『美人画』 作 レンブナント・ルーデンス
「お兄さん、名前教えてください」
「どうしようかな」
「彼女います?」
「さあね」
凪と和解なのか実際よくわからない仲直りをした後も夏期講習中は毎日画廊に通っていた。あれから凪も一緒で、ほぼ毎日顔を突き合わせて勉強している。
ここ最近来るたびに、彼に向かって同じ質問を繰り返しているがのらりくらりとかわされて、未だに彼の名前すらわからない。隣で見ている凪は少女が何度もめげずに質問しているのになんとも言えない哀れな目を向けている。
本当に彼は何も答えてくれない。怪しい、不気味、というよりもここまでお世話になって何も知らないというのは悲しくなってくる。寂しいとも言えるかもしれない。
それに彼からほぼ無理矢理譲り受けたあの贋作のこともまだ聞けていない。あの時の彼の反応からして凪の前でだとなんとなく聞きづらいというのもある。
聞きたいのに聞けない。知りたいのに教えてくれない。明らかな線引きをされているようでここまでかわされると少々凹む。
「お前、あれだけかわされてよく諦めないな」
今日も来て早々に少女が投げかけた質問を彼に綺麗な笑みでかわされたのを見て、呆れたように凪が言う。
「名前くらい教えてもよくないか。ちょっと凹むんだけど」
「さあな、言いたくないなら仕方ないだろ」
諦めろ、と言って凪はテーブルに広げた参考書に目を落とす。勉強に戻った凪とは反対に先ほど彼が出て行った扉をじっと見つめる。
諦めろと言われても知りたいものは知りたかった。別に彼について根掘り葉掘り聞こうというわけではない。他人の情報を勝手に欲しがるのはよくないことだとわかってる。自分だってその手のことは嫌いだ。でも一言名前だけ。彼の名前だけでいいから教えて欲しかった。
♦
お盆もとうに過ぎ、夏季講習もそろそろ終わりが近づいてきた。そうは言ってもまだ時期は夏。嫌悪感と不快感を伴う暑さからはまだ当分は逃れられそうにない。相変わらず人気のない教室に入り冷房の恩恵を受ける。もうじき先生が来るだろう。
それよりもなんで彼は名前すら教えてくれないのか。そんなに変な名前なのか。確かに外国人っぽい顔立ちだから聞き慣れない名前かもしれないけど、そこまで隠すことはないだろう。今日もどうせあそこに行くのだから、今日は彼の名前を教えてもらえるだろうか。
名前を教えてもらいたい。自分だって自白みたいな形であってもちゃんと教えたのに。というか彼は果たして少女の名前を覚えているのだろうか。彼から名前を呼ばれたことは一度もない。だいたい学生さんとか、君とか、なんとなく誤魔化されている気がする。忘れられてしまったのだろうか。だとしたらさらに悲しくなってくる。
彼が呼んでくれないから、呼んでくれないのなら、せめて彼の名前を呼びたかった。ずっとお兄さん呼びは寂しい。ほぼ一月顔を合わせているのだから名前くらい知ってて当たり前なのに、どうして。
「蓮ー!」
律の声を間近で聞いてハッと顔をあげる。机の上に用意していた教材は数学なのに、黒板の板書を見ると英文が連なっていた。
「もうお昼だよ。ごはん食べよ」
「ああ、うん。そうだね」
ずっと悶々としていたせいで午前中の講義を丸ごとふいにしてしまったらしい。とんだ失敗だ。
数人いた他の生徒は購買へ行ったのか教室には律と少女の二人しかいなくなっていた。
「蓮寝てたの」
「寝てないよ」
律とは前よりも話すようになった。前まではお互いになんとなく一緒にいて不可侵を守っていたが、凪とのことが律にばれてから1番触れられたくないところを知られたのならもういいか、と思うようになった。
まだなんとなくのぎこちなさはお互いに感じるけど、昨日今日で途端に仲良くなるわけでもないのは当たり前だ。でも前よりも一緒にいたいと思えるようになった。
昼食を食べる前に律から借りたノートの板書をしようと今日初めてシャーペンを持った。
「あのさー」
「何」
「白乃から聞いたんだけどさ」
「え?何?」
サクサクと進んでいた作業が途端に止まる。思わず見た律は目の前の席でのんびりとパックの紅茶を飲んでいる。
「蓮が美人を口説き落とそうとしてるって聞いたんだけど」
「ごめんよくわからない」
本当になんの話だ。突拍子がなさすぎる。
「いやなんかバイトの時に白乃がね、蓮が美人のお兄さんのいるとこに毎日通ってるって言ってたから」
「言い方が風俗じゃん。違うから」
「ねー、美術館みたいなところで勉強できるんでしょ?いいね」
「律、そこまで知っててわざと言葉選んだな?」
「実際そうでしょ?美人のお兄さんはいるわけだし」
律とバイト仲間の凪がどうやらあの画廊のことを律に話したらしい。別にそれはいい。凪だってやたらめったら話を広げる奴ではないし、律ならば別にあそこのことを知ってたって構わない。
ただ問題なのは凪が見た少女のあそこでの印象の受け取り方ということだが。どう見たら美人を口説き落としてるように見えるんだ。
「だって蓮、ずっとあそこに通ってお兄さんの名前聞き出そうとしてるって」
確かにそうだが、その通りだが、その言い方ではもろホストの実名を知りたがってる客のようで腑に落ちない。
「言い方を考えろって。あそこに行くのは勉強にちょうどいいからだし、それに普通に名前も教えてくれないあっちがおかしいから」
「そうだろうね。白乃もそう言ってた」
ふむふむと頷く友人を見て、本当にこいつ全部わかっててやってるなと軽くムッとなる。それを見かねてか、律はひらひらと手を振って苦笑いを浮かべた。
「ごめんって、なんか物珍しかったんだ。蓮が誰かのことを気にしてるのも、白乃がその事を私に聞くのも」
これあげるから許せ、とさっき律が飲んでいたのと同じ銘柄の紅茶パックを渡される。とりあえず受け取る。
「凪が聞いたって何」
「お前はあそこのこと知ってるのかって、まあ私は白乃から聞かされて初めて知ったんだけど」
ふーん、と適当に相槌をしながらパックにストローを挿す。確かに律にはあの画廊のことも彼のことも話してない。強いて話す必要がなかったというだけだけれど。
「お兄さん美人なの」
「まあ、そうかも」
「お兄さんの名前は?」
「教えてくれない」
「知りたいの」
「まあね」
「どうして?」
「は?」
どうして、どうしてと言われてもただ知りたいからでそれ以上もそれ以下もない。
「別にさ、公共の美術館のスタッフさんの名前なんて普通知りたいと思う?」
「それは」
だってあそこには彼しかいないし、と言う前に律が再び口を開く。
「知らない大人は知らない大人でしょ?しかもその人、名前教えたがらないんでしょ?なのにそれでも聞こうとしてまで知りたいの?」
一体凪はどこまで律に話したのか。もうほぼ見たこと全部な気もする。
知らない大人、確かにそうかもしれない。学校の先生だって担任の先生の下の名前なんて知らないし、科目担当の先生なんて数学の先生、くらいにしか認識していないかもしれない。
彼とは明らかに学校でお世話になる先生たちよりも希薄な関係性だ。それに先生たちのことを深く知りたいなんて思わないし、もっと言えば律や凪以外の同級生の名前全部言えるかと聞かれたら、言えないと答えるしかない。知りたいとも思ってない。
でも教えて欲しかった。自分のことは何も教えてくれない彼の名前を呼びたかった。そうでもしないと本当に切れそうな希薄なものだから。彼との繋がりは切りたくなかった。
「知りたいよ。教えてほしい」
「なんで?」
「だって」
名前を呼ばせてほしいから、とはとても言えなくて、結局ムスッとしたままパックのストローに口をつけた。
「いや、お前その人好きじゃん」
「は?」
今教室に二人だけしかいなくてよかったと思うほど大きな声が出た。声が教室に響いたことにさらに驚く。
「え?なんで?」
「どうしても名前が知りたいんでしょ?というか、一応二年間お前の友人やってたけど他との対応が全然違う」
「いや、律は私がその人といるとこ別に見てたわけじゃないでしょ」
「見てたわけじゃないけど、白乃の話と合算して考えたら妥当では」
思ったよりも冷静に観察分析されていたようで、途端に恥ずかしくなる。目を逸らして自分の行動を振り返っていたら、律からクラスの女子の名前も言えないくせにと先ほど自分が考えていたことを言われて、もう何も言えなくなる。
「女子の受験生は彼氏いた方が合格率高いらしいよ」
「なんの話だやめろ」
「逆に男子は彼女いると合格率低いらしいね。まあ、相手大人だし関係ないか」
「本当にやめろ」
先ほどの尋問からの分析は終わったようで、完全にいじりに入った友人に対してもうやめろとしか言葉が出ない。
今まで恋愛なんて明らかに面倒なことは避けていた、というより凪のことがあってから周りをシャットアウトしていたせいで何もわからない。そんな精神的負荷がかかりそうなことはやめてほしい。
「名前教えてもらえるといいねー」
律は口の端だけで笑ってこれでおしまい、と言うかのように鞄から取り出した飴玉を口へ放り込む。カラコロと飴を転がす友人を尻目に少女はたまらず、ああと頭を抱える。
恋愛、恋、好き。もうこれだけで頭が痛くなりそうだった。自分がそんなしんどいことになっていたなんて。顔が熱くてとてもじゃないけど昼休み中は顔が上げられなかった。
♦
頑張れよーと、含みを持たせた挨拶を交わして律と別れた。どのみち今日もあの画廊に行くしかなくて。洗いざらい律に吐きやがった凪は今日は一緒ではない。つまりは一人だった。
最近はいつも凪がいたが、一人であの画廊へ行くのは最初の頃と同じで、だからそんなに緊張することではないはずなのに、頭の中がぐるぐるして。いつもならすぐにでも開ける扉に手をかけて一体何分経ったのか。外は夕暮れ前でまだまだ暑くて、画廊の中はきっと涼しいのはわかってて、でも昼間に律から言われた言葉がずっと頭の中を占めていた。本当にどうしてくれるんだ。
このままここにいてもらちがあかないと、最初にここに来たときのように意を決して扉を開く。
コツコツと磨かれたホールにローファーで歩く音が響く。ざっと見渡して彼はいない。そのことでホッと一息ついた。しかしどのみち彼をまず探さなければならない。
一階から見ようと扉が開きっぱなしのフロアを覗き込む。そこは前にも勉強させてもらった場所だが、展示されている絵画が変わっていた。前にここに来た時にはこんな絵画はなかった気がする。周りの絵画は変わっていないようだったが、彼が新しくここに飾ったのだろうか。そのまま近くに寄ってなんとなくその絵画を眺めていた。
「何してるの」
「わ!?」
唐突に近くで聞こえた声と両肩に置かれた手に驚いて声を上げる。振り向くとやはり彼がいて、くすくすと楽しそうに笑っていた。
「そんなに驚かなくても、本当に気づかなかったんだね」
何か既視感があると思ったら、そういえば凪に似たようなことをしたのを思い出した。その時は仕掛ける側だったけれど、本当に凪には申し訳ないことしかしてないと、たった今実感して思った。
ようやく笑いを収めて彼が隣に立って絵画を見やる。
「新しく飾ったのに気づいたんだね」
「前来た時は違う絵でしたよね」
「そうだね、よく見てくれてるみたいで嬉しい限りだよ」
綺麗に微笑まれて咄嗟に目を逸らすと、クスリと笑って頭を軽く撫でられる。途端に体温が上がってしまうから、これはもう律のせいだと心の中で軽く八つ当たりをする。そんな少女を知ってか知らずか彼は口を開く。
「今日はこの絵を見てあげて。題は美人画」
♦
まだ火照ってる気がしないでもないが、そろりと視線をその絵画に移す。美人画。彼はそう言った。題の通り、とても綺麗な女性が描かれていた。体は正面を向いて顔を横を向き、顔から首にかけてのラインがとても綺麗に描かれている。オフショルダーの黒いベルベットのような素材のドレスを着ている。締まったウエストからのシルエットがとても美しい。描かれている女性自体も顔立ちが整っていて、一目で美人だとわかるだろう。
「綺麗な人ですね」
「そうだね。この絵は実在の人物をモデルにした絵なんだよ」
「モデルさんが美人なんですね」
「だけど、この絵を作者がモデルの人物に贈ったら突き返されたらしい」
え、と彼を見るとやはり楽しそうで。
「顔が気に入らなかったんですか」
「うーん、顔というよりウエストかな」
「ウエスト?」
「コルセットって知ってる?」
コルセットは知ってる。確かドレスを着るときにシルエットを綺麗に見せるために着る補正下着のことではなかったか。
「昔は女性は大体の人が子供の頃からコルセットをつけていたんだ」
つまりね、と彼が再び口を開く。
「子供の頃からずっと腹部を強く締め付けて、それこそ体に害が出てしまうほどに締め付けて、そしてシルエットを作っていたのがコルセット」
「体に悪い?」
「この絵の作者はレンブナント・ルーデンスというお医者さんなんだ。この絵は彼の奥さんがモデル。彼の奥さんはずっとコルセットをつけていたんだ。子供の時からずっとね。昔はウエストは細ければ細いほど美人だとされた。だからより強い力で体を締め付けていた。そのうち肋骨は変形し肺活量は落ち、胃が圧迫される。とてもじゃないけど体にいいとは言えない。だから彼はコルセットを着けていない妻の姿を描いた。そんなことしなくても君は綺麗で素晴らしいからどうか健康であってくれって」
まあそこが奥さん一番気に入らなかったみたいだけど、と彼は締めくくった。なるほど、だから人に贈ったはずの絵画がここにあるのか。行き場をなくしてしまった絵画もここに来るらしい。
「奥さん美人なのに」
「これは夫が描いたものだからね。好きな相手を描いているのだから多少のフィルターはかかると思うよ」
好きな相手、と聞いて過敏に反応してしまう。やっぱり律のせいで余計なことにまで意識がいってしまう。好きな人。好きな人ならば、その相手の名前を知りたいとも思うのも普通だろうか。
「今日は良いの?」
「はい?」
「最近いつも僕の名前を聞いてたから」
下がった体温がまた振り返してきそうだ。この人は本当に私をどう見ているんだろうか。大人の考えることはわからない。
「聞いたら教えてくれますか」
「気が向いたらね」
わかりきってはいたが、綺麗に微笑まれるだけで教えてはくれなかった。なんとなく今までよりも凹んでしまう。絵のことは教えてくれるのに、と考えたところで思い出す。
「なら、あの絵のことは教えてくれますか」
「絵?」
「お兄さんからもらったあの贋作……」
「ああ、あれか。ちゃんと捨ててくれた?」
「捨てませんって」
「そう、残念」
笑ってはいるがなんとなく薄ら寒いものを感じる。怒っているのだろうか。
「あの絵……贋作じゃなかったですよ」
彼は黙って表情を変えずに聞いている。まずいことを聞いた気がしてきたがもう引けない。
「本物の画像を見たんですけど、あの絵と全然似てなくて……だからあの絵は贋作じゃないのかなって」
「贋作だよ」
怒った声音ではない。しかし確かな否定。
「贋作だ。あれは偽物。だから君にちゃんと捨てて欲しかったんだけどな」
「捨てません、あの絵好きだから、捨てたくないです」
あの絵が好きなことは本当だ。本物でなくても贋作でもなくても、あの幻想的な絵は一目見た時から好きだった。好きなものを捨てろと言われているのがつらくて、好きだと思っていることをわかって欲しくて、今度はちゃんと彼の目を見て言い切った。
すると彼は虚を突かれたかのような驚いた顔をした。しばらく何も言わずに視線を落としていたが、ふと少女の方へ近づいた。怒られる、と下を向き身構えていたが実際はポンと頭に手を置かれただけで、そのままギギギと音が鳴りそうなほどぎこちなく彼を見上げると、先ほどとは違って少し頬を染めて視線を逸らす彼の姿があった。
「怒られるかと思った……」
「別に怒ってないから、そんなに怖がらないで」
「絶対怒られると思った……」
「あれ、僕そんなに怖かったの」
あの絵はね、と少女の頭を撫でながら彼は苦笑を浮かべる。
「あの絵は昔は僕が描いたものなんだよ」
「お兄さんが」
「そうだよ。だいぶ前だけど」
「じゃあなんで捨てろって言うんですか……」
「僕が描いたんだからあの絵の出来は僕が一番わかってる。あんなものいらないと思ってたんだけどな」
「もう私のですよ、捨てないですよ」
「そうだね、君が気に入ってくれるとは思わなかったよ」
なんとなく気恥ずかしそうに笑う彼が、子供っぽく見えた。
「あれに元の絵があることは前に言ったね。『主教の庭から見たソールズベリー大聖堂』。それが元になっているのは確かだよ。だけど僕にはそれの贋作を作り上げるほどの技術もない。だから贋作のようで贋作でもない。そんな中途半端な物になってしまったんだ。贋作なんて言ったけど贋作というのも恥ずかしい。そんな出来損ない」
「……私は元の絵もあの絵も好きです」
「そう、ありがとう」
そう言うと、彼は少女の頭を撫でるのをやめてこのフロアの出口へと向かった。
「君が持っててくれるのならあの絵も報われるだろう」
通りすがりざまに言われた言葉に返答しようと振り向くが、すでに彼は扉から出て行った後だった。残された少女は先ほどまでとても近くにいた彼の気配や、子供のように頬を染めていた顔を思い出して顔を覆っていた。
どうか次に会う時は、彼の名前を呼べますよう、彼の気まぐれを切に願った。
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