51.構いません

 がむしゃらに走った。

 ヒールの高い靴を履いていたし、ギターを持っていたしで走りにくかったが、そんなことは気にせず長いこと走り続けた。

 気がつくと、美奈のマンション付近の住宅街に入っていた。辺りは暗く、閑散としている。

 美奈は立ち止まり、肩で息をしながら振り返った。ジョージがよろよろしながら走ってくるのが見えるだけで、それ以外に人の姿はなかった。

「ジョージさん、大丈夫?」

 美奈の横で立ち止まり、前かがみになって息を整えているジョージに訊いた。ジョージは、はぁはぁうんうん、変な呼吸をしながら美奈を見上げた。

「清水さん、怪我ない?」

 街灯に照らされたジョージの顔は、ひどく青ざめていた。顎からしたたるほどの汗をかいている。美奈は「大丈夫」と言いかけて、ジョージの足元に、汗以外のなにかが滴っているのを発見した。それは顎からではなく、ジョージの手元から滴っていた。

 アスファルトの地面についているシミは、ジョージの体で影になっている影響からか、黒くなっているだけでよく見えなかった。

「ジョージさん、大丈夫?」

 美奈はかがんで、ジョージの手元を覗き込んだ。

 それは真っ赤に染まっていた。

「ジョージさん!」

 思わず大声を上げた。

 血だった。

 ジョージの手元から、血が滴っている。美奈がジョージの左手に手をやると、指先にぬめっと温かい液体が触れ、それを持ち上げると、薬指が、力なくぶら下がった。

 美奈は呼吸ができなかった。ジョージの左手薬指の、第二関節と第三関節の間がバックリと口を開けている。傷口は指の半分以上の深さにまで達しているようだった。さっき男と揉み合ったときに斬られたのだろう。

「ちょっと!」

「清水さん、怪我ない?」

「ジョージさん!」

 美奈は周囲を見回した。人はいない。追い立てられるような焦燥感が腹の底から込み上げてくる。

「だれか、だれか!」

 美奈は泣き叫びながら、ジョージの顔を胸に抱いた。

「清水さん、怪我ない?」

 ジョージはうわ言のように言い続けた。ガタガタと震え始めているジョージの顔をより強く抱きしめ、「イヤだ、イヤだ!」と美奈は言い続けた。

 救急車を呼ぼうと、ハンドバッグからスマホを出そうとして思い出した。

 近くに、武田整形外科がある。美奈はジョージに「ちょっと待ってて!」と言い、全速力で武田整形外科に向かった。

 診療時間はとっくに過ぎていた。しかし、お構いなし。急患だ。

 美奈は入り口のドアを叩きながら、大声で武田の名前を呼んだ。やがて電気がつき、ドアが開いた。

「もう診療時間は……」

 不機嫌そうに眉をひそめながらドアを開けた武田が、美奈の顔を見て、

「あれ? 清水さん、どうした……」と言いかけ、血に染まった美奈のドレスを発見した。

 美奈は驚いている武田の腕を引っ張り、ジョージの元へ戻った。

 武田はジョージの手を見ると、「いかん!」と叫び、ジョージの肩を抱きかかえるようにして病院に連れて行った。

 病院に入るなり、看護師に「処置室準備! いますぐ!」と叫んだ。看護師は血だらけのジョージを見ると、すぐに表情を変えて、奥へ走って行った。

 ジョージは処置室で、緊急の治療を受けた。美奈は待合室の椅子に座り治療が終わるのを待った。

 一時間ほどして、武田が出てきた。美奈が駆け寄ると、武田が大きく息を吐いた。

「なんとか、つながりはしたよ」

 その表情はどこか晴れない。武田がうつむきがちに続ける。

「つながりはしたんだけどね……」

「けど、なんですか?」

 武田が眉間にしわを寄せる。

「うん……神経が切れちゃってるかもしれない」

「え?」

「だから、もう、左手の薬指は動かないかも」

 美奈は言葉を失った。

「薬指が動かないって?」

 美奈は椅子のそばに置いていたギターを指差した。

「ジョージさんは、ギタリストなんです、ギタリストなんです」

 武田はちらりとギターに目をやり、舌打ちをした。

「ギタリストの指か……ちくしょう」

 悔しそうに顔を歪ませる武田を見て、美奈は涙を流した。医者の悔しそうな顔ほど人を悲しませるものはない。美奈は顔を手で覆って、しゃがみこんだ。

 ……と、ふと思い出した。神経が切れたから動かない。それなら、神経を元どおりにすればいいのではないか。神経なら、万能神経がある。田島がいる。

「万能神経!」

 美奈は立ち上がった。

「万能神経なら、治せるじゃないないですか!」

 武田は眉をピクリと動かし、下唇を噛んだ。

「うん。万能神経なら治せるよ、きっと。田島なら、なんとかできるだろう」

「だったら、すぐに田島さんに治療してもらってください! ジョージさんは、ギタリストなんです! 常にギターを弾いていないと、死んじゃうんです!」

「……うん。できることならそうしたい。でもね、難しいんだよ」

 武田が首を横に振る。美奈は武田の胸元を掴んだ。

「なにが、なにが難しいんですか!」

「万能神経を使った手術は、今のところ田島しか執刀できないんだ。田島は、超過密スケジュールで動いているからね。すぐに手術を受けるなんてできない。いまから予約しても、もう、二、三年、いや、下手すると五年は待たなくちゃいけないんだ」

「でも、武田先生の頼みなら、聞いてくれるんじゃないですか?」

「いや、そうだけどね……あいつはもう世界中ぁら注目の的だから、私情でどうこうするのには、限界があるんだ。清水さんのときは、清水さんの症状が稀有なことで、向こうも興味を持ったからなんとかなったけど……」

 美奈は怒りがこみ上げてきて、つい武田を殴ってしまいそうだった。

「超過密スケジュールと言ったって、いまこうして、人生の岐路に立たされている人間がいるのに! なんで後回しにされなくちゃいけないのよ! 興味で判断するなんて! なんとかしてよ! スケジュールを変えてでも、ジョージさんを助けて、お願い、なんとかしてよ!」

 武田はいつまでも美奈の目を見ようとしなかった。

「どうして、どうしてよ。超過密スケジュールの合間を縫って、私の喉を見てくれると言っていたのに、どうしてジョージさんのためにはスケジュールを変えてくれな……」

 そこまで言って目を見開いた。

「そうだ、再来週、私の喉を見るとかって言ってましたよね」

 武田が目をしばたたかせながら頷く。美奈はすがるような思いで武田に訴えた。

「だったら、だったら、そのときに、私の喉じゃなくて、ジョージさんの治療をしてもらってください!」

 武田は目つきを険しくして、美奈の目をじっと見た。

「……そうすると、清水さんの喉を治せるのがいつになるかわからないよ?」

「いいんです、私の喉なんていつだって。それよりも、ジョージさんの指を、治してもらいたいんです!」

 武田は腕を組んだ。いろいろ考えをめぐらせているようで、しばらくの間なにも言わなかった。美奈はじれったくなった。

「私の喉は、どうでもいいんです! ジョージさんの指を治してください!」

 美奈がもう一度お願いすると、武田が頷きつつ、探るような口調で言った。

「でも、そうすると、大学病院で治療をすることになるんだよ。万能神経を使った治療はうちではできないから。そうなると、いろいろなことが明るみに出る。田島が日本で治療、しかも万能神経を使って治療をするなんてことになったら、マスコミも黙っていないから。それに、もう次の手術は七月にイタリアで行うって発表しちゃってるしね。そのことについていろいろ勘ぐってくるだろう」

 武田は美奈の顔色を伺った。美奈の心を確認するような目つきだった。

「清水さんのときのように、全部秘密裏に行うことはできない。あのときはまだ水面下で動いていたから誤魔化せただけで、いまは状況が違うんだ。必ず事情を調べ上げて、ジョージくんの手術が急遽行われた理由を探ろうとする連中が出てくる。そうすると、清水さん、清水さんの存在だって、全部明らかになってしまうかもしれないんだよ? 清水さんが田島の手術を受けたことも、もちろん、首がもげていたことも、全部、わかっちゃうかもしれないよ。もちろん僕らには守秘義務があるけど、いまは、どこから情報が漏れ出るかわからない世の中だから。……それでも、いいの?」

「構いません」

 美奈は即答した。

「それでジョージさんの指が元どおりになるのなら、そんなこと、全然、構いません」

 美奈は強い語気で言いながら、いままでなにを悩んでいたのだろうと、急に可笑しくなった。

「知られたって、全然、構いません」

 美奈はもう一度、念を押した。

「そうなることでジョージさんの治療ができるようになるんなら、むしろこっちから世間に発表したっていいくらいです」

 武田は、はじめ驚いていたが、次第に表情を緩めて、口元をニヤリとさせた。

 すぐに受付にある電話の受話器を取り、どこかへ電話をかけ始めた。

「ハロー、ディス イズ ドクター タケダ スピーキング フロム ジャパン。 メイ アイ トーク ウィズ ドクター タジマ……」

 アメリカに戻っている田島に国際電話をかけているようだった。

 なにを恥ずかしがっていたのだろうか。美奈は椅子に腰掛け考えた。

 首がもげたことは、私という人間の過去だ。なにも、恥じることなどない。

 未来があるのは、過去があるからだ。自分の過去が未来のために必要なら、使ってやる。余すことなく使い尽くしてやる。あれだけ自分を苦しめたんだ。せいぜい私の素敵な未来を作る役に立ってもらおうじゃないか。


 武田が受話器を置き、美奈を見て、親指を立てた。

 美奈が目を閉じると、温かい涙がひと筋、頬をゆっくり伝い、首元をじんわりと濡らしながら胸の方へ落ちて行った。

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