50.ラリった男

 美奈とジョージはハモニカ横丁の小さな飲み屋で飲んだ。

 二人のほかに二、三人の客がおり、ジョージは「うん」とか「そう」といった相槌程度の言葉は口にしたが、基本的に口を開かなかった。

 十時頃まで飲み、二人はハモニカ横丁を後にした。電車に乗り、美奈の家の最寄り駅に向かった。翌日はサクサフォンが臨時休業になっていたし、ジョージも予定がないとのことだった。場所を変えて、せっかくだから今夜は飲み明かそうということになった。

 ジョージは結婚報告パーティでもかなり飲んだようで、駅へ向かう足取りがおぼつかなかった。美奈もかなり酔っていた。そのせいもあってか、美奈は間違えてひとつ前の駅で降りてしまった。電車を乗り直そうとも思ったが、こちらの駅前のほうが栄えているし、ここからなら、美奈の家まで歩いても二十分くらいだから、そのまま改札を抜けた。

 二人は繁華街を歩いた。ドレス姿の美奈とスーツ姿のジョージが並んで歩いていると、人目を引くのか、通り行く人がちらちらと二人に目をやった。美奈は気が大きくなって、胸を張って歩いた。

 途中、ジョージがコンビニを指さし、口だけ動かして「トイレ」と言った。美奈は「オッケー」と答え、ジョージが持っていた荷物を預かり、コンビニの前で待った。

「お姉さん、ひとりなの?」

 酔っ払いが声をかけてきた。第三ボタンまで開いた黒シャツに、黒いズボンを履き、色の入った眼鏡をかけた、厳つい感じの中年男性だった。美奈は無視して、顔を背けた。

「おいおい、無視するなよ」

 その喋り方から、その人が堅気ではないというのがすぐにわかった。目が据わっており、腹から声を出して喋る。じっと睨みつけるように美奈を見ている。

 この手の人間をまともに相手してしまうと、どんなことに巻き込まれるかわからない。

 美奈は目を見ずに、愛想笑いを浮かべながら首を横に振った。

「おい、なめてんのか」

 相当酔っているらしい。男は美奈の腕を掴んでぐっと力を入れた。必死に振り払おうとするが、男の手は離れない。

「ちょっと、やめてください……」

 大声を出そうと思っても、腕を握る男の握力が強く、美奈は恐怖でほとんど声が出せなかった。周囲の人たちは、男の風貌のせいか、だれも見て見ぬ振りで通り過ぎて行く。

 美奈は男の目を睨みつけた。男の目はぼんやりと濁っていて、焦点がほとんど合っていなかった。背筋が凍った。

 この男は、ただ酒に酔っているだけではなかった。

「やめて、ください……」

 美奈は必死に男の手を剥ぎ取ろうとした。男の手は外れない。

「やめてってなにを」

「手を離して、ください……」

「なんで離さなくちゃいけないんだよ」

 男がぐいぐい体を寄せてくる。香水なのかなんなのか、ツンと鼻をつくニオイが漂よってくる。さすがの美奈も、薬漬けになった男の正しいあしらい方はわからない。あまり抵抗するのも危ないし、抵抗しなければ、なにをされるかわからない。

「イヤだ。だれか、助けて。ジョージさん!」

「あの……えっと……」

 背後で声がした。振り返ると、コンビニの出入り口付近にジョージが立っていて、所在なさげに美奈を見ていた。美奈と目が合うと、眉を上げて、目元に微妙な笑みを浮かべながら「知り合い?」と、口を動かすだけで訊ねた。

「違うよ! 助けて!」

 美奈はようやく大きな声で叫んだ。ジョージの体力でなんとかなりそうな気はしなかったが、別の男が現れれば、この男もたじろぐだろうと思った。美奈はジョージの側へ寄ろうと、腕を大きく振った。

 しかし、男は手を離さなかった。男は焦点の合っていない目で、美奈のことだけを見ていた。ジョージのことなど眼中にないのだ。

「ジョージさん、助けて!」

 美奈がもう一度叫ぶと、ジョージの両目がつり上がった。と、思うと、長い腕を伸ばし、男の腕を掴んだ。男がジョージに目をやり、ようやく美奈の腕から手を離す。美奈は慌ててジョージの背後に回った。

 ジョージはなにも言わず、腕をつかんだまま男を見た。ぼんやりしたその目を見て、ジョージもなにか異常に気がついたのだろう。頬が引きつった。

「なんだ、おまえ」

 男が生気のない顔で言う。

「おまえは、関係ないだろ」

 男がジョージに詰め寄る。それでもジョージはたじろがない。むしろ自分から相手に体を近づけ、「……関係ある」絞り出すような声で言った。

 ジョージが自分以外の人間に対して言葉を発しているのを美奈は初めて見た。

 ジョージが続ける。

「この人は、俺の大切な人だ。おまえはいったいどんな関係だ」

「あ?」

「関係ないのはおまえだろ!」

 ジョージの声が荒々しくなる。

「ねぇ、ジョージさん、行こう」

 美奈は恐くなってジョージの肩をゆらした。ジョージがこちらを見た。

「清水さんは、逃げて」

 その頃になると、異変に気づいた野次馬たちが周囲に集まっていた。

 男がポケットに手を突っ込んで、なにかを取り出した。それを勢いよく上下に降ると、キラリとなにかが煌めいた。それを見て、野次馬たちが悲鳴を上げた。

 それは刃渡り十五センチほどのナイフだった。それをジョージの喉元に向けて振り上げる。ジョージは体をよじらせ、それを間一髪のところで避けた。美奈はあまりのことになにも言えず、立ったまま腰を抜かしてしまった。

 ジョージが道路へよろける。男がそれをゆっくり追いかける。さすがにまずいと思ったのか、野次馬の中にいる学生風の男たちが、いつ飛び出してもいいように体を構えた。しかし男がナイフをちらつかせるのでなかなか飛び出すタイミングがつかめない。

 ジョージが態勢を整え、ナイフにちらりと目をやる。獲物を前にした蛇が噛み付くタイミングを見計らうかのように、男はナイフをゆらゆらと揺らして、ジョージにじりじりと近寄る。

「ダメ! ジョージさん、逃げてよ!」

 美奈はたまらず叫んだ。

 ジョージの顔が青ざめていく。瞬間、男がジョージに飛びかかった。美奈は悲鳴を上げた。ジョージが男の腕を掴み、二人はしばらく無言でもみ合った。野次馬たちが及び腰になる。

「イヤだイヤだ、逃げてよ!」

 男が体を大きく揺らすので、ナイフがどこにあるのか、美奈の位置からは見えない。ジョージの顔が大きく歪む。そもそも腕力のあるタイプではないし、なにより酔っ払っているのだ。

 このままではジョージが殺される。

 美奈はいまだかつて抱いたことがない恐怖を感じた。暗く狭い場所へ落っこちていくような恐ろしさだった。それと比べれば、ラリった男などちっとも怖くなかった。

 美奈は後ろに傾いていた重心を前にのめりにし、カジノが入っているハードケースを持ち上げて、その側面で思い切り、男の肩口を叩きつけた。鈍い衝撃が伝わって、美奈はよろけた。男がジョージから離れ、美奈を睨む。

「痛いよ、痛い、肩が痛いヨォ」

 なにやらブツブツ言いながら、男が近寄ってくる。ナイフの刃先が美奈に向いている。

 男が掴みかかってくる。美奈は目を閉じて、がむしゃらにギターケースをぶんと振り回した。ガツンという音がして、手が重くなった。目を開けると、男のナイフがハードケースに突き刺さり、ナイフの柄を掴んだままの男が体を横方向へつんのめらせていた。

 美奈はもう一度、ギターケースを左右に振り回した。キンという音とともに、ナイフの刃が抜け、男の手から滑って飛んだ。

 男は仰向けにぶっ倒れた。美奈は泣きながら、ジョージに怒鳴った。

「逃げよう! 逃げよう!」

 途端に野次馬たちが一斉に躍りでて、男を取り押さえた。

 二人は振り向くことをせず、その場から逃げ出した。

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