第78話 生まれてきたくなかった

 

 「何しに…………きた?…………母さん」


 今俺はどんな顔をしているんだろう。

 ……きっと碌な顔はしていない。

 

 「…………あら、まだ母さんなんて殊勝な言葉で呼んでくれるのね」


 驚き、次いで皮肉気に俺を笑う母さん。

 

 「でも生憎私にはもうあなたの母親をやるつもりなんて、これっぽっちもないの」


 「母親をやるつもりが……ない?……なんだそれ」


 何言ってるんだこの人は。

 意味が分からない。


 どうしたってあんたは親だ。

 俺がいくら嫌と言おうと。


 

 「そ、いつまでも貞淑ぶって、家になんていたくないのよ。私は私で自分の人生をしっかり生きたいんだよねー。ってこんなことあんたに言ってもしょうがないけど。でもあんたなら少しはわかるんじゃない、必死に自分を大きく見せようとしたあんたなら」


 なんだそれ。

 何を言ってるんだこの人は。


 何を言っているのか理解できない。

 

 

 「家にいても、誰もいないし、帰ってこない。 旦那に関しては仕事仕事って言って、全然家に帰ってこないし。帰ってきたとしても、深夜過ぎに帰ってきて、話す時間も何もない」


 「……親父にそれいえばよくね? 言えば解決する問題じゃないの?」


 「言ったけど?もうちょっとしたら落ち着くからって毎回言われて、気づいたら15年よ。もう待つのに飽きちゃった」


 自嘲気味に笑う。

 

 「まぁもうどうでもいいわ。そのうちあんたとも関係なくなるから、もう何いってもいいわよね」


 「……関係なくなる?」


 ええ、そうと。

 目の前の女は髪を撫でながら、なんでもない事のように言った。

 

 「今日はそのために来たの。いつまでたっても離婚してくれないあんたの父親にハンコを押させるために」


 離婚届?

 

 ああ。それで分かった。

 そういえばこの間来てたな。


 親父が必死こいて隠したやつ。


 「ああ、この間も送ってきてたやつか」


 「そ、ちゃんと届いてはいるのね、良かった良かった」


 何がいいんだよ。

 何もよくはねーよ。

 ………ああ、この人にとってはいいのかもな、自分のことだけを考えて生きていくとのたまったこの人に。

 新しいやつと一緒になって人生を再出発していこうとするこいつには。


 「それで離婚したら、新しいやつと……ってか?」


 「新しいやつ?」


 一瞬意味不明とばかりに、顔を曇らせるがああ、とすぐにうなずく。


 「そ、そうよ!せっかく新しい人生を見付けられそうなんだもの! 足引っ張ってもらったら困るのよ!」


 何かを振り切るような、そんな強い言葉。

 ああ、そっか。

 

 …………もう俺の知っている母さんはいないのか。


 昔のあんたなら間違いなくそんなことは言わなかっちゃよ。

 家族を邪魔ものみたいに。いうそんな言葉は発さなかった。

 

 「……そうか、だったらもう好きにしたらいいんじゃないか」

 

 なんだろ?

 すごくむかつくし、部ちぎれそうなのに。

 全身の血液が凍ったように寒い。

 

 だけど不思議と口だけは無駄にうごく。

 

 「でしょ?だからさっさと離婚届に書くようにあんたからもいっといてくれない?」

 

 言ってくれない?

 ははは、なんてこと息子に頼むんだよ。

 母親として普通にありえないだろ。


 ってあぁそうか、もう母親じゃないのか。



 「言われなくても俺からも伝えてやるよ、なんでさっさと離婚届ださないんだってさ」

 

 

 口元がゆがむ。

 なんでだろうな。


 でもたぶんきっとこの親に、いやこの糞女にお前なんていなくても、お前という存在がいなくなるからって問題なんて全くないと強がりたいんだろう。


 もうあの頃の優しくて厳しかった母親はもういない。

 

 「そうしてくれると助かるわ、じゃこれ」


 カバンから取り出すのは1枚の紙。


 「あいつのことだから、離婚届捨ててる場合もあるからね、もう一回かいて判子も押しといたから」


 ばんっと靴箱に叩き付けるように置いていく。


 「じゃあ出来たら連絡するように言っといて?」


 そうして玄関にいる俺を押しのけるように出ていく。


 「あ」


 玄関を出ようとするところで、後ろを振り向き。


 「なに」


 「あ、母親のよしみとして、最後になんか私に言いたいことある?」


 笑いながら聞いてくる。

 気まぐれかそれとも酔狂か。

 なんでやつがきこうと思ったのかは分からない。


 まぁ糞女の考えてることなんてわからないし。

 言いたいことも多すぎて、なにからいったらいいのかもわからない。



 でもそうだな。

 一つ言うなら。

 

 「あんたから生まれたくなんてなかったよ」


 一瞬驚いた顔をして、爪を噛み、そしてこの女は笑った。


 「あはは、いうようになったわね。私もあんたと同じ立場ならそう思うわ。ならせいぜいあんたはこういう女に捕まらないことね。あんた普段は頭いいのに、肝心なところで馬鹿だから気をつけなさい。これは母親としてのよしみよ?」


 いいタイミングでピロンとスマホの音が鳴る。

 おれのじゃない、この糞女のスマホ。


 生活が荒れているからか、それともこ新しい性格なのか、スマホには細かな傷が多くついている。

 

 「タクシーやっと来たのね。……じゃ私帰るから、巧とはもう話すことはもうないでしょうけど、まぁ元気でやりなさいよ…………知らないけど」


 帰る、か。

 あんたの家はここじゃないのかよ。


 違うんだろうなきっと。


 去り行く元母親の姿に俺はもう何も言えなかった。

 

 

 「くそっ!!」


 置いていった離婚届に向かって思いきり拳をたたきつける。

 何度も何度も何度も。


 拳が赤く腫れあがっていようと皮がむけて血が出ていようがどうでもいい。


 ただこんなことをしても気持ちは晴れない。

 分かってる、そんなことは。

   

 あいつ言いたいことだけ言って帰っていきやがった。

 俺ももっと言いたいこととかあったはずなのに、何も言えなかった。

 言えたのは、苦し紛れの強がりだけ。

 

 思い出すのは、母親のつもりはないといったあいつの冷めた表情だけ。

 一連のやり取り。

 

 それを思い出し理解した瞬間、


 「ゥぷっ、ぉうぇっ!!」


 慌ててトイレに駆け込み、便器にすべてを吐き出す。

 胃の中を全部空にして、でもそれでも吐き気は止まらなくて。


 ようやく止まった時には胃液さえも出なくなったそんな時。

 そのまま便座にしなだれ落ちる。


 「なんだよ……」


 俺の呻きは水の流れる音と共に消えていった。



 

 

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クリスマスなんてただのキリストの生誕祭。

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