第2話 糸は断たれて


絶望する間もなく、新しい日々は始まった。


「お前は今日からロンフィット家の一員。それに見合うだけの教養を身につけてもらう」


最初の数ヶ月は勉強漬けだった。

私室のベッドの上で6時に目覚め、陽が沈むまで執務室で勉学を叩きこまれた。

一日で分厚い本一冊を読み終えるペースだったから、一般的な尺度で言えばほとんど虐待に近い教育だろう。

だが運の良い事に、私は物覚えのいい方だった。

私はマイツァーが渡してくる教本の全てを理解し、結局彼が持っていた鞭で一度も叩かれる事はなかった。


そんな私の頭を満足げに撫でるマイツァーを見て、彼が私を拾った理由を理解した。この男は、出来の良い子どもが欲しかったのだ。


そう悟ったのは、私の隣でずっと鞭で叩かれている青年がいたからでもあった。

それが彼の一人息子、ギルザ・ロンフィットである。


「こんな事も分からないのか、この出来損ないめッ‼」


よく私の隣では、マイツァーの怒声と鞭の音、そして泣きじゃくりながら謝るギルザの声がしていたものだ。


私は戸籍上、このギルザの娘という事になっていた。

マイツァーの妻は既に死んでいるし、後妻もいない。

そんな状態で私を養子としたなら、その出自を勘ぐられると考えたのだろう。その為に息子の長女という形にして体裁を整えたのだ。


で、そのギルザを一言で言い表すなら、『平凡』だった。

取り立てて愚かな人間というわけでもないが、何か秀でた才があるわけでもない。

彼には何の罪もなかったが、マイツァーが跡継ぎに求める能力を遥かに下回る人間だった。


そんな彼からすれば、私はさぞ気に食わない存在だっただろう。


夜には部屋でギルザが待ち構えていて、よく暴力を振るわれた。


「クソッ、ふざけやがってッ‼ お前が兄さんを殺してなきゃッ、こんなことには‼」


話を聞く限り、彼の兄はウルキネスの討伐に参加した結果、命を落としてしまったらしい。

とすれば、マイツァーは我が子の仇を養子として迎え入れたことになる。

滑稽だ。


「……殴られてるってのに、なんだよ。その人形みたいな顔は……気味悪い」


暴力自体はさして辛くはなかった。外傷による痛みなど、ウルキネス家にいた頃からずっと味わってきたからだ。

ただ、どうしても辛い事があった。


夜になると、死人が私の前に現れるのだ。


父が、母が、兄姉たちが。

首のない彼らが横並びに立って、じっと私を見つめてくるのだ。

それを見る度、私はこの人たちを守れなかったのだなと思い知らされた。


その不変の事実を突きつけられることだけが、どうしようもなく辛かった。


だがそんな時、私に寄り添ってくれる人が居た。


「エトレ? 大丈夫?」


それがギルザの妻、ロゼである。

辺境から嫁いできた彼女は、毎夜私の部屋を訪ねて傷の具合を見に来てくれた。

彼女も遠い地から嫁いできた身の上であるから、私に親近感でも抱いたのだろう。


「もうここには来なくて結構です、ロゼ様」

「そんな、エトレ、ロゼではなくて……」

「私の母は死にました」


だが、私は彼女の子供でもないし、私の母はもう死んでいる。

母の真似事をする偽物から貰った愛情など、虚しいだけだ。


だが、偽物は案外しぶとい。

どれだけ冷淡な態度で接しても、彼女は私の部屋に通うことを止めなかった。



◇ ◇ ◇



そんな日常も、一年ほどで終わりが来た。

マイツァーが病床に伏したのだ。

身体に異常があると本人が気づく頃には手遅れで、すでに命は風前の灯火だった。


私を含めた家族は彼の枕元に集められた。


「心配しないでくれ、父さん! ロンフィット家のことは俺に任せてッ」


ギルザはマイツァーの手を握り、熱を込めて語りかける。

だがマイツァーはいとも簡単に、ギルザの手を振り払った。


「————エトレ。おるか」

「……はい」


差し出された手を握ってやると、彼の表情が僅かに緩んだ。


「…………儂が、お前を拾ったのは……………………ロンフィット家が成り上がる為の、捨て駒にするつもりで…………ほんの気まぐれ、だった。だが今となっては、お前と言う優れた子を得た事は、我が人生における至上の幸福であったと言い切れる」


背後でギルザが震えていた。


「お前への仕打ちを今更謝るのもおこがましいが…………頼む……ロンフィット家を…………」


マイツァーの目尻には、涙が垂れていた。

だが何もかもが虚しかった。

私は人形だ。

屍だ。

無機物だ。

だというのにこの男は私の手を掴んで涙ながらに何かを託そうとしている。

己の血を分けた実の息子を差し置いて。

何もかもが間違っている。


「御当主。それを頼む相手は私ではなく、ギルザ様で御座います」

「…………それも、そうか。おい、ギルザ」

「……はい」

「おまえの出来の悪さは今更言わずともわかるだろう。エトレを上手く用いろ。よいな」


ギルザは最早言葉を返さかった。

その数分後、マイツァーは息を引き取り。

遂に、私を必要とする人間はこの世に一人もいなくなった。


簡単な葬式も済んで、一週間。

当主になったギルザが私の部屋にやってきた。


「…………災難だったな、お前も」


当主になった事を機に、己の行動の不毛さを認識したのか。

ギルザの私への態度は、ほんの少しだけ軟化していた。


「好きな時に出ていっていい。もうお前は……この家には、必要ない」


銭が入った革袋を机の上に置いて、ギルザは出て行った。

情けはくれてやるから早く俺の前から消えろ、という意味だ。


そう言われるのを待っていたように、私も部屋を出た。

死のうと思った。

怖くはなかった。

私はもう死んでいる。

あるべき場所へ戻るだけだ。

今の私はエトレ・ウルキネスの死体で、その死体をマイツァーが操っていた。

そしてそのマイツァーも死んだなら、死体は土に戻るだけだ。


窓から中庭に飛び降りて、のろのろと歩いた。


「……エトレ!」


背後で女性の声がした。

ロゼだ。

ギルザとの子を孕んだ彼女は、大きくなった腹を抱えて私を追いかけてきた。

だが返事はしなかった。

彼女と交わす言葉など、今の私にはない。


そう思っていると、足音が止んだ。

そして、何かが土に伏す音が聞こえた。


振り向くと、ロゼが倒れていた。


「っ、ロゼ様!」

「エ、エトレ…………」


堪らず駆け寄って上体を抱えた。

顔は土気色になり、その目は虚ろだ。


「気を持ってッ、しっかりっ」


そう声をかけている間にも、彼女の着ている妊婦服は股の辺りからどんどん赤く染まっていく。


「誰かッ! 誰か、手を貸して‼」


全くもって、矛盾している。

これから命を捨てようとしていた者が、誰かを助けようとするなど。

だがそんな理屈に意識を回す余裕はなく、私は声を張り上げ続けた。

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