第6話 凌佑のバカ!

 あれからどれだけの時間が経っただろう。雨の降る音だけが、延々と聞こえ続けた。

 僕は、玄関から動けないまま、まるで縛り付けられたかのようにその場に座り続けた。


 時折「っくちゅ」と僕のくしゃみが雨音に混じるようになってきた。

 ……体が冷えてきたんだな……。当然か。梓に言われたこと、何一つやってないんだからさ。

 それでも、動く気にはなれなかった。


 鉛に取りつかれたかのように、僕の気持ちは、深く、深く、濁った水の底に沈んでいきそうだ。

「っくしゅ」

 段々と意識が落ちていきそうだ。

 いっそこのまま、僕のこの気持ちも一緒に、闇の中に沈めてくれれば、いいのに。

 

「凌佑! 凌佑! しっかりして!」

 次に意識が戻ったとき、僕は飴細工のような綺麗な目と目が合った。その瞳からは、星が零れているんじゃないか思うくらい大粒の涙が落ちていた。その涙は、僕の頬を濡らす。


「だからちゃんと着替えてって言ったのにっ! 連絡ないから心配になって来たら……! 凌佑のバカ!」

 そっか……僕、連絡しないで落ちたのか……。それは、悪いことしたな……。


 梓は、僕の額にそっと手を当てる。

「っ……熱、出てるよ……! 早くちゃんと横になって寝ないと! 立てる?」

 ああ、辛い。体もそうだけど、やっぱり優しくされるのも、滅茶苦茶しんどい。


 それに、何が苦しいって、心のどこかで、梓が心配してくれたことを嬉しく思っている僕がいるのが、一番苦しい。

 梓に肩を貸され、僕は玄関から部屋のベッドに連れて行かれる。

 部屋に入ってすぐ右に置いてあるタンスから、梓は僕のパジャマと替えの下着を持ってきた。


「とりあえずこれに着替えて。私は外に出てるから、ちゃんと着替えるんだよ」

 そう言い、梓は部屋の外に出て行った。

 まあ、これ以上この濡れた制服でいる意味もないし、そろそろ本格的に体が重くなってきてまずいから、僕はゆらゆらと体をふらつかせながら、梓の出した服に着替えた。そして、力尽きたようにベッドに倒れこんだ。


「着替えた? 入るよ」

 と言いつつ梓は僕の部屋に戻って来た。着替えている間に何か用意したのか、手元で何かやっている。


「はい、冷えピタ貼るから、じっとして」

 彼女は僕のおでこにペタっと冷感がするものを貼りつけた。心地よい感覚が、そこから流れる。


「体拭くから、ボタン開けるね」

 続けてタオルを持って梓は僕のパジャマのボタンを開け始めた。

「……シャツ、めくるね」

 全部のボタンを開け、梓は一言断ってから、僕のシャツをめくった。

 無言になりながらも、梓は僕の上半身をタオルで拭いていく。


「はい、次は背中拭くから、うつぶせになってね」

 またボタンを閉める彼女が言うままに、僕は体を転がす。

「ありがとう。はい、タオル入れるね」

 濡れていた体は、スッキリと乾いた状態になった。


「よし。……あとは、とりあえず寝てね。きっと、そうしたら良くなるから……」

 枕元に座りながら、梓は僕の体をポンポンと優しく叩きながら、寝かしつけようとしてくれた。さすがに疲れていたのか、体が休みたがっていたのか、一分も経たずに僕は再び意識をベッドの中に落としていった。


 目が覚めたのは、日をまたいだ深夜二時だった。枕元に置いてあるスマホで時間を確認した。

「あ、起きた?」

 僕が動いたのを見て、隣に座っていた梓がそう声を掛けてきた。


「……うん、起きた。……もしかして、ずっと起きてた……?」

「う、うん……だって、起きたとき、私が寝てたら、あれだしね」

 彼女は頬を掻きながら、持っていた文庫本をパタリと閉じ、立ち上がる。


「お腹空いた? おかゆ作ってあるけど、食べる?」

「あ、ありがとう……食べます」

「わかった、今持ってくるから。ちょっと待ってて」

 梓は部屋を出て、台所に向かっていった。


 その優しさが、眩しかった。目を逸らしたくなるほど、眩かった。

 梓が作ったおかゆは、とても食べやすく、用意していた分のほとんどを僕は食べてしまった。


 結局、この日、僕は梓に告白されることはなかった。


 朝になる頃には、熱も引いて体調がよくなり、登校できるくらいのレベルまで回復した。

「真面目に助かった……ありがとう」

 学校に向かう朝。繋ぐことのない手は、フラフラとさまよいながらズボンの裾をキュッと握る。


 そして、問題の場所。

 前回は。この場で車が赤信号を無視して突っ込んで来た。

 離した手を探した先に、彼女は消えてしまった。


 今回は、信号を渡る前に目と耳とで何もないかを探る。

 ……よし、大丈夫。問題ない。


 最後の一歩を渡り切ったとき、僕は心の底からホッと一息ついた。


 ……助かったんだ、これで、いいんだ。これで。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る