『no image』
妹が生まれたのは冬だった。
蓮、と名付けたのは母親。凛、という自分の名も名付けたのは母親だった。
ここは山が近くて冬はよく雪が積もる。妹が生まれた日も、自分が生まれた日も、母親から聞いた話ではひどい降雪の日だったそうだ。
だからと言ったわけではないが、冬は好きだった。降り積もる真白の雪はとても綺麗で、雪の日に空を見上げては雲からひたすらに落ちてくる雪を目を回すまで見ていた。
小さい頃、妹はよたよたした歩き方しかできないくせに雪についた足跡を追ってあとをついてきて、自分に追いつくと満足そうに笑っていた。もう少し大きくなると近所の子たちと雪合戦で遊んだり、2人で雪兎を作って母親に取っておいてもらってたりもした。雪合戦の雪玉の中に石を入れたら余裕で勝てるな、と冗談で妹に言ったら全力で止められて、そのくらいの分別はつく年になったのかと思った覚えがある。
寒さは心地よかった。感覚が研ぎ澄まされて、冷たさで頭が冴えていく。雪が音を取り込んで静まり返る。吹雪いてる時に少し歩いて家から離れると簡単に迷子になる。
自分よりも、人間よりも圧倒的に強いもの。それが自然であることは幼いうちから実感として理解していた。それを感じられる時間はなぜか落ち着く。吹雪く中外に出たら当然親に叱られるだろう。もちろん危ない、ということも理解している。でも、人といるよりは自分とは桁違いの強さを持ったものに畏怖している方が、心は安らいだ。
冬は好きだ。
冬は強いから。
♦
自分は見栄っ張りな性格なのだろうと思う。意地っ張りでなく見栄っ張り。意地なんてない。これはただの虚勢。脆くて薄っぺらい被り物。
幼い頃から医師を目指していた。なぜそうなったのかは覚えていない。覚えてはいないけれど、推測するになんでもよかったのだ。弁護士でも外交官でも。親にとって安心して見ていられるような職業ならばなんでもよかったのだ。その時目についたのが医師だったというだけ。
そのための努力はした。記憶力はいい方だったから勉強もさほど苦ではなかった。模範的な優等生。誰が見ても良い子だねと言われるような、そんな子供だった。自分の性格もその頃には概ね理解していた。
見栄っ張りなのはもちろん、乱暴で飽き性。そしてある程度までは我慢がきく、無理がきく。自分をある程度は客観的に見れたため、自分の限界値や現在の状態の把握など、この年頃にしてはできていた方だと思う。無理はしても無理をしてると自分でもわかるから、そこそこの無理で止めていた。
進学校の高校に通っても中学とそれほど大差はなかった。高校と中学の勉強量が違うのは当たり前。それに伴ってこちらも勉強していけばいい。
その頃妹が中学に入って、だんだんと妹の性分も見えてきた。自分のことを棚に上げて言わせてもらえれば、なんとも難儀な性格になったものだ。苦労しそうだなと他人事ながら思う。妹は自分を内から見れても外から見るのは苦手なようだった。だから自分を守るしかなくて。自分のことで精一杯で、振り回されて、常に気を張って。とてもつらそうだった。
だからまた見栄を張った。妹の見本になりたかった。そうすれば少しはあの子も楽になるかもしれない。
だけど、やはり見栄は見栄。中身なんてないもの。親の前で見栄を張って医師を目指してしまったから。ただでさえ難関大学の医学部なんてものを目指してしまったから。最初の頃の悠長なことはしていられなくなった。自分の馬鹿な見栄に気づいたのは高校1年の秋。一応進学校に通うものだし、成績は上位に入っている。無理なことではないと先生も言っていた。馬鹿な目標だとは自分でも思っていたが、頑張ってみようとも思った。もう見栄を張ってしまったから、そうしないと良い子ではいられないから。
だから少しだけ見ないふりをした。
頑張って頑張って、そろそろ無理がくるとわかっていた。でもそれから目をそらして。模試の結果で両親は喜んでいた。
だからまた頑張ってみて、目をそらして。
校内で1位になった。だからまたやって、今度は目を瞑って。またやって。
そんなことをしていたら限界がわからなくなってしまった。
はじめは長時間の模試が前よりも苦痛に感じ始めた。問題も難しくなってきているし、これは当たり前なのだろう。大丈夫。
次は授業中に先生の話が全く頭に入ってこなくなってしまった。寝不足が原因だろう。もう自分の健康状態の管理までできなくなったのか、私は。でも今気づけたのならまだ大丈夫。
その次は友達との会話がやりづらくなった。返答に時間が少々かかる。どうしてだろうか。でも友達もそこまで気にはしていないし、大丈夫。
そしてその次は足し算のミスが多くなった。数Ⅲをやっているのにどうしてここでつまずくの。
しばらく経った日。
解答欄に書かないといけないごく簡単な漢字が出てこない。
またしばらく経った日。
もう、文字が読めない。
ここでようやく気づいた。
もう私はダメだ。
♦
高校3年の秋。学校に通えなくなった。
自分がもう故障したと気づいた途端、体がなんのいうことも聞かなくなった。とても困った。ベッドの上から動けなくて、寝ようとしても眠りが浅くて寝不足で頭がぼーっとする。もう使い物にならない。
両親は受験勉強の疲労ではないかと、だからしばらく休むようにと言った。
それはあってる。自分が馬鹿な見栄を張り続けたせいでこうなったのだから。でも何日か休んだところでこの状態が回復するとは思っていなかった。あれだけ目を逸らし続けたんだ。どれだけのツケが回ってきても仕方がないだろうな。本当に使い物にならない。そんなことだけが頭の中を占めていた。
ぼーっとただベッドに寝ころぶ。そんな自分を見兼ねたのか、妹が本を読まないかと進めてきた。
なんの本を勧められたかなんてわからなかったし覚えてない。
ただ、妹に気を使われてしまったことに、ひどくショックを覚えた。こんなことになったことがひたすらに申し訳なくて、悲しくて。妹の見本にならなかったことが、必死に張っていたものが崩れてしまったことが苦しくて。結局、見栄は見栄で。
「ごめんね、お姉ちゃん字が読めなくなったの」
泣いている私を見て、妹がひどく狼狽えていた。それがさらに胸を苦しくさせた。
そのあとすぐに心療内科に連れていかれた。鬱だと言われてまあそうか、と。医学を志す者として、というかは試験の面接対策として医療の知識は広く浅く取り込んでいた。メンタルヘルスについても何冊か本を読んだことがある。その項目にあったうつ病の症状がそのまま自分だとは想像がついていた。親の方がかなりのショックを受けていたようで、それを見てまた申し訳ない気持ちになった。
医者からの処方箋はとにかく休養をとること。今回の受験は見送ってただ好きなことをしろと。今、重要な決断をしてはいけない。体も精神も摩耗しきっているから、時間をかけて休めと。時間をかければ癒えるものもある。
そんなことを言われても頭はもう劣化してうまく動かないし、ベッドから動く気もしない。というか、口を開くのですら億劫だった。好きなことをしろ、の好きなことも思い浮かばない。動けないから眠る。それに眠って意識がない状態ならば余計なことを考えずに済む。つらい気持ちを持たなくて済む。するとほぼ丸一日寝てる日が続く。今度は過眠症かな、となんとなく思いながらまた眠った。このまま自分はただ眠るだけのものになるのだろうか。だったら、もう、いらないだろ。こんな欠陥品。
♦
秋だと思っていたのに、久しぶりにカーテンをのろのろと開けてみたら冬になっていた。現在の時刻は朝の四時。真っ暗な闇に白い雪が降っている。いつもなら絶対に起きていない時間なのに、忍び込んだ寒さのせいか目が覚めていた。少し頭の中の靄も薄れている気がする。
外に出て、もっと冷たいものに触れればこの劣化した頭も少しはマシになるだろうか。
近くで寝ている妹を起こさないように、鉛を着ているかのような体を動かす。と言ってもコートの下に寝てた時の服を着たままにブーツを履くだけ。頭は軽く梳かしたけど眠そうな人に見えるだろう。そこまで身だしなみに今は頭が回らない。どうでもいい。
真っ暗な中、ガチャリと玄関の戸を開ける。雪灯りがほんのりと見える程度の冬の闇。しんしんと降る雪が顔に当たって冷たい。頭が冷えていく。少し体が軽くなったような気がする。
冬は好きだ。雪も好き。冷たいのも好き。
先程までひたすらただ眠るだけで、全て拒絶していた中に思い出した。
もっと、冷たいところ。もっと濃い闇はどこ。
幼いころに吹雪く中、嬉々として家を飛び出した自分と同じように、そのままふらふらと歩き出す。
手袋をしていないから手先が痛くなってきた。それも久しぶりに感じる体の感覚に、安堵以外の感想は抱かない。
白い息を吐きながら薄く積もってきた雪の上をサクサクと進む。
街灯なんてないからただ暗くて黒くて。それが嬉しくて。
そのまましばらくどこを歩いているのかもわからない頭のまま歩き続けていると、唐突にさらに深い闇が見えた。ぽっかりと口を開けた洞窟のような闇。
しかしそれは微かな灯りがあるからこそ存在する闇。黒々とした景色の中に淡く灯るものがあった。唐突にできた認識できる物体にそのまま近づいていく。
するとそれは石灯籠の中に灯された蝋燭だった。雪が覆いかぶさり、積もり、灯りを遮っていたからこんなにも儚く見えたのだった。
石灯籠、とするとここは。と闇の奥を見上げる。
堂々と構える木造の社。闇の中へ伸びてさらに影を作る瓦屋根。周囲を囲む沢山の木々たちに暗闇の中でも赤い鳥居。
ここは神社だった。
しかしこんなところに神社があったなんて自分は今まで知らなかった。一体どこまで歩いてきたのか。
さらに奥に見えた灯りを目指して目の前の拝殿をぐるりと回り込むと、また微かな灯りを灯す石灯籠がいくつかあり、それは奥の建物へと続いていた。おそらくあれは本殿だろう。
本殿を見上げ一息つくと、唐突な疲労に襲われる。言うことの聞かなかった体を久しぶりに無理やり動かしたのだ。無理もないだろうなと、頭は落ち着いていても体は限界で思わずその場にしゃがみ込んでしまいそうになる。雪の積もる中に座り込むのはまずいな、と辛うじて頭が働き申し訳ないが本殿の瓦屋根の下に座らせてもらう。
一度座ってしまうとさらに体が重くなる。家に戻れるだろうか。
家。その単語が頭に浮かんだ途端、なぜか涙が目から溢れてくる。なぜだろうか。わからない。困った。
頭はいたって冷静なのに、涙はとめどなく流れていく。声を出して泣いているわけではなく、ただ涙だけがぽろぽろとこぼれてどうしようもない。本当に困ってしまった。この顔のままでは家にすら戻れなくなってしまったではないか。早く止まってくれないだろうか。そう頭が願っても肝心の体はやはり言うことを聞いてくれなくて。
はじめのうちは涙を拭いていたが、あまりにもきりがなく流れるので、途中からふくのも疲れて諦めた。そのまま流れるままに零して、本殿のへりに座ってただ黒に降る白を眺めていた。
「おねーさん、何してるの」
声がした。声がしたのは把握したが首をわざわざ動かすのも億劫で、目線だけをその方向によこした。
と思ったら、気配がすぐ隣に来た。
ストンと隣に腰を下ろしこちらを覗き込んできたのは、知らない人。それだけしか頭に入らない。どうでもいい。
「寒くない?もう12月だからなー。宮司に雪掻きしてこいって言われたんだけどこんな朝早くから駆り出すなよなー。寒いって言ってんのに。自分は中で準備があるからって、別に今じゃなくてもよくないかそれ」
勝手にベラベラと一方的に話し出す。こちらの相槌を待っているわけではないようだからひたすらそのままの体勢で聞くだけ。たとえちゃんと聞こうとしてもこんな頭には何も入ってこない。甲高い声ならば耳障りだったかもしれないが、隣のやつの声はほどよく低くて、ただ聞いているだけならば苦ではなかった。
しかしその間もずっと涙は流れ続ける。本当一体いつになったら止まるのか。そろそろ涙を流すことにも疲れてきた。泣いた顔のままでは家に帰れない。
いやもういいか。帰れなくてもいいか。このままこの欠陥品どこかに捨てられないかな。
涙は流れる。止まらない。
「おねーさんさ、葬式ならうちがやってあげるよ」
隣のやつがまたこちらを覗き込む。涙がぽとりと落ちて滲んでいた視界がクリアになる。
そいつの灰色の目と視線が合う。ニッと人の良さそうな笑顔を浮かべて、任せろと言う。
「でもここは寺じゃなくて神社だからさ。仏式じゃなくて神式なんだけどそこは許して。ちゃんとあれするから。俺の父親が」
神社でもお葬式はあげられることは初めて知った。仏式と神式。そうだったのか。
「でもなー。今、冬だからさ。静かに雪の中で眠れるかもしれないけど、取り敢えず寒いし。それにどうせなら春に桜とか見ながらの方がよくない?うちの裏手の大きい桜があるけど、あそこいいよー。桜の木の下の死体ってみんな好きだよな」
そっか。そうなのか。なら、まだいいか。
「だからまた来な。その時はちゃんと葬式挙げてあげるからさ」
いつのまにかあたりは薄明かりが満ちていて。夜明けの薄暮は瞬く間に終わり見る間に明るくなる。朝だ。
「おねーさん、手袋もしてないじゃん。でも今それで目を冷やしたらちょうどいいんじゃない?」
止まったね、と言って彼は立ち上がりガシガシと乱暴に私の頭を撫でて、どこかへ行ってしまった。
彼に言われたように目を閉じてぺたぺたと指先をあてがってみる。火照った瞼にひんやりと冷たくて心地よかった。
♦
医者から日光を浴びて運動をしなさい、という無理難題を言われてしまった。ただでさえ動かない身体でどうしたら良いのか。欠陥品なんてやっぱりもういらない。誰がいらないって、何より自分がいらないのだからいらないのに。
冬のあの日、朝歩いて帰ると両親も妹も幸いなことにまだ寝ていた。そのことに取り敢えず安堵する。そしてまた静かに眠っていたのだが、冬の間、動物の冬眠並みに眠ってしまったせいで医者から先ほどの言葉を言われてしまった。
しかし日中は明るすぎて無理。ならどうする、と考える。
一応でも医師を目指していたから医師の言うことは極力聞かなければと思っていた。
昼間でない日光が出る時間帯といえば朝方だろうか。そういえば、今は3月。もう春だ。
次に朝早く目が覚めたら、あの神社へ行こうと思った。
♦
「おねーさん、早起きだね」
何ヶ月か前にも何か持っていたような気がする彼の手には、今回は竹箒が握られていた。
早起きしてこの神社にまた来たのはいいものの、やはり歩くだけでも重労働でまた疲れて本殿の同じ場所にお邪魔してしまっていた。そしてやはり、というかなぜか、一息ついた途端に涙が出て止まらなくなってしまうのだ。頭では本当に困っている。別に今は悲しくなんてないのに。やっぱり壊れてる。
「桜そろそろだから。よかったね」
また隣に座って彼は一方的に話し続ける。
そうか、桜。
「でも桜は散るまで見ないとダメだから。桜が散ってからの方がいいよ」
そうなんだ。そうか。
「桜が散るとすぐに梅雨が来る。梅雨は湿度高くて居心地悪そうだから、夏になったらまたおいで」
涙は止まらない。
♦
「おねーさん、暑いの苦手でしょ。溶けそうだよ」
夏は朝方でも蒸し暑くて、本殿の日陰の中にいるのに熱気が纏わりついてくるようだ。まだ汗はかくほどではないけど、代わりに涙が流れて干からびそう。もうこれは放置だ。知らない。
アイスあげるよ、とまた隣にすわる。黙って押し付けられたアイスを受け取って舐める。口の中がひどく乾いていたようでそれはとても冷たく甘く感じた。しかし本当に涙のせいで干からびてしまう。
「暑いなー。多分もっと暑くなるよ。土の中は多少は冷たいかも知れないけど」
そうか、ならいいかもな。
「でも今月は神事があって、少し忙しいからもう少し涼しくなったらまた来な。神様の引っ越しの手伝いをしなくちゃいけなくてさー」
墓に紅葉入れてあげようかー、なんて彼がいうからそれもいいかと、また思ってしまって。
アイスのお陰で今は干からびずに済みそうだった。
♦
「裏の山の紅葉綺麗だよな。あの山、俺の親戚のものらしいんだよな、知らないけど」
隣で彼が伸びをしながら言う。基本は涼しく快適。
だが目はやっぱり潤んでポタリと涙をこぼす。けれど今はそれだけ。
「よーし、じゃあ、おねーさん葬式の準備しよっか」
彼がこちらを覗き込んで綺麗に微笑む。高く結われた長いアイボリーの髪が揺れる。彼の髪はこんな色をしていたっけ。
「まずはな、色々段取りがあるんだけど」
指折り説明しだす彼に、私は初めて声を発した。
「冬がいい」
彼の方なんか向かずに出た声。自分が一番の驚いた。
私の言葉を聞くと彼は、目を細めて微笑み
「そう。なら、冬においで」
朝方の静けさの中、彼の顔を初めて認識した。
♦
午前四時。外は真っ暗で空からの白以外何もない。誰も起こさないように、着替えてコートを羽織る。手袋をしてブーツを履く。
ガチャリと慎重に玄関の戸を開け、外に滑り出る。
雪は積もり始めたばかりで、歩くとうっすらと足跡が残る。小さいころに追いかけてきた妹を思い出して思わず微笑んでしまう。
そのまま歩き続けて、一年前にも見えた灯りを目指す。
目当ての石灯籠を見つけて積もる雪を軽く払って、いつものごとく本殿に座らせてもらう。
周囲のいくつもの石灯籠の灯りで、もうはっきりと雪が見える。
「雪が好きなの?」
サクサクと軽い音を立てて彼が歩いてくる。首を動かして彼の方を見る。人懐っこい笑みに、この人はこんな人だったのかとふと思う。
「冬が好きなの」
「そう、ならちょうどいいね」
彼が隣に座る。いつもはベラベラと何か話しだすのに何も言わないから、思わず彼の方を見てしまう。
目が合うと、彼は目を細めて綺麗な笑みを浮かべた。
「ねえ、おねーさん。今、死にたい?」
もう視界は滲まない。彼の顔もはっきり見える。
「まだ、いい。もう少しあとでもいい」
ゆっくりと彼と目を合わせて言うと、やっぱり綺麗に笑って
「そう。なら俺と付き合ってよ」
「は?」
しばらく動いてなかった表情筋がようやく動いた。やっぱり欠陥品なのだろうな、言っている言葉が理解できない。
「これでもずっと口説いてたんだけど」
「……呆れた」
クスクスと彼が口元に指を当てて心底楽しそうに笑っている。
「なんで」
「一目惚れってことで」
胡乱げな目を隠そうともせずに彼に向ける。
「ダメー?」
「なんで良いと思った」
彼は拗ねたような顔をしたかと思えば、すぐに悪戯っ子のような笑みに変わり
「じゃあ、ちゃんと口説き落とすから毎日来て」
「行かねーよ」
先程からジト目になったり動いてなかった表情筋が動いて、顔が痛くなってきた。
唐突に頭をガシッと掴まれてワシワシと乱暴に撫でられる。
「やめろ」
思わず手を払いのけると、彼はクスリと微笑んで、立ち上がった。
「もう大丈夫」
そしてそのまま、また彼がどこかへ言ってしまいそうになる。から、思わず声を上げてしまう。
「あの、……えっと」
声を出したのはいいけど久々に多少大きな声を出そうとしたせいか、思ったよりも小さな声になってしまった。しかし、それでも彼は立ち止まってこちらを見てくれた。
「なあに」
やっぱり欠陥品かな、ダメかもしれない。彼に大丈夫って今さっき言われたばかりなのに視界が滲んでしまう。
「……ありがとうございました」
神社の木々の隙間から朝日が漏れてくる。雪に反射して瞬く間に眩しいくらいの光が満ちる。
「またおいで」
向けてくれた彼の笑みはやはりとても綺麗だった。
♦
結局のところ、医者の言うことは半分は正解だった。時間が解決すると言うのはその通りだった。疲れて摩耗して何もできなかった。それがつらくて自分を、欠陥品を捨ててしまいたくなった。壊れた自分に耐えきれなくて。磨り減った精神ではまともな判断は下せない。そういえば重要な判断はするなと医者も言ってたような。
でもその休養に取るべき時間も、自分1人ではつらくて惨めで休むことすら耐えきれない。
神社にいた彼は私に時間を作ってくれた。桜が咲いたら、紅葉が綺麗だから。自然の流れに任せるように時期をずらして、伸ばして。
自然や神様、人とは桁外れの流れ。それに流されるのならば悪くないと思ってしまった。
それに彼は最後の最後まで、私に死ぬなとか、そんなことは言わなかった。最初にかけた言葉が葬式は任せて、なんて本当にふざけてる。ありがたかった。その時とても安心したのを覚えている。
漠然と自分という欠陥品を捨てたいと思った時に考えることは死に方とそのあと。
彼ならどちらもなんとかしてくれそうな気がして。明らかな逃げ場を用意してくれた気がして、嬉しかった。気持ちが一気に楽になった。
そのまま彼のいう通りに、四季に流されて。死にぞこなったというよりは、お預けを食らったかのようで。その時が来るまではここにいないと、そう思えた。
今ならようやくなぜあの時に泣いていたかわかる。追いついていなかったのだ。頭に精神が追いついていなかった。ただそれだけ。家族が誰もいない、見えないところで、見栄を張らずに済むところで、もう無理だと自分が自分に必死に言っていた。今まで無視してきた分もずっと叫んでいた。言葉でなくても、自分が自分に助けてと訴えていた。それに結局最後まで気づかなかったけれど。ただ泣きつかれてしまって、でもそれでよかった。
彼は私を見てどう思っていたのだろうか。冬の暗い朝方。ずっと無表情で涙を流すだけだった私を、どう見たのだろう。
そういえば彼は泣くのをやめろとも言わなかった。ただ隣にいて見ていてくれた。それだけが本当にありがたいと思う。そのときは名前も知らないし、顔さえちゃんと見てもいなかったけど。どうにもできなくて苦しかった時にそばにいてくれたことが何より嬉しくて、だから私はあそこで泣き続けることができた。
♦
「由月」
お盆が終わった後、すぐに祖父母の家に行くと言ったが寄り道をしてアイツの家にいた。
由月もお盆が終われば東京の大学へ戻る。初めて会った時は神社の修行のためにこっちにいたらしいが。
「なあに」
ごそごそと移動の準備をしながら返事を返す。忙しいだろう彼の家に勝手にお邪魔をしたのはこちらだ。
「今度はいつ、お葬式挙げてくれるの」
少し驚いたかのように彼が振り向く。顎に手を当てて少し考えると、目を細めて綺麗に笑った。性格は雑なのに顔が綺麗だから腹がたつ。
「俺が凛を振った時に挙げてあげるよ」
「喧嘩売ってる?」
ジト目で返すと、彼はクスクスと笑っておどけたように言う。
「あれ、おかしいな。今口説いたんだけど」
「どこが」
私の反応を見てまたもや彼は笑う。
彼のお陰でまだ、自分を捨てないでいられている。時間が解決するのは受けたダメージとそのツケの回復まで。それを引き起こした原因はまた別に解決しなければならない。
だけど、もう彼の前でたくさん泣いたから。妹の前で絶対に泣かないようにしてたくせに、初対面の人の前であんなに泣いてしまって。見栄なんて最初から彼には張りようがなかった。ずっと私の叫びを隣で見守っててくれた人。彼がまだ見ててくれるなら、もうしばらくはまだ大丈夫。
後ろを向いている彼に近寄って、前とは違い短くなった髪をかき混ぜるようにわしゃわしゃと頭を撫でる。
「え?何?!」
最初は彼に乱暴に頭を撫でられても反応もできなかった。今は自分から彼に触れることだってできる。
「じゃあ、お前が私を振ったらちゃんとお葬式してよ」
しばしポカンとした後、先ほどとは違い快活に笑う。
「任せろ。楽しみにしてろよな」
ああ、とても楽しみだよ。
そんな日が本当に来るならば。
「ありがとう」
もう表情筋はこわばってはいないから、きっと私も彼のように綺麗に笑えただろう。
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