『はなむけ』 作 ファン・デル・バロン

「いい子だから、それを渡して」

「嫌です」


 テーブルを挟んで静かに行われる攻防戦。でも圧倒的に有利なのは絵画を抱きしめる少女の方。


「それは贋作だから破棄しないと」

「別にそれでお金儲けしなければいいんじゃないですか。それに贋作だってわかってるし」


 困ったように笑う彼から距離を取ろうと、背中を椅子の背もたれに押し付ける。その少女の様子を見て、諦めたのか呆れたのか、彼は浅くため息をついた。なかば意地になって絵を抱く少女の方へもう一度手を伸ばす。絵を掴まれると思った少女はそのまま俯いて縮こまっていると、コツンと頭に彼の手が触れた。痛くはないが驚いてパッと顔を上げるともうすでに先ほどのような困惑した様子はなく、いつものように緩やかに彼は笑っていた。


「なら、君にそれを預けておくよ」


 さっきから意地になりすぎて大人の注意を無視していたことに先ほど彼に触れられてから気づき、なかば自分に引き始めていた少女に彼は声をかける。


「だから、君がそれを捨ててね」


 ♦


 彼からあの子をなんとか守り通して家に連れて帰った。誰にも言わずに自分の部屋まで持ってきて、部屋で1番大きな窓の近くに置いてみる。窓の外はもう橙色や紫を通り越して黒が見える。電気もつけずにいるから窓の正面から見える月の明かりだけが絵画を照らす。

 月の青白い光が影を深めて鬱々とした表情をさらに濃くしていく。とても綺麗な絵だと思う。でも贋作。捨てられそうになっていた贋作。贋作を描いていた昔の画家は大体捕まってしまったらしいけれど、お金が発生しない個人的なものならば良いのだろうとは思ったのだが。これを本物だと騙すわけではないし。咄嗟に手を伸ばしてこの子を掴んでしまったけれど、本当にもらってよかったのかと今更ながら考えてしまう。

 この絵を捨てなさいと彼は言った。彼のあんなに慌てた様子は初めて見た。慌てるというかは困惑していた。困っていた。どうしても破棄したいというのは伝わってきたけれどその理由もわからなかった。オリジナルはジョン・コンスタブルといったか、その人は他にはどんな絵を描くのだろうと気まぐれにスマホで調べてみる。検索をかけると何作もの絵が見つかった。『干し草車』、『フラットフォードの製粉場』、そして『主教の庭から見たソールズベリー大聖堂』。


 そこで違和感に気づいた。この子はここにはいない。頭の上にハテナが浮かんでいく。彼はこの子は『主教の庭から見たソールズベリー大聖堂』の贋作だと言っていなかったか。だったらそれを模しているのが贋作だろう。なのに、これは違う。この子はその絵ではない。空は曇り空だが夕方の色をしている。だがオリジナルは光の細い灰色の空だ。大聖堂も形が違う。というか、やはり比べるとこれは城では。根本的に位置がすでに違う。手前に書かれている馬車も形、台数が異なる。ハテナが次々に浮かんでくるから、仕方なく部屋の電気をつけて明るい中でちゃんと観察してみる。明るい中で見て違いは明らかになった。全体的な雰囲気、色の明るさと言えばいいのか、それが全く異なる。スマホの画像で見るオリジナルの方が暗みが強く神秘的な雰囲気だが、この子はもっと光が入り込んでいるように見える。描かれる水の色、飛沫の有無、形。あたりの草花の深さ、割合。

 細かく見てみたが、結論としてはこれはもはや違う絵だ。全体を通して同じパーツはいくつかあっても構成や配置が違う。これは別物だ。

 ハテナはさっきからずっと浮かんでいる。どうして贋作なのに違うものになっている。その前にこれは贋作なのか。全く違うように見えるこれを贋作と言っていいのか。

 そして何より、彼はどうしてこれを贋作だと言ったのだろうか。

 

 ♦


 次の日の夏期講習は担当する先生が夏風邪で来れなくなったため、臨時の休講となった。やはりこの夏期講習のスケジュールは酷なものなのではないかとの疑念が少女の中で再び湧き上がる。先生がダウンしても相変わらず健康的に暑さを疎んでいる自分を褒めらいいのかも微妙なところだ。

 夏期講習はないがいつもと変わらず午前中に家を出る。服装はいつも通りの制服ではなく私服。薄い生地の七分袖ほどまであるシャツに暗めのマキシスカートをベルトでとめる。今日は自転車は使わないで、駅まで行き友人の家に行くとこになっていた。

 昨夜のうちに友人から連絡が来て、受験が終わった従兄弟から大学の過去問をたくさんもらったから、いるものがあれば取りに来いと言われた。なんとなく受けようかと思っていたものもあったので承諾の返事をしたが、友人には自分がどこを受験するかも話していないし、ましてや進路の話すらしてこなかった。選んだ過去問の大学からそれを受験校を知られてしまうのでは、という心配というかは気がかりはある。せっかくの好意だからとも思ってはいるが。

 そういえば、友人の家に行くのはこれが初めてだ。だから最寄り駅まで迎えに来てくれるらしいが。


 駅までは学校よりかは近いので歩いて行くことにした。いつもならば暑くて気力が削がれ太陽を睨みつける気にもならないが、今日は曇り空で太陽は隠れ、なぜかひんやりとした風が吹いていた。歩く分にはいつもより快適で自分の機嫌をそこまで損ねることにはならなかった。


 久しぶりに電車に乗ることに高校三年ながら、少し手間取ったが自分の町から出るほどの労力を今までかけたくはなかったのでこれは仕方がない。カラオケや大きいショッピングモールも少女の町にはない。 あるのは山と川と最低限の公共施設。娯楽が揃っているわけではないが、今まで娯楽のために外に行く気にもならなかった。基本的に人が多いところが嫌いなのだから、静かに過ごせるならばなんだってよかった。

 高校に入ってから友人たちからカラオケや電車に乗って行く遠出に誘われても、全て断ったわけではないが付き合いが悪いと言われても仕方ないくらいには遠慮した。それで疎遠になった友人もいるが、大勢の人混みの中に連れていかれても自分の精神がすり減るだけなので、そこに行きたがる人が離れて行くならばちょうどいいとすら思っていた。来るもの拒まず、去る者追わず。友人関係はそんな表面を撫でるような関係を結んでいた。少女にとってまず一番に考えてしまうのはどうしたって自分だったから。


 少女の駅から3つほど行った駅で友人は待っていた。


「蓮ー。こっちだよ」


 改札も向こうで小さく手を振る友人を見つけかけよる。友人も今日は制服ではなく私服だった。学校に行くわけではないからそれは当たり前なのだが、少女は本当は今日も制服で行こうとしていた。私服だって自分を表す情報だ。どんな服を好むかでかなりのものが読み取れてしまう。制服は身分を証明する記号でしかない。自分で選んだものより決まったものを着ている方が圧倒的に中身を守れる。

 しかし、今回は友人の家にお邪魔するのならばさすがに制服はやめておいた方がいいかと、すんでのところで思いとどまった。そのため友人も私服で来ていたことに少なからず安堵した。友人はショートパンツを履いていたため足の露出が少女とは段違いだった。口には出さないが、すごいなと思ってしまう。別に体型を気にしているわけではないが自分には無理だ。


「途中でコンビニあるからアイス買ってかない?」

「買う」

「今日はいつもよりは涼しいよね」

「でも暑いのは暑いよ」


 普段と変わらず当たり障りのない会話を続ける。友人は、律は少女のそれに乗ってくれているような節がある。お互いに表面だけで会話をしていることを良しとしているような。だから付き合いやすいといえば付き合いやすい。

 クラスで一人でいるのが少女のようなタイプには一番気楽なのだとは思うが、学校という枠の中では一緒にいる相手がいないというだけで好奇の目に晒される。何かがあるのではないか、何かが悪いのではないか。そう思われるのが嫌だという、これも保身のためのろくでもない理由で少女は一人にはならないようにしていた。あの自由気ままで乱暴な姉ならば全て突っぱねそうだが、少女にはそこまで通った芯はない。ただ自分が可愛いだけ。


 コンビニの自動ドアをくぐると人工的な涼しさを感じる。そのままアイスのコーナーに進む友人の後を追おうと店内を見たときに、店内にいた店員と目があった。目が合い、お互いを認識する。

それだけでもうダメだ。前を歩いていた友人の腕を乱暴に掴み、くるりと踵を返して店内を出る。友人の制止も聞かずにそのまましばらく方向もわからずただただその場から離れようと歩き続ける。


「蓮!」


 掴んでいた腕を逆に掴まれ、ぐいっと引っ張られる。思わず振り返ると友人が心配そうにこちらを伺っていた。


「どうしたの。とりあえず止まってよ」

「いや……別に……」


 しどろもどろになりながら、なんとか調子を元に戻そうとするが先ほどのことで動揺しすぎで動悸が収まらない。視線も友人と合わせることができない。


「誰かいたの」

「……凪が」

「は?」


 あまりにも動揺が表に出ていたのか、さすがに訝しんで聞いてくる。それは無理矢理連れ出してきてしまった側としては、説明しなければならないのは当たり前で。でも一人で店を出ればよかったのにどうして友人を引っ張ってきてしまったのかも、今の少女には分からなくて。ひたすらに頭が混乱していた。


「こっち来て」


 腕を掴まれたまま今度は少女が引っ張られて行く。駅周辺から離れるとすぐにここも木々が深くなる。俯いて黙って引っ張られていると唐突に前を行く友人の歩みが止まる。思わずぶつかりそうになりながらもなんとか止まって顔を上げると、目の前の大きな木造家屋が目に入った。


「ここが私の家だから。入ろ」

「え、一般家庭ではない……」

「一般家庭だから。農家なだけ」

「農家だったんだ……」


 友人の家に行くのは初めてで、農家だと聞いたのも初めてだった。本当に知らなかった。今までどれだけお互いに情報を制限して会話してきたのか。


 家にかなりビビりながらもお邪魔する。広い畳の間に案内されて座らされる。机の上に赤本が何冊も置かれているのが見える。そういえば、あれをもらいに来たのだった。先ほどの出来事のせいで全て頭から吹っ飛んだ。そのまま身動きせずに待っていると、友人がお菓子とグラスに氷を入れて飲み物を持ってきた。

 冷たいグラスを渡されて指先が冷える。それだけでだんだんと落ち着いてくる。グラスの中の氷がカランと音を立てて溶けていく。


「もう平気?」

「おかげさまで……」


 視線はグラスに向けたままでなんとか返事をする。


「どうしたのって聞いて良いの」


 やっぱりこの友人はわかっているのだろうか。そうだとしてもそうでなくても、先ほどのことは誤魔化すのはダメだろうなとなんとなく思う。無理矢理手を掴んで引っ張り出すって何してんだ。それほどまでに動揺していた。


「昔の知り合いがいた……」

「それだけ?」

「まあ……」

「そんなに嫌いなやつだったの」


 曖昧な返事しかできないが、迷惑をかけてしまったのだからちゃんと話さなければとは思っている。でもそれは自分の中身を相手にばらすことにもなって。それがひどく怖くて。今まで必死に出さないようにしてたのに。どうしようかとぐるぐる考えては見たものの、さっき友人の手を掴んでしまった時点でもう話さなければいけないのだろう。うまく誤魔化せる自信なんてない。やらかしてしまった。

 意を決して、といってもグラスの中の溶けていく氷を見つめたまま口を開く。


「昔の知り合いが、いて」

「うん。嫌いなの」

「嫌いっていうか、気まずくて」

「喧嘩?」

「いや、喧嘩じゃなくて。告白されただけ」

「は?」


 自分のメンタルが沈んでいくのがよくわかる。気が重たい。頭を抱えそうになる。思い出したくない。


「いつ?」

「中学3年の時です」

「付き合ったの?」

「振った」

「それならそれで終わりじゃないの?ひどい別れ方した元彼じゃあるまいし。逃げすぎじゃない?」


 たしかに普通ならそれで終わりだろう。告白して終わり。多少はぎこちなくなるかもしれないが、一目散に逃げるほどではないだろう。でも少女の場合はそれで終わりではなかった。自分のせいでこんなことになっている。自分が悪いのは何年か経ってより明らかにわかってしまった。頭が痛い。


 ♦


 中学の時の自分は、はっきりいえばよく覚えてない。ただ、ずっと自分が嫌いだったことは覚えてる。今でも嫌いは嫌いだが、まだ落ち着いた方だ。あの時はそれだけで毎日が苦しかった。なんで嫌いなのかと言えば、指折り数えてもキリがない。いくらでも自分の欠点をあげつらうことができた。見本としてた姉が壊れてしまって、どうして良いかわからなくなって、こちらも精神的に引きずられてしまったからかも知れない。


 彼は白乃 凪と言った。田舎の中学は大半が小学校、幼稚園のときからメンツが変わらない。彼もその一人だった。男女は分かれていたが彼も自分と同じようにバスケ部だった。クラスで同じになったこともある。背はあったが、男子の中では華奢で可愛らしい顔立ちをしていた。そこまで仲が良かったかと言われれば、それはわからない。

 その頃から自分は相手に何も踏み込ませなかった。自分のことだけで手一杯だった。だから誰と仲が良くて、誰とよく話したかなんてろくに覚えていない。さっき凪、と口から彼の下の名前が出たから、下の名前で呼び合うくらいには仲が良かったのかもしれない。でも本当によく覚えていない。

 そんな中、中学3年の秋に突然彼から告白された。ひどく驚いた。驚いて、とても驚いて、ひどく軽蔑した。嫌悪感すらそのときはあったかもしれない。振った。ごめんなさいとだけ告げて振った。それだけで終わりにすればよかった。よかったのに、ただでさえ嫌いな自分を好きだなんて意味のわからないことを言うやつがいるから。気味が悪くて、気持ち悪くて仕方がなくて。

 だからその後、彼が話しかけて来ても一切を無視した。同じクラスで、同じ班でも。掃除場所が同じでも。グループワークが同じでも。全て無視して、なんなら睨んでしまったかもしれない。その時は嫌いで嫌いでしょうがなかった。


 卒業式の帰り。たまたま外で親を待っていて一人だった。その時に彼に声をかけられた。最近は当たり前だが、まったく彼からも話しかけてこなくなって久しぶりに聞いた声だった。


「蓮」


 またか、なんだ、もう話しかけるな。いつもの通りそう思ってそのまま彼の方も向かずに無視をしようと思っていた。


「ごめん」


 悲痛そうな声にはっとして、頭の中が真っ白になった。慌てて後ろを振り向いたが、彼はもう遠くに行ってしまっていた。

 よくないことをした。彼に対してとてもひどいことをしてしまった。遅すぎるが、彼の言葉を聞いてようやく気づけた。どうしてあんなことをずっとしてしまったのだろう。なんで今まで気づけなかったのだろう。自分のことばっかりで、彼に対して何も考えが及ばなかった。馬鹿なことをした。ひどいことをした。

 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。ごめんなさい。

 彼を追いかけて、今すぐにでも謝らないといけないのに。悪いのは自分なのだと言わなければならないのに。卒業式では枯れていたはずの両の目からジワリと滲んでくる涙のせいで、手で顔を覆うことしかできなかった。


 ♦


 友人に中学の時の話をし終えた時には、また罪悪感に押しつぶされて、気を抜いたら泣いてしまいそうだった。


「それは蓮が悪いな」


 話を聞き終えた友人はあっけらかんとそう言い放つ。それはそうだ。当たり前だ。

 グラスをずっと前から持ち続けていたために、すっかり氷が溶けてしまった。ああ、とまた頭を抱えたくなる。気持ちがどんどんへこんでいく。彼のことを思い出したからではない。中身を多少なりとも彼女に見せてしまったことがダメージになっている。

 しかし今まで誰にも、それこそ姉にもあってなかった重たい出来事を吐き出せたことで多少なりとも胸の重たいものが軽くなった気がして、にわかに驚く。それでも罪悪感は強まるばかりだが。


「まあ、それだけへこんでるなら、今日のところは許してあげたら?」

「何を」

「お前をだろー?」

「どうだろう」

「解決策はとりあえず置いといて、ありがとうね」


 唐突にお礼を言われて友人の家に来てから、初めて顔を上げる。友人は、律は苦笑いをしていた。


「話したくはなかったでしょ。今までもそうだったし」

「わかってたの……」

「毎日一緒にいればなんとなくわかるよ。この子はこういう子なんだって。私もさ、友達づきあいは得意ではないから、蓮みたいなスタンスが楽だったんだよ」


 少し寂しかったけど、と律はやはり苦笑いで。律がそんなことを思っているなんて知らなかった。だけどそれはお互いに話してこなかったのだから当たり前だ。


「最初はこの子、私のこと嫌いなのかなって思ったんだけど、全員に対して同じスタンスだったからさ。それに気づいてからすごく一緒にいて楽だった」

「そうだったんだ……」

「でも、やっぱり色々と話してもらえると嬉しいね。蓮は話したくはなかったのかもしれないけど」

「私は、ただ自分のことを話すのが苦手なだけで」

「そう。でも別に今みたいになんでも話せって言うわけじゃないから。だけど、私も蓮に話したいことはあって。だから」


 今度は律の方がしどろもどろになってしまった。目線を泳がせて次に紡ぐ言葉を探している。寂しいと思っていたのか。いつも一緒にいても。それはそうか。だって私はいつも自分のことばかりで、人のことなんて考えないのは昔から変わっていなくて。でも、それでもそれをわかって、その上でまだ一緒にいてくれるなら。


「また、話聞いて」


 つっけんどんな言い方で、笑顔も何もなかったけど。それでも律は目を見開いた後に、笑ってくれた。


 ♦


「その白乃だけどさ」

「抉るのか」

「抉るっていうか、あそこのコンビニ私のバイト先だから連絡先知ってるんだよね」

「嘘だろ」


「凪とバイト一緒だったの……」

「まあね。私だって白乃と蓮が知り合いだって知らなかったよ」


 以外に世間は狭かった事実に目をそらしたくなる。そういえば画廊の彼もそんなことを言っていたような。


「というか、それ謝っといたら?」

「ですよね」

「お前が悪いよ」

「そうですよね」

「白乃に連絡取ってあげる」

「やめて」


 ああ、とついに頭を抱えて丸くなる。その隣で非情にも律はスマホを操作する手を止めない。


「ほら、さくっと謝って終わりにしな」

「どの面下げて謝ればいいの」

「全部蓮が悪いんだから反省した顔すれば?」

「容赦ない」

「流石に擁護できない」

「はい……」


 グサグサと放たれる言葉が刺さる。でも変にフォローされるよりはそう言ってもらえた方が気は楽だ。お互いにすこし中身が見れて、多少遠慮がなくなったかもしれない。いや、悪いのはもちろん自分なのだけど。


「待って、謝りたいとは思ってるんだけど」

「うん」

「今日はやめて……」

「まあ、今日は抉ったからな。別の日にしてあげる」

「その言葉でもう抉られてるから」

「で、いつ」

「今それ決めるの」

「早めに片付けた方がいいと思うけど」

「まあ、それはそうだけど」

「それに今日顔見て逃げてきたしな」

「はい」


 あからさますぎる自分の行動に改めて嫌気がさす。本当に申し訳ないとは思ってる。謝りたいとも。謝ってどうするとかは考えてないし、考えるだけ無駄だろう。謝るだけ謝って自分の重みを軽くしたいだけなのかもしれない。

 謝りたいが謝りに行くのが嫌すぎて、謝るとはだいぶ脅迫めいたことなのではと余計なことを考えてしまう。謝ったのだから許さなければならない。謝ったのだからこれは流すべきことでもう終わり。そんな脅しとも取れる行為なのではないか。もちろん許す許さないは相手側の自由だが、その時に怒髪天をついているほどのことでなければ謝らせたことによって負い目のようなものも感じるのではないか。自分も謝らなければならないなんて思うのだはないか。しかし、それはこちらに完全に負い目がある場合は返ってさらに申し訳なく思うことで、相手に重ねて気を使わせてしまうのであればいっそ謝らない方が、


「現実逃避がひどい」


 なんとなく口に出ていたようで、律にそう一蹴されてしまった。


「あとくどい」

「はい」

「ちゃんと謝りなさい」

「はい」


 もはや正座で会話している。和室で正座。本当にお説教のようだ。別に律は説教ではなく逆にとりなしてる側なのだが。


「じゃあ、その気になったら言って」

「はい」


 神妙に頷いてみたものの半分上の空だった。それを見かねてか、律は先程から胡乱げな目をしてる。さっき彼に会ったことだって突然だったのだから、そんなにポンポン進めるのは酷ではないか。いや酷なことを彼にしたのは自分だけど。


 とりあえず、と律が畳の上に赤本を並べ出す。この話は終わりにしてくれるようだ。


「勉強の話でもします?」


 ♦


 律から赤本を何冊か譲り受けて自分の家まで戻ってきた。彼女は行きと同じく駅まで送ってくれたが、その時にあのコンビニを当然通ることになり、思わず挙動不審になってしまったのを思いっきり笑われた。これは仕方ないのだから許してほしい。


「もうここで謝ればいいのに」


 なんて言われたが、現在ダメージを追いすぎてそれどころではないので本当に許してほしい。

 大学の過去問を選んだ時、行きに心配していたような精神的な負担はかからなかった。はっきりと踏ん切りというか、線引きができたというわけではないけれど、中身を多少なりとも見せてくれた彼女なら、自分の中身を見ても一緒にいてくれると言った彼女なら、もう大丈夫なのかもしれない。今度、進路の話を律に聞いてみようか。そんなことすら思えるようになった。成り行きで見せた自身の中身。でもこれでお互いに良かったのかもしれない。長い間、探り探りで遠慮していた部分が取っ払えた気がする。

 今まで自分の欠点や恥を晒すことが嫌で仕方がなくて。それを見られてからの接し方がわからなくて、恥ごと切り離したくて。それを繰り返しているうちにもう関係の構築の仕方なんてわからなくなってしまった。なにより、こんな欠点だらけの自分なんて誰も見向きもしないだろうと思っていた。だから、律がまた話したいと言ってくれたことが本当に嬉しかった。嬉しくて恥ずかしすぎて、その時の受け答えはつっけんどんになってしまったけれど、ありがたかった。


 改札でお互いに小さく手を振りあって別れを告げるのが、とても気恥ずかしかったけどとても満たされた気がした。


 さて、と家についてこれからどうするか考える。今はお昼過ぎ。午前中に律の家に行ったため、まだまだ時間はある。今日は平日。またあの画廊にお邪魔しようか。どうせ家では勉強ができないし、と自分の部屋で勉強道具を用意する。

 するとふと、あの子が目に入る。画廊の彼が贋作だと行ったこの絵画。実際には元の絵のはかけ離れた別物だった。どうして彼はこれを贋作だと行ったのか。それも聞けたらいいのだが。果たして聞いたところで彼は答えてくれるのか。はぐらかされて、誤魔化されるのがオチなのではとも思うが聞くだけ聞いてみようか。

 それに彼が答えてくれたのなら、彼の中身だって見れるかもしれない。

 今一番教えてほしいのは、贋作の理由ではなく、彼のことなのだから。


 ♦


 どうして彼のことを知りたいと思ったのだろう。昨日、あの絵画を彼から強引に譲り受けた時に、唐突に彼の中身が見たいとそう思った。

 その前の彼との会話で、自分と同じことを考えて過ごしているのではないかと、少しでも思ってしまったからなのかもしれない。今まで自分だけしか見てなくて、人のことなんて考えてなくて。だから人がどう考えて過ごしているかなんてわからなくて、でもずっと知りたかった。

 根っからの人間恐怖症ではない。人が怖いというよりかは自分の中身が人にバレるのが怖かっただけで、そのために人と距離を取っていただけで、完全に無関心というわけではなかった。人に自分の中身がばれても、その上で相手を知ろうとなんて思ったことはなかった。でも彼のことはあの時明確に知りたいと思った。なぜだろう。


 自分の身を守るために人との距離を置くことをしてきた自分と同じように、彼もそうなのだとしたら自分のこのずっと感じている息苦しさやぐちゃぐちゃしたものをわかってもらえるのではないか。それを知ることによって和らげることができるのではないかと、また自分勝手な考えで彼を知りたがっているのだろう。

 そう思い至ると同時にひどく吐き気がする。やはり自分は最悪だ。せめてもっとまともな理由はなかったのか。彼が何をどう考えてるかなんてわからないが、これでは彼のことなんてお構い無しだ。本当に身勝手で嫌になる。だから凪の時だって失敗したんだ。


 神社への道を歩きながらくどくどと考える。さっき律と話してた時の機嫌はどこかへ行ってしまったようだ。気が重い。もう彼には何も聞けないかもしれない。というか、自分なんかが聞くべきではないのかもしれない。


 神社の鳥居をくぐり本殿の裏手へと向かう。お盆はすでに終わっているので当然、姉の彼氏である由月はいない。一回あっただけだったが明朗で良い人そうに見えた。まあ、見えただけだが姉の彼氏ならば悪い人ではないのだろう。この神社は姉から教えてもらった場所だが、姉はどうやって、いつのまに由月と知り合っていたのだろうか。


 ♦


 画廊に入ると、静まり返っている館内に外の木々のざわめきだけが小さく聞こえ、外から隔離されたような気分になる。まずは彼を探そうといつものように館内をのんびりと歩き回る。二階への階段を上っていた時に右手の方から微かに物音がした。彼だろうかとそちらへ足を向ける。

 時計とたくさんのカーテンが垂れ込めるその部屋に彼はいた。少女の足音で気づいたのかこちらを振り返る。今日は暑かったのだろうか、肩甲骨のあたりまで伸びていた淡い色の髪を1つにまとめて高い位置で結っている。今まで髪で隠れて見えなかった白い首筋が見えてしまい目をそらしてしまう。小さいポニーテールが振り返ったことによってさらりと揺れた。


「こんにちは」


 少女を見ておや、と彼は首をこてんと傾げる。


「今日は制服じゃないの」

「夏期講習が今日休みで……」


 そういえばここに来るときはずっと制服で来ていた。律に会って油断していた。そのままここにきてしまった。制服に着替えてくればよかったと後悔する。今日は失敗が多い、とさらに気が滅入る。

 それに彼を知りたいと思ったそばから、やっぱりこちらは知られたくないって自分勝手もいいとこだろう。自己嫌悪も加わりどんどん勝手にへこんでいく。私服を見られただけでこんなにずぶずぶとへこむのもどうかと自分でも思うが。

 彼から見ればなぜかへこみだした少女だが、それを知ってから知らずか彼はクスリと笑った。


「いつも制服だったから少し驚いたよ」

「私服苦手なので……」

「そう、可愛いよ」


 さらりと思ってもない言葉をかけられ固まる。顔が赤くなれば良いのか青褪めればいいのかわからない。姉のようになんでもできたわけではないから、褒められ慣れてなんかいない。ましてやお世辞でも可愛いなんて、言われたことはなくて、いや、前にも凪に言われた気が。


「さっきまで展示を入れ替えてたんだけど、ちょうど終わったんだ」


 ドアの前で固まっていた少女においで、と手招きする。余計なことまで思い出して色々抉りそうだったのをすんでのところで耐えて彼の方へ向かった。


 不思議な部屋だった。様々な種類、大きさの時計がたくさん飾られていて、展示されている絵はそれぞれカーテンで隠されている。時計も動いてるものもあれば止まっているものもある。動いてるものも正しい時間を指しているものもあれば、全く違う時間を指しているものもある。


「展示してる絵はお兄さんが決めてるんですか」

「そうだよ。気分で」


 気分。この人も多分自由人だ。姉ほどではないとしても。


「どうして絵をカーテンで隠してるんですか」

「あれはなんか面白いかなって」

「?」

「全てのカーテンの後ろに絵が飾られてるわけじゃないんだ。ハズレもあるよ」


 展示でハズレってなんだ。ちょっと彼の性格が読めなさすぎる。


「試しにどれか好きなところを見てごらん」

「ハズレは」

「教えてあげない」


 にこやかに笑われてしまえばもう何も言えない。ハズレを引いたときどうすればいいんだ。こういうのを外した時が一番恥ずかしくて苦手なのに。彼は心底楽しそうだけど。しかしとりあえずやってみなくては、と意を決して近くのカーテンを開けてみる。


「猫?」


 しかしそこには絵画はなく、代わりにガラスで作られた小さな猫の置物が置いてあった。可愛い。


「ハズレだね」

「ハズレ可愛すぎません?」


 そう?と彼は楽しそうに笑う。思ったよりダメージは受けなかったのでその隣のカーテンを開ける。隣がハズレでその隣もハズレなんてことはないだろう。


「猫ちゃん……」


 今度は黒猫がいた。いや可愛いのだけど、またハズレなのか。


「君、誘導に引っかかりやすい子?」

「知りませんー」


 後ろで笑う彼を無視して今度は部屋の反対側のカーテンを開ける。


「また猫……」

「すごいね。もう逆にあたりじゃない?」


 今度は青みがかかった透明ガラスの猫。だが後ろで不名誉なことを言われている気がする。


「まあ、たまたまスペースが空いた場所に猫を置いといたんだけど、これだけ絵があって空いた三箇所全部当てるなんて思わなかった」


 振り向くとニヤニヤとした笑いを隠そうともせずにいるから何となくムッとする。


「怒らないで」


 猫はあげる、と頭を撫でられる。なんだか宥められている。


「正解、というかここで一番最初に祖父が収集した絵画を見せてあげる」


 彼が窓の近くの大きなカーテンを開けると、そこにはガラスの猫ではなくちゃんと絵画があった。

しかしそれはパッと一目見た時から違和感があるものだった。絵の中央には一人がけのソファが2つ並んでいる。周りは絵画がたくさん飾られているように見える。この絵の中も画廊なのだろうか。そして右のソファには初老の男性が座っていて少し左を向いて楽しそうに話している。話しているのだけれど、それを聞く相手は絵の中にはいない。右のソファには誰もいない。男性は誰もいない空間に向かって話し続けている。どうして。なんだか怖くなってくる。


「怖い絵だよね」


 彼に言われて、やはり怖いという認識は間違っていなかったのかと安堵する。


「誰もいない場所に向かって楽しそうに話しかける男性。なんでだと思う?」


 なんでと言われてもこれはもう怖い絵としか見れなくなってしまった。おばけでもいるのか。ひたすらに首をかしげる。


「これは対になる絵がある」


 ここにはないけどね、と彼はその絵を見る。先ほども言っていたが、これは彼の祖父が最初に収集したものだったか。


「この絵は『はなむけ』という。祖父の友人が描いたものだ」


 はなむけ。餞別。人の門出を祝うこと。けれどまったく意味がわからない。何を祝ってる。もし何かのはなむけだとしたら友人が彼の祖父を描いたのだろうか。そうだとしてもよくわからないが。


「ここに描かれた男性は僕の祖父ではないよ。その友人」


 いよいよわけがわからなくなってきた。


「さっきこれと対になる絵があると言ったけど、僕の祖父が描いたその絵の名は『たむけ』という。手向け、死者への弔いのこと。その絵にはこれと同じような絵が描かれている。でも右のソファには祖父が描かれている。左には誰もいないけど」


 つまりここの『はなむけ』の絵には左側に友人が、対となる『たむけ』では右側に彼の祖父が描かれていることになる。自分が描いた自分の絵を、しかも相手がいない絵をお互いに贈ったのか。よくわからない。


「祖父の友人はこの絵を病室で描いたのちに亡くなったんだ。死ぬ前に祖父とこの絵たちを送りあった。お互いに別のところに行くことになっても、また話をしようと。お互いに餞別の意味でね」


 そうか、と納得した。空いている椅子には自分自身が入るのか。だからそこは空いたままなのか。友人を、自分を忘れないように、また一緒に話をするために贈ったもの。ならばこの絵は怖い絵なんてものではない。友人からの大切なものだ。彼の祖父もすでに亡くなったと由月から聞いた。

 どこかでまた彼らが話すことができれば良いのだが。


 友人、浮かぶのは午前中まで一緒にいた律のことで。また話したいと言ってくれた。律ならばもっと自分のことも話せるかもしれない。慣れてないことだから、ゆっくりになるかもしれないが今までよりも、もっとちゃんと話したいと思った。


 ♦


 次の日はまた通常通りに夏期講習が始まった。やっぱり暑いのはうんざりする。やめてほしい。いつも通りに汗が引いてから教室に入る。すると、今回は最初から少女の席の前に律は座っていた。少女を見ると手招きをしてくる。なんだろうと、近寄ると律はニヤッと笑って


「恋バナでもしてみようか」


 嫌な予感しかしなかった。

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