父にガシガシと頭を撫でられ、視界が滲む。どうして祖父の前だとこう泣いてばかりなのだろう。


 ♦


 祖父とまたあのアトリエに戻ってくる。前来たときとは内装が少し変わっていた。というか、絵が増えていた。


「新しいのを描いたの?」

「いや、みんな別の人が描いたものだよ」


 どうやら祖父は絵画の収集を始めたらしい。それも無名の人々が描いた絵を。


「それを好きだと思ったのだから好きになったんだ。気に入ったものに有名も無名もない」


 そして少しずつ増えていたこの絵画たちの持ち主の話を教えてくれた。


「これはやけくそで自分だけの神様を描こうとした奴の絵でな。愉快だろう。描いた男も実に愉快で楽しい奴だった。いい酒が飲めた」

「この絵は対になっていてな。私の友人が描いたものだよ。私も友人に絵を送った。また会いたいものだ」

「この小さな絵は実は人の目を表している。描いたのは日本人だ。人の視線が嫌いで常にサングラスをつけている男だった。そのくせ妙にお洒落でな。サングラスがとても似合っている」


 集めた絵画たちとその作者の話をしている祖父はとても楽しそうで、絵画だけでなくその人丸ごと気に入ったのだということがよくわかった。


「ここは私のアトリエだが、もっと絵を収集して画廊にしようと思っててな。ここに来た人にいろんな絵を見ていろんな人に触れて欲しい。そう願うよ」


 祖父が楽しそうならそれでいいと、そう思って聴いていたらガチャリと一階の玄関扉が開いた音がした。誰が開けたのかとびっくりしていると、祖父がそのまま玄関ホールに行こうとするから慌ててついていく。


「一条さんお邪魔しますー」

「ああ、こんにちは」


 聴き慣れない日本語のやりとりに階段から声の主を探すと、扉の前には和服姿の男性と自分によく似た容姿の子供がいた。バッと祖父を見るとおかしそうにくすくす笑っていて、呑気に男性の方へ向かい会話を続行した。


「久しぶりですねー。最近見かけませんでしたが」

「宮司の引き継ぎがようやく終わりまして。今日は息子を連れてきてみたんですが」

「おお、君が由月くんかい。お父さんには似てないねえ」

「やさぐれる前から金髪なんですよ。あれ?お孫さんは?」

「ああ、あっちに隠れてますよ」


 おいでと、祖父に呼ばれて近づくと自分より少し幼い子供が目を丸くしてこちらを見ていた。


「由月くんは咲妃より二つ下の子だよ」


 そうは言われても、どうしたらいいのか。


「お兄ちゃんだあれ」


 おそらく日本語であろうが、何を言っているのか分からなくて子供二人で首を傾げる。それを見て愉快そうに笑う大人。


「まあ、一緒に遊んでればそのうちなんとかなるでしょ」

「篠宮さんとこの子も賢そうだ。またいつでも遊びにきなさい」


 そう言って和服姿の男性は見知らぬ少年を連れて去って行った。終始ハテナを浮かべていた子供らの様子を見て祖父は満足したらしい。


「咲妃にも少し日本語を教えてあげよう。そうすればあの子とももっと話せるようになる。さあ、こっちにおいで」


 それから少しずつ祖父から日本語を教えてもらうようになった。自分の名前が日本の漢字だということも初めて知った。そうするうちにあの由月という少年ともよく会うようになった。


 ♦


「咲妃!うちの裏山で父さんがクワガタ捕まえたんだ!見に来いって!」

「わかった、行くから引っ張らないで」


 二つ下の由月はとても活発な子供だった。父親が年甲斐もなく自由な人だというのもあるのだろう。自由に思いっきり手足を伸ばすように遊び、過ごしていた。

 2年も経てば日本語の読み書きはまだまだでも会話ならばなんの差し支えもないほど上達した。由月は再従兄弟なのだと、祖父から教えてもらった。祖父の弟が由月の祖父にあたるらしい。そして由月もイギリス人の血が入っているようで、はたから見れば兄弟のような顔立ちに見えるだろう。

 最初から手放しで懐いてくれた由月の存在も祖父同様、とてもありがたかった。そして由月はとても人をよく見る子でもあった。また家に帰る日が近づいた頃、由月がいつもの通り画廊へ遊びに来た。が、いつものように手を引いて外へ連れ出したり、画廊の中を駆け回ったりはしなかった。目の前に立ってじっと顔を覗き込んだかと思えば、


「咲妃のしたいことで遊ぶ」


 そう言って、こちらを伺っていた。外に行かないの、と聞くと咲妃が行きたいなら行くと。由月は何がしたいかと聞くと、咲妃のしたいことがしたいと。いつも活発な由月に連れ回されていたこちらとしては少々面食らってしまった。どうしたのかと聞くと


「咲妃の元気がないから、咲妃がやりたいことをやるのがいい」


 そう返した。年下の少年に心の機微を見透かされていたことにとても驚いたが、幼い由月の真っ直ぐな優しさが嬉しかった。


 その日の夜、祖父に尋ねた。


「僕はここに逃げてきてるのかな」

「どうしてそう思う」

「だって、家に居ないといけないのに嫌だからこっちに来てる」

「それはダメなことかい」

「逃げるのってよくないでしょ」


 そんなことはないと祖父は大仰に言う。


「逃げる事は決してダメなことではないよ。辛い目にあった時、その相手に攻撃をするか争いを避けるかで選ぶことができる。人は簡単に攻撃に打って出る。大抵のことを無視すれば相手を傷つけることなんて難しいことじゃない。子供だって武器を持てば大人を倒すこともできる。しかし、手を上げずに相手も自分も傷つかない距離を取る。その行為はとても優しいものだ」


 咲妃は優しい子だよ、と言って祖父は頭を撫でてくれた。その時は何を言っているのかはよく分からなかった。


「それに居なければならない場所なんてないさ。いろんなところに咲妃の居場所がある」


 果たしてそうだろうか。本当にそうならどんなにいいだろうかと願ってその日は眠った。


 家に帰る日、由月が父親と一緒に神社の前で見送ってくれた。


「また来年な!待ってるから!」


 祖父以外にも自分の居場所を認めてくれた由月の短いその言葉が、家への旅路の気持ちを軽くしてくれた。


「またね」


 由月のように大きな声ではなかったけれど、由月には聞こえたようで快活に笑って大きく手を振ってくれた。


 故郷の空港に着くと、相変わらずなんの感情も映さない父が待っていた。毎回だ。毎回、父の元へ戻るのは怖かった。しかし、その度に祖父が背中を押す。


「大丈夫。咲妃なら大丈夫だから。顔を上げなさい」


 ♦


 ある年から、祖父の絵の収集に連れて行ってもらえることになった。長期休みの間に1度、5日ほどどこか遠いところへ行く。行き先は日本国内だったりヨーロッパだったり。祖父の気が向いたところへ向かった。赴いた場所であれは何、と聞くたびに笑って答えてくれる祖父との旅は毎回とても楽しかった。

初めて行ったのは日本の東京。大学の講師をしていた女性から祖父はある絵画を譲り受けた。


「これは本当にお恥ずかしいことなのですが、『知人』と題しておきながら実は私の自画像なんです。なんだかあまりにも美化しすぎたものができてしまって、冷静になって見直したら恥ずかしくなってしまってつい、上から塗りたくってしまいました。今でも友人に笑い話のネタにされます。若気の至りですね」


 美しい白髪の女性はそう微笑んで絵画を祖父へと託した。


 次の年に行ったのは、確かフランスだった。夜の酒場の賑わいの中、眼鏡をかけた若い男性は顔を赤らめながら愚痴を溢していた。


「だから、もう中世ではないのだからそんなに無理してコルセットをつけなくていいと散々言っているのですが、どうにもやめてくれないのです。もうじき妊娠3ヶ月になります。お腹の子と妻の体のためにも、もっとゆったりした服を着て欲しい」


 祖父とグラスを交わした後、男性は持っていた絵画を祖父へと渡した。


 最も印象深かったのは、オーストラリアの老夫婦に会ったときだった。


「『わたしはここに』。題はそう名付けました。どうぞお好きなようになさってください」

「わたしは、ここにって誰が言っているの?」


祖父の背から顔を出して杖をついた男性に思わず聞いた。男性は笑って、答えた。


「さあね。私にもわからない。みんながそう思って、みんなが言いたいことだから」

「?」

「自分の場所を見つけなさい。自分が自分で入れる場所。それが何よりの宝です」


 男性は祖父と握手を交わして絵画を譲った。


 絵を描いたり、絵に関わり続ける祖父を見て自分でも本格的に絵を描きたいと思うようになった。祖父に絵の描き方を聞いても、好きなものを好きなように描きなさい、としか言わなかった。祖父のようになりたくて絵を描き続けた。


 14歳の時、一度だけ父と美術館に行ったことがある。祖父が父に何か言ったのかはわからないが、黙って二人で美術館に入った。黙々となんとなく父についていく。一体どうしたらいいのか分からなくて付かず離れずの距離を歩いた。ふと、父がある絵画の前で止まった。


ジョン・コンスタブル作

『主教の庭から見たソールズベリー大聖堂』


 父はその絵を見てポツリと呟いた。


「お前の母親はこの絵が好きだった」


 たったそれだけ。それだけでも父が自分に向けて発した言葉だった。驚いて久しく見ていなかった父の横顔を見つめる。父はしばらくその絵をじっと見つめて出口へと向かった。


 その時から、あの絵を父と見た時から、さらに絵にのめり込むようになった。どうにかして自分でもあの絵が描けないか。あの絵と同じものがここにできたら、父は自分を見てくれるだろうか。そう願って、それに縋って、何度も繰り返しあの絵を描こうと筆をキャンバスに走らせた。


 17になってようやくそれなりの物が完成した。あの絵になっただろうか、母が好きだと言っていたものになっただろうか。完成したと思って、もう一度見て愕然とした。まるで違う。何もかもがあの絵に追いついていない、足りていない。欠陥を探して数え上げればキリがないほどに出来損ないだった。何をしても自分では本物に及びもつかない。これでは贋作にもならない。ろくでもないものしか描けない自分が恥ずかしくて悔しくて、これでは父になんて見てもらえないと顔を覆った。


 その年、祖父の画廊へその出来損ないを持って行った。自分では持っていたくなくて、かといって捨てるのもなんだか違う気がして祖父に持っててもらおうと思った。


 絵をじっと見ている祖父にこれをしまっておいてくれと言うと、その前に手直しをしようと言い出した。手直しってどう言うことだと、驚いているとイーゼルを出してキャンバスを立て掛け、そして筆を祖父ではなく自分に持たせた。この絵にこれ以上何をすればいいと頭を抱えると、祖父はゆっくりと口を開いた。


「自由に描きなさい。好きなものを描けばいい」

「もう描きようがない。これは贋作まがいの出来損ないだ」

「同じものを描くなんてそれは無理だ」


 祖父にきっぱりと言い切られ悔しさが滲む。


「描いた本人ですら同じ物なんて描けないのだから、他人なら尚更だ。それより、咲妃はこの絵をどうしたら気にいるかい?」

 

 何のことか分からず首を傾げる。すると祖父は懐かしそうに目を細める。


「ここに来たばかりの時は、星座をめちゃくちゃに並び替えて描いてこともあった」

「そんなことしてたかな」

「していたよ。そしてそれでいい。そうでなくては。元の絵が曇り空?気に入らないなら晴らしてしまいなさい。大聖堂なんて構造がややこしい。城の方がかっこいいだろう」


 笑いながら話す祖父を見て、なんとなく気を張っていた物が緩んだ気がした。

 そのあと祖父とあーでもない、こーでもないと話しながら描いていたら最初の絵からどんどん離れていった。


「これはどうする」


 描き終わったその絵は、最初とは違うものになっても、やはり見るのはまだ苦しくて。当初の予定通り祖父に持っててもらうことにした。飾らずに箱に入れて仕舞い込んだ。


 ♦


 大学はイギリスの美大に進んだ。家を出て一人暮らしをした。時計職人の父がいつも通り部屋に篭っているときに、家を出ますとだけ書き置きを残した。それからは父には会っていない。大学に入っても長期休みには祖父の元へ赴いた。もう体の調子が悪くなってイギリスまで迎えに来てはくれなくなったが、祖父は絵を集め、描き続けていた。


 大学4年の時、祖父が書斎で倒れているところを見つけた。一緒にいた由月と急いで救急車を呼び病院へと駆けつけた。その頃には祖父はたくさんの管をつけ、目を固く閉じてベッドに横になっていた。

 怖かった。自分をいつも受け入れてくれた祖父が居なくなるのがとてつもなく怖かった。夜まで祖父に付き添って目を開けてくれるのを祈った。


「……咲妃かい」


 祖父の声が聞こえて顔を上げると重たそうではあるが祖父は目を開けてくれていた。


「良かった……ずっと心配で」


 祖父の無事を喜ぼうとしたが、それは祖父本人によって阻まれた。


「君の父親のことを話そう」


 ♦


「君の父親は、咲妃を嫌っていたわけではないよ。あの子なりに君を愛そうとしていた。だけどやはり妻を失ったことがショックだったようでね。妻と引き換えのように得た君にどう接すればいいのかわからなかった。だからあの子も君から逃げていた。親として許されざる行為かもしれない。しかし、それがあの子なりに君を守る唯一の手段だった。いつか、きっと顔を見合わせて話せる日が来る。咲妃を見てくれる日が来る。時間はかかるだろう。あの子にも時間がいる。咲妃にも時間が必要だ。だから、それまであの絵画たちを、画廊を咲妃にあずけよう。あそこは君が居ていい場所だ。いついてもいい。どれだけいてもいい。だが、いつか外に出る日まで、咲妃が描いたあの絵をもう一度見れる日が来るまで、あそこが咲妃の助けとなれるよう願っているよ」


 どうして今そんなことを言うのか、どうしてそんなに穏やかでいられるのか、わからなくてわかりたくなくて、必死にもう握り返してはくれない祖父の手を握って嗚咽を堪えていた。


「私の名前の逢間と言うのは逢魔時から来ていてね。逢魔時、つまり黄昏時。日本の黄昏という言葉の語源を知っているかい。薄暗い中、遠くに見える人影が誰なのかも分からなくて、誰そ彼と尋ねた。誰そ彼と書いて黄昏。顔もわからない誰か。誰でもいい。咲妃が今度は誰かの居場所を作ってあげなさい。大丈夫。咲妃なら大丈夫だから。顔を上げなさい。どこを向いていたっていい。顔が上げられればそれだけでいい」



 その日の明け方、祖父は息を引き取った。

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