最終回.首がもげた女

 八月最初の日曜日。

 夕方のサンロードを歩いていると、奈央からメッセージが届いた。

『みなちん、お誕生日おめでとう!』

 その直後に画像が送られてきた。大あくびをしている父親の顔がいっぱいに写った写真だった。

『ありがとね。パパとママによろしく、ってかなんの写真なの(笑)』

 笑いをこらえて、返事を書いた。

 路地に入って「オールウェイズ」の入り口を抜ける。エアコンが効いていて涼しく、頭がすっきり冴え渡るようだった。

 ステージ前のテーブル付近に、片手にグラスを持った久美子、エミ、大森、美穂、そして赤ん坊を抱っこしている、優子の姿があった。ステージではすでにバンドメンバーと隆一がいて、ライブのためのセッティングをしていた。

「ああ! 美奈ぁ!」

 久美子が美奈を見つけて大声を上げる。皆が美奈を見た。

「誕生日おめでとう!」

 久美子が駆け寄りハグをする。皆が近寄ってくる。

「美奈ちゃん、おめでとう」

 美穂が微笑む。

「誕生日おめでとうございます」

 エミと大森が口をそろえて言った。大森は仕事帰りなのか、ワイシャツ姿だった。

「みんな、ありがとう!」

「おめでとう、美奈」

 優子がしみじみと言う。

「ありがとう、ゆうたん」

「美奈も、とうとう三十か」

「ちょっと、ゆうたん、その言い方なんかイヤ」

 美奈は優子が抱いている赤ん坊に視線を向けた。

「優一くん、大きくなったねぇ」

「ほんと、手が焼けて大変よ」

 優一はすやすやと眠っていた。

 そこへ、虹色のカラフルなTシャツを着た葵と、白いアロハシャツを着た貴之が、バーカウンターのほうからグラスを片手にやって来た。

「美奈さん! おめでとう!」

 葵が大きな声を上げる。

「主役の登場だ」

 貴之はそう言うとすぐに顔を歪め、美穂に、

「これ、葵ちゃんがジントニック頼んでたから俺もそれにしようと思ったんだけど、間違えてジムビームって言っちゃった」

「ほんと、貴之さんって間抜け。まがりなりにもバーのマスターでしょ?」

 葵が笑う。貴之は恥ずかしそうに頭をかき、

「ジンとジムの音が似てるから間違えちゃった。『ストレートでいいですか?』なんて訊いてくるから、ジントニックにストレートもクソもないだろって思ったんだけど、どうりで。美穂、俺、一杯目からジムビームのストレートなんて飲めないよ」

「もう」

 美穂が呆れながら、自分のハイボールと、貴之のジムビームを交換した。

「冗談じゃねぇよ、ちくしょう」

 突然美奈の耳元で声がした。びっくりして横を見ると、目の前に大汗をかいた良介の横顔があった。ニット帽をうちわ代わりにし、口を大きく開けて喘いでいる。白いTシャツが汗に濡れて、インナーの黒いタンクトップがかなり透けていた。

「八月だからって暑すぎるだろ。もう東京は人間が生息できる場所じゃねぇよ。店からここまで歩いただけでこの汗だ、ちくしょう」

「いつまでもニット帽なんてかぶってるからだよ」

 葵が笑う。良介がニット帽を大きく振り回す。

「だから、脱いでんだろ」

「それにしても、確かに暑すぎかも」葵は意に介さない。

「私も今日、店舗物件探しで神楽坂歩き回ったけど、大汗かいたもん。化粧は崩れるし、シャツはぐっちょりになるし。サクサフォンでこのTシャツ買っちゃった」

 葵が虹色シャツの裾を引っ張る。

「ほんとはさ、もう裸でいいかなとも思ったんだよね。ほら、私って裸でいるときが一番魅力的だからさ」

「おめぇは全裸で歩いて逮捕されてろ」

「またまた、良介さんったら、ほんとは私の裸が見たいんでしょ? 素直じゃないなぁ」

「うるせぇ、見せられるもんなら見せてみろってんだ……あ、清水さん、おめでとう」

 良介が美奈に気づいて軽く頭を下げる。

「ありがと」

 美奈も軽く頭を下げた。

「あ、そうだ、清水さんにさ、プレゼントがあんだよ」

 良介が手に持っていた紙袋を持ち上げる。木星屋のロゴが入った持ち帰り用の紙袋だった。

「ちょっと良介さん、いつまで清水さんって呼んでんの? もう清水さんじゃないのに」

 葵が顔をしかめる。良介は手の平を揺らして「あっち行け」のポーズをとる。それから紙袋の中を美奈に見せながら、

「これ、この間、友達が譲ってくれたんだ。木星屋に置こうかとも思ったんだけど、清水さんの誕生日プレゼントにしようと思って」

 良介は興奮気味に言うと、紙袋から黒い木の彫刻を取り出した。筋骨隆々の男が、全裸で仁王立ちしている、高さ二十センチくらいの像だった。細部にわたって緻密に彫られており、表情もしっかりしていて、満面の笑みを浮かべているのが分かる。

「これタイトルがさ、『考え過ぎた人』っていうんだ。ロダンの『考える人』のパロディ。台座の裏、見てみなよ」

 良介に言われ、美奈は「考え過ぎた人」が立っている台座の裏を覗いてみた。そこには『考えて考えて考え抜いて出た結論は、考えすぎはよくないということでした』と小さな文字で刻印してあった。美奈はこらえきれず吹き出した。

「ありがとう」

 一応礼を言って、「考え過ぎた人」を紙袋に戻した。

「ってかさ、良介さんってときどき変なもの手に入れるよね」

 久美子が半笑いで言う。葵が頷く。

「ほんと、しかもそれを店で売ろうとするじゃないですか。どこにそんなもの買う奴がいるんだっつぅ話」

「需要ないよね」

 良介がニット帽を頭に載せて、舌打ちする。

「需要がねぇってなんだ。ねぇなら作ればいいだけの話だろ。流行もそうだ。乗るもんじゃねぇ。作るもんだ。他人の尻馬に乗ることしか考えてねぇような奴に、新しいもんは作れねぇ」

 良介の言葉に、大森がため息をついた。

「やっぱり、良介さん、カッコいいっす」

「なんだおめぇ、もう酔ってんのか」

「良介さん、早くオレを木星屋で働かせてください!」

「おめぇはもう少し社会の荒波に揉まれてろ」

 良介があしらうと、大森が美奈を見て、それからそこにいる全員を見回した。

「みんな、自分のやりたいことをやってて、カッコいいっすもん。オレも自分のやりたいことやりたいっす!」

「大森くんはなにがしたいの?」

 優子が訊ねる。大森が頭をかく。

「わかんないっす」

「まずはそこからだ」

 良介が呆れたように笑う。

 大森はがっくりと肩を落とした。エミがフォローするように言う。

「サラリーマンってすごいと思うよ。毎日せっせと一生懸命働いて」

「でも、ストレス半端じゃないっすよ。満員電車に乗って、意地悪な上司にねちねち言われて、毎日残業で……」

 大森の言葉に葵が露骨にイヤそうな顔をする。

「げぇ、イヤだぁ。毎日残業とか、ストレスでお尻に穴があきそう」

「おめぇ、いま尻の穴ねぇのか」

「良介さん、それ、セクハラだよ」

「なんでだよ」

 そこへ、ステージでアンプのセッティングをしていた丈司が歩いてきた。皆に向かって会釈をし、たどたどしく、絞り出すような声で言う。

「美奈、マイ、マイクのチェック……」

「あ、オッケー」

 美奈は手を振り、その場を離れた。それと入れ替わるように、丈司が皆の輪に入る。


 すごく幸せだ。

 美奈はマイクチェックをしながら思った。

 どんな思い出も、今日という日のためにあったのであれば、どれもかけがえのないものであるように感じられる。

 今日という日が素晴らしい思い出になるように、これからも命がけで生きていこう。丈司やみんなと一緒なら、なにがあっても怖くない。


 客席の電気が落とされ、一瞬、オールウェイズが静寂に包まれた。

 スポットライトが美奈を照らす。焼けるような熱さが肌に心地良い。

 美奈は、ギブソンの335を抱え横に立っている丈司に、「少し、喋らせて」と小声で言った。丈司はにこりと笑って、「わかった」と答えた。

「こうしてオールウェイズのステージに立つのはもう何度目かわかりません。でも、毎回新鮮な気持ちがします。それに今日は私の三十回目の誕生日。ちょっと特別な感情がこみ上げてきます」

 美奈は肩の力を抜くように大きく息を吐いた。

「この三十年、いろいろなことがありました。中には、辛いこともありました。両親と喧嘩したり、彼氏に振られたり、デートの相手をゴールデン街の生ゴミに奪われたり……でも、もっともっと辛いことがありました」

 美奈が言うと、客席から、

「なにがあったの!」

 久美子の声がした。途端に会場中に笑い声が上がった。皆、美奈がこれからなにを話そうとしているのか、知っている。

 美奈が「ふふん」と笑う。

「笑い事じゃなかったんだよ、当時はね」

 声が弾む。会場からも笑い声が漏れた。

「忘れもしないよ。二五歳の十一月。仕事が終わって、帰宅してね」

 美奈はそこで言葉を切り、首をなでてから、続けた。

「部屋で発泡酒を飲んでいたら首がもげた」

 笑い声と歓声がオールウェイズに鳴り響いた。

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首がもげた女 南口昌平 @nanko-shohei

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