45.葬りたい過去
帰国以来、美奈の定休日は毎週土曜日と火曜日になった。その日を使い、毎週、ジョージと渋谷のスタジオに入ることになった。
二回目のスタジオ入りの日、ジョージがマーティンのアコースティックギターを持って来た。本番まで貸してくれると言うので、美奈はジョージにカジノを預け、マーティンを家に持ち帰った。
家に帰ればマーティンを抱え、ジョージに教わったことを復習する。
「本番は録音したドラムとベースをバックでかけるつもり」
ということで、ジョージが、ドラムとベース演奏が多重録音されたMP3ファイルを送ってきた。ドラムは打ち込みで、ベースはジョージが演奏して録音したらしい。
来る日も来る日も練習をした。
それ以外に考えたいことも、やりたいこともなかった。仕事終わりにアコースティックギターを練習するときは、近所のカラオケボックスを使った。
かなり上達したと思いスタジオに入ると、ジョージに怒鳴られる。自信を失いかけるが、なにくそと気持ちを入れ直し、ギターを弾く。ジョージがなんやかや叫ぶ。またギターを弾く。ジョージが怒鳴る。
ジョージはスタジオを出た途端に優しくなる。その瞬間、美奈は束の間の安心を得るのだった。
五月半ばの土曜日。優子の結婚報告パーティのちょうど一ヶ月前。
その日も二人は昼過ぎからスタジオで練習をしていた。
一通りの練習を終え、煙草休憩に入った。
再びスタジオに戻ると、ジョージが「ちょっとお話しようよ」と、やけに優しい声で言った。美奈も少し疲れていたので、ギターを置いたまま話をした。
ジョージがスマホを出して、ネットニュースを検索した。
「すごい研究が完成したらしいよ」
ジョージが興奮したように目を大きくしながら言った。
「なになに?」
「清水さん、万能神経のニュース聞いた?」
「え?」
美奈は言葉に詰まった。ジョージが説明する。
「万能神経っていう、体の神経の代替物が開発されたんだって。視神経とか、運動神経とかになってくれるって。つまりさ、視神経が切れて目が見えなくなっても、万能神経を使えば目が見えるようになるんだよ。すごくない? しかもこれ、日本人が開発したんだって。田島っていう医者。すごいなぁ」
ジョージがネット記事の内容を要約しながら話す。
「すでに人体に使えることも証明されたんだって。もう、万能神経を使った手術も成功してるよ」
「え? 手術したって記事に書いてあるの?」
美奈は心臓が止まりそうになるくらいドキッとした。ジョージが頷く。
「うん。アメリカのサミュエル・ゲラーって五十歳の男の人だってさ。視神経が切れてたんだけど、手術で目がまた見えるようになったらしい」
「ほかには?」
「ほかは、いないんじゃない? これしか書いてない。あ、でも次の手術はイタリアの女性だって。七月に手術の予定らしいよ。この人は、事故で小指の神経が切れたのを治すんだってさ」
美奈のことは、記事には一切載っていないらしい。美奈はいったん胸をなで下ろした。ジョージが目をきらきらさせながら美奈を見る。
「これ、すごい希望じゃない? 僕は本当にすごいことだと思う」
「……そうだね」
「清水さん、ニュースとか見ないんだね。これ、いま、すごく騒がれてるニュースだよ」
「うん…ギターの練習で忙しいから……」
「ノーベル賞とか取るんじゃないかな」
「うん……そうかもね……」
「清水さんの声も元に戻るかもしれないよ?」
「……ジョージさんって結構、無神経だね。万能神経で治して貰ったら?」
「ごめん」
「別にいいけど」
遅かれ早かれ、万能神経について大々的に報じられる日が来るとは思っていた。武田が言っていたように、きっとノーベル賞を取るに違いない。田島も武田も、きっと有名になるだろう。
でも、と美奈は思った。
私は、関わりたくない。首がもげた過去は、永遠に闇に葬りたい。なかったことにしたい。特に、ジョージさんには知られたくない。声は低くなってしまったけど、私は、未来に向かって歩き始めているのだ。いまさらそんな過去に足を引っ張られたくない。
「ねぇ、もう練習再開しようよ!」
恐竜図鑑を読む子どものような目で万能神経のニュースを読んでいるジョージに声をかけて、美奈はマーティンを抱えた。
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