44.美奈VSジョージ

 ジョージが、スタンドに立てられたままの美奈のギターをちらりと見た。それからすぐに視線を美奈に向けた。

「ギター、どうしたんですか?」

 美奈はなにも答えなかった。ジョージが目を細めた。その顔を見て、美奈はより一層悲しみが大きくなるのを感じた。

 ジョージが言った。

「やめますか?」

 さめた声だった。

「本気じゃないなら、やめますか」

 ジョージの声が低くなっていく。美奈は下唇を噛み、声が上ずってしまいそうになるのを抑えながら、口を開いた。

「やめさせたいんですよね……」

 ジョージの眉がぴくりと動く。

「意地悪して、やめさせたいんですよね?」

「なに言ってるんですか?」

「せっかく今日、スタジオで、ジョージさんと練習できるって楽しみにして来たのに、ジョージさん、冷たいことしか言わないじゃないですか。私、ギターはほとんど初心者だから、できないの当たり前なのに、いちいち細かいことまで指摘して、なかなか次に進めないし、ギターのことばっかり集中し過ぎて、歌だってろくに歌えないし、全然楽しくないです、私」

 感情的にならないように、ひと言ひと言噛みしめるようにして言葉をつないだ。

「ジョージさん、私になんの恨みが、あるんですか? パリで、あんなに……」

「歌手になりたいんじゃないんですか?」

 美奈の言葉を遮って、ジョージが大きな声を出した。

「本気で、歌手になりたいんじゃないんですか?」

 美奈はつばを飲み込んで、自分を見つめるジョージの目を見ながら口を開いた。

「なりたいですよ。でも、それは……」

「じゃあ、甘えないでくださいよ!」

 ジョージが怒鳴った。怒鳴り声は吸音材に吸い込まれ、部屋の中はすぐにしんと静まり返った。

 ジョージが抱えていたギターをスタンドに置いた。そのときも、目は美奈のことを見据えていた。

「本気でやりたいと思っているんなら、中途半端なことをしちゃダメなんですよ。命をかけてくださいよ!」

 立ったまま訴えかけるような声で叫ぶ。

「やってますよ!」

「なにをやってるって言うんですか!」

 美奈が言い返してもジョージはたじろがない。

「全然、必死じゃないじゃないですか!」

 むしろ声が大きくなる。ジョージは走り出した特急電車のように止まらなくなった。美奈は小さな駅のホームで通過電車を見送るように、ジョージの言葉をただ聞くことしかできなかった。

「自分の理想を実現するってのは、生半可な覚悟でできることじゃないんですよ! 伊達や酔狂でやってなんとかなるもんじゃないんですよ! 人前で話ができない僕が、どうやってステージに上がったか、どうやって隆一と出会ったか、話したでしょ? 命がけで、恐怖と戦って、無理矢理、自分の生活をかなぐり捨てる覚悟でステージに上がったんですよ! パリで話したとおり、かなり酷い目に遭ったこともありましたよ。気の荒いバンドマン連中にぶん殴られて、鼻を骨折したことだってありましたよ。でもね、おかげで隆一と出会えた。おかげでギタリストとしてのキャリアをスタートさせることができた。中途半端な日常の先に理想の実現はないんです。本気でやりたいと思うなら命をかけて、日常を捨てる覚悟を持たないと、なんにも変わりゃしないんですよ!」

 ジョージは鼻を押さえながら、体を小さく震わせた。

「清水さん、なにかを表現するというのは、並大抵の仕事じゃないんです。楽しくて愉快なことばかりじゃダメなんです。人の苦しみを背負い込んで、それを表現してあげなくちゃいけないときがある。自分に降りかかる苦しみを全部受け止めて、それを表現してあげなくちゃいけないときもある。逃げ出したくなるようなたくさんの苦しみを全部、丸ごと味わわなくてはいけないんです。そうでなきゃ、表現することなんてできない。覚悟がなければ、全部嘘になってしまう。表現する人間が、嘘をついたらダメなんです。そんなものじゃ、人を感動させることなんて無理です。なにか別の形に変えるとしても、その根底には、本物がなくちゃダメなんですよ!」

 ジョージは若干うつむいて、肩で呼吸をしながら、腰に手を当てた。それからゆっくり顔を上げて、悲しそうな目で美奈を見た。

「僕はパリで、清水さんの歌を聴いたとき、ああ、この人は途方もない苦しみを経験したことがある人なんだ、と直感したんです。はっきり言って、サクサフォンで、店員と客として初めて出会ったときは、美人だし、人当たりもいいし、きっとこの人はなんの不自由もなく生きて来たんだろうなと思いました。でも、パリで聴いた清水さんの歌からは、どこか、哀しみのようなものを感じた。だから、あのとき僕は、清水さんの歌を褒めたんです。あれはお世辞でもなんでもなくて、本心からの褒め言葉だったんです。ああ、この人も僕と同じように、他人にはわからない、大きな挫折や恐怖を味わったことがあるんだろうなと思った。だから、歌手になりたいっていう清水さんの言葉は、僕にとって本当に嬉しいものだった。素晴らしい仲間を見つけたような気がした」

 ジョージはストゥールに座り、スタンドに立てた自分のギターをちらりと見た。鼻で息を吐いて、再び視線を美奈に戻した。

「生きていく中で味わう苦しみや悲しみから抜け出すために、人はいろんなことをします。友達と遊んだり、筋トレをしたり、大酒を飲んだり、大量に食べたり、ひたすら眠ったり、セックスをしたり……そういうことで満足できるなら、それでいいんです。人それぞれです。でも、僕は、そんなことをしても、全然、苦しみから抜け出すことができなかった。それどころか、虚しさが募る一方だった。あんまり、意味がなかったんですね。そんなことをしても」

 ジョージは鼻で笑って、それから寂しそうにため息をついた。すぐに息を吸って、胸を張った。

「そんな僕にとっての、救いの道が、ギターだったんです。ギターを弾くことで、苦しみをなにか別のものに昇華させることができたんです。ギターを演奏することが、僕に与えられた唯一の生きる道だと思いました。もう、これしか救いの道はない。そして、清水さんもきっと僕のような人間なんだと思った」

 ジョージの声がどんどん小さくなっていく。いや、声の大きさは変わらない。ただ、徐々に遠ざかっていくような感じがする。ジョージは続ける。

「だからきっと、なにがなんでも歌手になりたいと思っているのだと思った。生活を激変させてでも、当たり前の日常を捨ててでも、自分の理想を実現させようともがいているのだと思った。だから、僕もなんとか清水さんのために、表現する場所を提供してあげたかった。それで、今回、余興の演奏を依頼されたとき、すぐに清水さんの顔が浮かんだ。そうだ、清水さんが歌えばいいんだと思った」

 美奈が口を開こうとするが、ジョージは喋り続けることに必死になっているようで、その隙を与えなかった。

「清水さんは、僕の提案を承諾してくれた。おまけにギターも弾きたいと言った。ああ、清水さんは本気なんだ、僕の目に狂いはなかったんだと、僕は喜びました。それなら僕も本気で清水さんの力になってやろうと思った。恨みがあるのか、と言ってましたけど、恨んでいるから厳しいんじゃない。僕は、清水さんのためを思って、スパルタになったんです。……でも、清水さんには耐えられなかったんですね」

 ジョージはため息をつき、少しの間黙り込んだ。美奈はその間を使って反論した。

「でも、結婚報告パーティの余興ですよね? だったら、もう少し楽しくやったって、いいじゃないですか。下手くそでも、ゆうたんは絶対怒らないですよ」

「たしかに余興です。ここまで根を詰めてやるものではないかもしれないし、ゆうたんだって、清水さんがヘマをしたからってガッカリすることはないでしょう。どんな完成度であったって、喜んでくれるだろうし、感謝してくれると思いますよ。でも、本気で歌手になって、歌でなにかを表現したいと思っている人なら、そんな、馴れ合いの延長で感動されているだけでは満足できないはずでしょう。どんなステージであれ、人前で表現する以上、常に本気じゃないとダメだ。これが最後のステージになっても後悔しないようなパフォーマンスをしなくてはダメだ。そう思うはずです。中途半端なことをしていたんじゃ、ゆうたんの幸せに花を添えることすら、できないですよ。それに、隆一の知り合いも集まるんですよ? 音楽業界の連中ですよ? 清水さんの歌をそういった連中に聞かせるチャンスでもあるんですよ?」

 美奈はなにかに胸を掴まれたみたいに、息苦しくなった。口に壁ができたようで、出そうとした言葉はことごとく跳ね返された。

 ジョージが目を伏せた。そして自嘲するように、鼻で笑った。

「でも、僕の取り越し苦労だったんですね。結局清水さんには、なんとしてでもステージの上によじのぼってやろうっていう気概がなかったんです。僕の見込み違いでした。楽して平凡に暮らしたいだけだったんですね。別にそれが悪いって言っているわけじゃないんです。むしろ、それを望むほうがよっぽど人間らしい。僕の考え方のほうが、おかしいんです」

 ジョージはもう一度鼻で笑い、小さく言った。

「無理を言ってすみませんでしたね」

「ばかにしないで」

 蔑むような謝罪に、美奈の中で怒りが爆発した。その爆風は口を覆っていた壁をぶち壊した。

「ばかにしないでよ!」

 低い声が迫撃砲のようにはじけ飛んだ。ジョージがびっくりして体を縮こまらせた。

 口にしたい言葉が次から次へと心の中を飛び交う。

 いったい、ジョージさんは私のなにを知ってるの? 私は本気で、歌を歌いたいと思った。それは紛れもない事実なの! 自分の人生をフル活用して、人々に感動を与えるひとかどの人間になろうとしてるの! 人それぞれ努力のやり方があるんだ。無理矢理乱入しなくたって、別の方法でステージに上がれる。それなのに、自分と同じようにしないからって、私のやる気がないなんて、言わないで! 私はあなたと違って、完璧なの。人も羨むいい女、清水美奈なの……。

 そんなことを思っているうちに、涙が流れた。悲しいわけではなかった。自分の半端さに腹が立った。自分の傲慢さにむかむかした。

 たしかに、ジョージに言われたことは苛立たしかった。勝手に期待して、勝手に暴走して、勝手に幻滅した。全部勝手だ。しかし、ジョージにそうさせたのは美奈自身だった。

 美奈はデート気分でいた数時間前の自分を思って恥ずかしくなった。いましがた、心の中に並べたジョージに対する反抗的な言葉を思い出して、吐き気がした。

 美奈はギターのネックを掴み、弦に挟んでいたピックを取った。

「やるよ!」

 大声で叫んだ。

「ばかにしないでよ! やると決めたら、私だって本気でやるんだから! 私だって、すごく辛い経験してきたんだから、その辛さを、苦しさを、ギターと歌にぶつけてやるんだから!」

「え……」

「なにぼぉっとしてんの? 早く、ギター教えてよ!」

 美奈は、目が点になっているジョージに怒鳴った。

「ジョージさんが涙流して感動するくらい、ギター上手くなってやるから。そのつもりで教えて」

「ああ……」

「なにしてんの? 早くしてよ! 時間がもったいない!」

 美奈はギターを指さし怒鳴った。ジョージは怯えたように身を縮めたが、やがて眉をピクリと動かし、相好を崩した。今日初めて見せたジョージの笑顔だった。

「覚悟しといてくださいよ」

 ジョージがギターを取りながらニヤリと笑う。美奈は口を尖らせた。

「ってかいつまで敬語なの? 先生と生徒なんだし、タメ口使えばいいじゃん、じれったい。イギリス人留学生のほうがもっとうまくタメ口に切り替えてるくらいだよ」

「いいんですか?」

「いいの。ってかジョージさんのほうが年上だし、私はタメ口きいてんじゃん。敬語使う人にタメ口きくの、思い上がってるみたいでイヤなの」

 ジョージは声を出して笑うと「じゃあ」とつぶやき、

「始めるぞ」

 たどたどしく言った。

 二人は防音室の利用時間を一時間延長して、「オー・シャンゼリゼ」の練習をした。

 美奈は何度もジョージに怒鳴られた。美奈は一切ひるまなかった。ジョージに怒鳴られれば怒鳴られるほど、喜びが大きくなった。ジョージの怒鳴り声は、いままでたくさんの男に言われてきた、どんなに甘い褒め言葉よりも、美奈を心地よく痺れさせた。

 美奈はパリに向けて飛ぶ飛行機に乗っていたときのような心躍る興奮を感じた。

 自分はこれから、一生に一度しか行けない、素敵な旅に出かけるのだと思った。

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