第2話 失われたねる子を求めて
翌朝。いつものように馬小屋の軒下で目を覚ましたオデンの元に、血相を変えた宿の主人が駆けてきた。
「ねる子を見なかったか?」
息せき切って、主人は問うてきた。
「ねる子さん? …そういえば、昨日から見てないな…」
いつもなら、ねる子が宿泊客の馬に飼葉を与えている時間である。
飼葉をもらえて喜ぶ馬のいななきで、毎朝オデンは目を覚ますのである。
今日はそんな彼女の甲斐甲斐しい姿もない。
ひとまず、気が動転している主人を落ち着かせ、話を聞くことにした。
「昼食の後に出かけたいところがあるというので
相変わらず、ねる子にはどこまでも甘い主人である。
「ところが、ねる子は夜になっても帰ってこなかった。子供でもないのだし、と思い、心配することなく昨晩は寝てしまったのだが…。今朝になっても戻ってなくてな」
朝には宿屋の仕事があるし、ねる子は断りもなく外泊し戻らないような子ではない。
どこかで、事件に巻き込まれたのかもしれないと、いつもの赤ら顔を真っ青にして心配しているわけだ。
「部屋に荷物はあるので、出ていったわけではないと思うのだが…」
「分かった。朝飯がてら、街の中を見てくるよ」
「すまん、助かる。本当は私が行きたいところなのだが、今日に限って客も多くてな…」
「任せておけ。ねる子さんが寄りそうな場所は、思いつく限り当たってみる」
オデンはダブレットに腰に剣を下げた姿で、街の東西に横断するデルピュネー街道を歩いていた。
ダブレットは鎧の下に着る服である。鎧が打撃などで変形した際に肌を守るため、綿が詰められている。
夏に着るには厚手な服だが、デルピュネーは標高の高い高地なので、暑苦しいということはなかった。
それに故郷が陥落して以来、常に戦場にいたオデンにとっては、これが最も着慣れた服であった。洗濯は欠かさないので清潔ではあるが、使い込まれているのでほつれや
旅人向けに食事を提供している飲食店「ゲオルギオスの酒場」に寄る。
オーカサス山脈麓のデルピュネー近辺は、高地のため寒冷で土地が痩せいる。そのため寒さに強い作物しか育たない。穀物で言えば蕎麦などだ。
代わりに山羊や羊の牧畜が盛んであり、特に羊肉とヨーグルトはデルピュネーの名産でもあった。
ゲオルギオスの酒場で供される朝食も「タラトール」という、ヨーグルトにキュウリや炒めた胡桃やにんにく、ハーブなどを入れた冷製スープだ。それに蕎麦の実入りの羊の腸詰めとパルレンカという
山羊の乳からできるヨーグルトは栄養豊富で長寿の素とも言われる。そのヨーグルトを用いたタラトールはこの国の代表的な料理であり、オデンにとっても幼少の頃より馴染んだものだった。
この酒場のタラトールは
食事を終えたオデンは、街を一周りし、ねる子行きつけの商店などを回った。
だが、ほとんど情報は出てこなかった。
彼女のつややかな長い黒髪は、この国の人では持ち得ないものだった。だから彼女は、この街で知られた存在であり、見かけたのなら誰かが覚えているはずだ。
つまり、何も出てこなかったということは、ねる子は街中には行かなかったということだ。
今度は、デルピュネーを縦断して流れるマンダリナ川の河原へと向かった。
この河原で洗濯するのが、ねる子の日課だった。
マンダリナ川を隔ててデルピュネーの地勢は大きく変わる。
川の西側は低地であり、平原や蕎麦畑が広がる。街の中心地も川の西にあり、デルピュネー聖堂を中心に2000人ほどの人が住んでいる。もちろん、宿や酒場などが並ぶ商店街や露天市なども西側にある。
対して東側はマンダリナ川が削った崖の上にあり、鬱蒼と生い茂る森の中に国境を守る砦や関などが築かれ、半ば城塞化している。
こちらは歩くのが面倒で、街道以外は木こりや狩人が通る林道か獣道と言った具合であり、森に張り巡らされた正確な通路は、防衛の観点上、砦の守備兵くらいしか知らない。
街の人達も、凶暴な獣や亜人が出る東岸側にはあまり行かない。
だからこそ、オデンのような腕っこきが必要とされるのである。
川の東西を結ぶのは、デルピュネー街道にかけられた一本の大きな屋根付き橋、
飛竜橋の内部は階段状となっている。
東西の川岸の高低差が大きいためだ。横からみると、橋は東の崖によりかかっているようにも見える。
この橋は、大聖堂に並ぶデルピュネーの象徴的建造物だ。
また、オーカサス山脈経由でこの国や、そのさらに西へと向かう旅人にとっても、この橋は重要な通路である。
いわば、飛竜橋は東西交通の要でもあった。
橋の南側に、目的の河原が広がる。
いつもなら、ねる子は宿とここを何度も往復し、ベッドのシーツなどを洗っている。
河原には十人弱の人たちがいた。皆女性で、当然のように洗濯の最中だった。
早速ねる子のことを尋ねてみるが、誰も今日はねる子の姿を見ていないと言う。
宿にいないのだから、
しかし、今は僅かな情報でも欲しいと思い、ここに足を運んだのだ。
その甲斐はあった。
「ねる子ちゃんなら昨日の夜に、飛竜橋の近くで見たよ」
「本当か」
「改めてそう言われると、ちょっと自信がないのだけど…」
若い女性である。左の薬指に銀の指輪をしている。
口ぶりからして、ねる子とは親しい間柄だろうか。
「いつもねる子ちゃんとは違った格好をしていたよ。だから人違いかと思い、声はかけなかったんだ。でも、今思うとあれはやっぱりねる子ちゃんだと思う」
「どんな格好だったんだ?」
「東方からの旅人が着ているような服だったよ。でも、あんな服は初めて見た」
目の前の若妻もねる子も、カートルという羊毛で編まれた
「でも、昨日は見たことのない服を着ていたんだ。黒くて、まるで男が着るような服だった。背には剣みたいなものも背負ってたし。あれじゃまるでゴジャールの戦士だよ」
「ゴジャールの戦士?」
「そう。三百年前に、この街を襲った東方の蛮族だよ。この街の住人なら知らないものはいない。子供のころから悪さすると「ゴジャール人がくるぞ」と脅されて育ったんだからね。ほかにも、いろいろと伝説があるんだよ」
確かに、ねる子は東方人だ。髪は烏の濡れ羽のように黒く、瞳もオニキスのようだ。だから、東方風の格好していることはおかしくはない。
しかしそのねる子が、なぜ蛮族が好むような黒装束を着込み、飛竜橋を昇ったのか。
オデンは若妻に礼を言い、河原を後にした。
「橋を渡るか…」
伝説も気になったが、それについては心当たりもある。後回しでいいだろう。
今は、ねる子の足取りを追うのが先だ。
飛竜橋のふもとに着いた。
防衛施設でもある飛竜橋には、鉄製の厚い門扉がつけられている。
日中は開かれたままだが、夜になるとよほどの事がない限り閉じてしまう。だから東からの旅行者は、日没前に飛竜橋を下らなければ、危険な森で野宿となってしまう。
「空が赤くなる前にデルピュネーに入れ」とは、飛竜橋の門のことを指して言われる旅人の格言であった。
しかし、ねる子が目撃されたのは夜だ。つまり、この門は閉まっていたはず。
ただこの付近にいただけなのか。それともなにかしらの手段で橋を渡ったのか。
「考えるのは後だ。とりあえず東側に行き、衛兵に目撃情報を訪ねよう」
橋に入った。
入口には、荷馬車を乗せるための大きなリフトがある。
階段で昇れない馬車や畜獣が橋を渡る場合、階段中央の溝を通る鋼のケーブルに繋がれたこのリフトに載せ、橋の東側、つまり階段の上に設けられた魔法の
巻揚機が動くと、魔法によって重さが変わる
このリフト利用料はデルピュネーのよい収入源となっていた。
このリフトの運行と警備のため、入口には数人の衛兵がいる。
それほど親しいわけではないが、キャラバンの護衛で山脈に入ることも多いので、彼らとはそれなりに面識はある。
念の為、衛兵たちにも尋ねたが、ねる子の姿は見ていないようだ。
ここまでの手がかりは、あの新妻のあやふやな目撃証言だけだった。
本人もいまいち確信が持てない程度の情報ではあったが、オデンの勘は、彼女の見た異形のねる子は、間違いなくねる子本人だろうと告げていた。
ねる子と共に宿で過ごしたここ一年で、そう思える時が何度かあったからだ。
(この剣を使うことがなければいいのだが)
腰に下げた剣の柄をひと撫でし、オデンは橋の階段を登りはじめた。
(つづく)
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