第26話 ……ねえ。君も、もしかして──
〇
凌佑に対する気持ちは、きっと測りきれないくらい大きい。
……一度、自分の身を意味通り犠牲にして私を助けてくれたことがあるっていうのもある。多分彼への恋心の大半は、それへの感謝だと思う。
もちろん、そのことがなくても凌佑のことは好きだ。あくまでもっと、好きになる理由ってだけで。……感謝してもしきれないけど。
きっかけそのものは、中学三年生のときだったと思う。私は、十一月くらいにインフルエンザにかかってしまい、一週間ほど学校を休んだ時期があった。
当時からしたら受験シーズン真っ只中で、ブレーキがかかってしまうのがもどかしかった。ベッドから出られなかったので、寝ながら単語帳開いて勉強したらお母さんに怒られたのも覚えている。
そうなると、本格的にやることが寝ることしかなくなり、自然と焦りが増してくるようになった。
そんな、とき。
──二年前
私のスマホが小さく震えた。
「ん……誰からだろう……」
布団から亀のように頭を出して、スマホの画面を確認した。
凌佑:熱大丈夫? 下がった?
それは、私の幼馴染からの連絡だった。
たかのあずさ:うん、下がってあとは様子見るだけ
たかのあずさ:あさってから学校戻れると思う
そういえば、インフルエンザの間は凌佑と話すことがなかったから、こうして会話をするのは久しぶりだなあ……。凌佑の性格なら、一回くらいお見舞いに来そうだけど、インフルエンザだからさすがにそうもいかなかったみたいだけど。
凌佑:そっか、それはよかったよ
凌佑:しばらく一人だから、なんかつまんなくて
凌佑:やっぱ話し相手いないとなーって、実感しているところ
彼のその言葉を見て、思わず、頬が緩んでしまう。
それと合わせて、気づいた。
今、凌佑はひとりぼっちなんだ……。
ひとつ隣の家で、今凌佑は一人でご飯を食べて、一人で勉強している。
……凌佑はすごいよ……私にはできない。寂しくて。怖くて。
たかのあずさ:私も私で焦っている途中だけどね、勉強止まっているから
凌佑:まあまあ、それはそれでなんとかなるよ、きっと
凌佑:梓が頑張っているのは僕がよく知ってるから、大丈夫。大丈夫だよ
彼のメッセージを見て、少し指の動きが止まる。
焦りを少しずつ、溶かしていくような、そんな言葉。
凌佑:一年生のときから、コツコツ勉強してきたんだから
凌佑:こういうときに貯金吐き出せばいいんだよ
たかのあずさ:……うん、ありがとう
たかのあずさ:少し、落ち着いた
休んでいる間、張り付いていたもどかしさは、彼と話すだけで剥がれてしまい、気が楽になった。
……なんでだろう……。友達やお母さんと話しても、そんなことなかったのに。
凌佑:じゃあ、僕は勉強戻るんで。おやすみ
たかのあずさ:うん、おやすみー
凌佑との会話を終えると、私はスマホをベッドに置いて、また布団にもぐりこんだ。
……さっきよりも、温かく感じるのは、なんでだろう……?
そして私が学校にまた通い始めた初日。さすがに病み上がりの体で凌佑を起こしに行くことはお母さんが許してくれず、いつもより少し遅い時間に家を出た。
すると、
「……あ、おはよう、梓。久し振り」
玄関の前で、マフラーを巻きながら用語集を呼んでいる凌佑がいた。
「お、おはよう……もしかして、待ってた?」
「……今日からって、聞いたから……」
少し気恥しそうにそう言う彼は、赤くなった手で開いていた用語集をカバンにしまった。
「行こう?」
どこか心のどこかがポカポカとしてくるような、そんな感覚がしたんだ。
「う、うんっ」
吐き出される白い息は、まるで雪の結晶と見間違えるくらい、綺麗に映った。
教室に着くと、何人かの友達に囲まれ「あ、梓来たっ」「元気になったんだ、良かったー」「心配してたよー」「ノートとか、言ってくれれば見せてあげるからね」などと、優しい言葉をかけてもらった。
「うん、ありがとう、みんな」
一週間も休んでいたわけで、授業は完全に知らない世界に突入していた。国語ではこの間まで現代文を扱っていたはずなのに、今は古文に移っているし、数学は知らない公式を当たり前のように使って問題を解いているし、英語も見たことのない構文がいっぱい教科書の中に出ていた。
……これ、思った以上に私危ないんじゃないかな……。
お昼休みに入る頃には、今日の朝に感じていた落ち着きはとっくに失われて、また焦る気持ちが私の表情を硬くさせた。
午後の理科と社会の授業で完全にノックアウトされた私は、トボトボと中学校からの帰り道を歩いていた。凌佑は掃除当番だったから、先に私は帰っていた。
帰り道、川沿いを歩く。川のせせらぎさえうるさく聞こえてしまうほど、心は打ちのめされていた。
「はぁ……」
今日一日で何回ため息をついただろうか。数えるのも馬鹿らしいけど……。
踏切を渡り、家のある西武線の線路の南側へと出た。この川は、くねくねと曲がりながら西に進んでいく川で、大きく見れば電車と並走しているんだけど、こうやって小さく見ると線路を縦断するところもある。それが、私の通学路、なんだけど。
「そんなことよりも……なんだよなあ……」
……進んだページ数が多くて、ノート借りるの申し訳なくなりそう……。というか、借りられなかった……。
あんなに量があると、一日や二日で写しきれないだろうし、長く借りちゃうと貸してくれた子の勉強に支障が出そうで……。
「どうしようかな……」
コツン、と足元に転がっている石を蹴りだした。
蹴られた石はコロコロと転がり、そして川にポチャリと音を立てて落ちていった。
「……落ちちゃった……はは」
その石を、何に見たのかは言わないでおく。……現実になったら嫌だから。
「はぁ……」
乾いた道を、また歩き出したとき。
「なに寂しそうにため息ついてんの?」
「……り、凌佑……」
私の後ろには、少し息を切らせた幼馴染の彼が立っていた。朝巻いていたマフラーを外しているあたり、結構真面目に走って追いかけてくれたみたいだ。
「……先に帰るなら言ってくれたらいいのに」
「ご、ごめん……」
「で、何か悩みごと?」
彼は私の前にゆっくりと出て、前を向きながらそう話しかけた。
「……朝までは、なんとかなるかなーって思ってたけど……予想以上に進んでいて、どうしようかなって……」
「まあ、テスト近いからね、先生も少しでも早く範囲終わらせたいから必死なんだよ、きっと」
「ノートとか……どうしよう……」
「ああ……それね……」
凌佑はカバンの口を開けて、中からなにか書きこまれたルーズリーフを取り出した。
「……使って。休んでいた間のノート」
そして、彼はファイルにしまわれたルーズリーフを私に渡した。
「……え、だ、だって凌佑、普段ルーズリーフ使ってないよね……?」
「そうだよ」
しだいに、胸の奥が熱くなってきた。
「こ、これ……」
震える手で、ルーズリーフをパラパラとめくっていく。
「……わざわざ私のために……?」
いつも大学ノートを使っている彼が、ルーズリーフに書いた板書を作った。それが意味するのは、きっと、そういうこと。
「……インフルエンザで、損しちゃうのは……なんかなって……」
「っ、あ、ありがとう……!」
ついさっきまで重かった気分は、ほんのわずかなこの時間で、一気に軽くなった。
私は貰ったルーズリーフを大事に自分のカバンにしまう。
「……帰ろう? 寒いし」
「う、うんっ」
少し乾燥した空気の青空の下、きっと私の周りは、凌佑の優しさと、私の明るい気分で潤っていた。涙のせいなんかではなく。
今日も、一応晩ご飯を作りに行くのは念のため控えた。
晩ご飯を食べ終わったあと、部屋で帰り道に貰ったルーズリーフを机に並べる。
見慣れた彼の文字が、三色のボールペンに彩られて、浮いてくる。
「ここはテストに出るらしい、」
「衆議院と参議院の定数や任期、被選挙権の年齢の違いとか大事!」
「地学分野はとにかく初期微動継続時間、らしいよ(先生いわく)」
そのような書き込みも結構見られたノートは、見やすくて、面白くて、とてもためになった。
きっと、凌佑は自分用にもノートを授業中にとって、それとは別にこのルーズリーフを作ってくれたんだろうけど。
……その温もりが、とにかく嬉しかった。
部屋の窓越しに灯る、ひとつの明かり。
今頃、彼はその明かりの下で、カリカリと音を立てつつ勉強をしているのだろうか。
そんなことを考えつつ、ノートを写し続けていると。
一科目めの社会のノートの最後のページに、こう書いてあった。
「休んでたからって、頑張りすぎるなよ」
「変わらないペースで、梓は間に合うから」
と、青のボールペンで凌佑の言葉が書き連ねてあった。
ぽっと、一本。心にマッチが擦られた。
温かい炎が、ゆらゆらと揺れて、私の気持ちをはためかせる。
「……あ、れ……?」
きっと、誰しもが心の中に、マッチの棒は持っていて。頭についている薬品も、きっと誰もが抱えていて。
……でも、その薬に引火するマッチの箱についている薬は、きっと限られていて。
「私……もしかして……」
私にとって、それは。
いつも隣にいてくれた、幼馴染の彼だったんだ。
だって、凌佑のことを考えると、どうしてか顔が熱くなる。
熱もないし、風邪でもない。なんせインフルエンザ明けだから。
これが、きっと……。
好き、って感情なんだ、と気づいた。
──
それが、多分始まりなんだ。走馬灯のように蘇った思い出が、私にとっての、想いの起点。
高校に入ってからも、凌佑に助けられる場面は何度かあった。学祭の準備だとか、テスト勉強だとか、クラス委員の仕事だとか。
数えても、数えきれない。
凌佑からは、たくさんのものを貰ってきた。
それを少しでも返してあげたくて、感謝を伝えたくて。
だから、少しでも、関係を、心の距離を縮めたくて。
いつか、いつか告白しよう、この気持ちを伝えよう、そう、思っていたのだけど。
ごめんね、どれだけ繰り返しても、上手くいかなかった。やっと、やっとうまくいったと思ったら、これだよ。
だったら、私に、生きている意味なんて──
すうっと、私そのものが宙に浮かんでいく。
ああ、きっとこれが、これが終わるってことなのかな。
梓っ……! 梓!
ふと、体全体が、誰かの声に呼び戻されるような気がした。声の主はわからない、わからないけど、私の名前を呼んでいることだけはわかる。
梓っ! こっち! まだっ、まだ駄目だっ!
すると、声に反応するように、宙に飛んで溶けかけていた私の意識が、靄を晴らすように鮮明になっていって、時間がぐるぐると巻き戻るかのように思えた。
……ねえ。君も、もしかして──
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