43.スタジオ練習
ゴールデンウィーク初日に当たる土曜日の午後二時に、ジョージと二人でスタジオ練習をすることになった。
美奈は渋谷へむかった。
淡いブルーのノースリーブチュニックと白いレースのスカート。かかとの高いサンダルを履き、ベージュの麦わらハットをかぶった。右手にハンドバッグ、左手に「梶原さん」を持っている。
ハチ公前でジョージを待ちながら、デート前のような気持ちで胸を弾ませた。
スタジオは密室。狭い場所に男女で二人きり。なにが起こるかわからない。そう思うと、真夏のように照る太陽の日差しも一切気にならなかった。
待ち合わせ時刻ぴったりに、ジョージがやって来た。長い髪の毛を風に揺らしながら、白いシャツに黒いチノパンを履いて、片手にギターのハードケースを持っている。
ジョージは優しく微笑み、なにも言わずに宮益坂の方を指さして、歩き始めた。
スタジオは青山通り沿いにある。
中に入ると、ロビーに大学生風の男女が大勢いた。ジョージがネットで予約を入れており、受付にいた中年男性に会員カードを出すと、すぐに部屋に案内された。
六畳ほどの広さの防音室に、ギターアンプが二台と、ベースアンプが一台、マイクスタンドと譜面台、そしてドラムセットが置かれている。
背の高いストゥールに腰をかけ、美奈はジョージが話をしてくれるのを待った。今日はパリのあの夜以来、だれにも邪魔されず二人だけで過ごせるのだ。美奈はギターをケースに入れたまま足下に置き、ギターを取り出しているジョージを眺めていた。
「じゃあ、早速、始めましょう」
ギターをアンプにつなげながら、ジョージが色のない声で言った。目つきが刺すように鋭くなっている。
「なにやってるんですか? ギター、つないでください」
ジョージがギターとアンプを交互に指さす。どこか高圧的で、鬼気迫るものがある。美奈はその迫力にドキッとして、すぐにギターをケースから出した。ジョージが貸してくれたケーブルをアンプにつなぎ、スイッチに手を伸ばす。
「ああ! まだまだ!」
ジョージが大きな声を出した。
「スイッチは最後に入れるんですよ!」
ジョージが美奈のギターのボリュームをゼロにして、ケーブルをギターにつないだ。ジョージの大きな声を初めて聞いた美奈は、驚いて動けなくなった。
結局、ジョージがすべてセッティングした。アンプの上に置いてあったマイクをつないで、スタンドにセットし、準備が整う。
「そっか、カジノと335か……」
ジョージが美奈のギターを見ながら小さく呟いた。
「ちょっと違うな……清水さんってアコギは持ってないんですよね」
「え、アコギ?」
「アコースティックギターのことです」
ジョージが吐き捨てる。アコギがアコースティックギターであることくらいは知っていたので、美奈は笑いながら、
「アコギくらい知ってますよ」
「じゃあ、いちいち聞き返すのやめましょう。時間の無駄なんで」
ジョージは一切笑わず、美奈のギターを睨みつけていた。別人のようだった。美奈は少し怖くなった。
「すみません……」
「持ってないんですよね」
「持ってないです……」
ジョージは口元に手をやって、
「じゃあ、次回からは、僕がアコギ持ってくるんで、清水さんはそっちで弾いてください」
「でも、せっかく妹にこのギター借りてるのに……」
「じゃあ、僕がそのカジノを弾くんで。とにかく、僕がアコギよりも、清水さんがアコギのほうがいいんです」
ジョージはそう言うと、ストゥールに腰掛け、低い声で、
「まぁ、とにかく、清水さんがどれくらいギター弾けるのか、聴かせてください」
「歌いながらですか?」
「本番は歌わないんですか?」
ジョージが袖をまくりながら、今度はまっすぐ美奈の目を睨みつけた。
「歌います……」
「じゃあ、歌いながら弾いてください」
ジョージは思い出したようにギターケースから紙を一枚出して、美奈に差し出した。それはジョージが手書きした、「オー・シャンゼリゼ」のコード進行表だった。歌詞が書いてあって、その上にアルファベットが書いてある。
人前で、しかもプロの前でギターを弾くのは初めてだったし、突然人格が変わったジョージに戸惑っていたのもあって、指が思い通りに動かなかった。
美奈は乱心した王様の前に引っ張り出された憐れな農民のような心細さを感じながら、「オー・シャンゼリゼ」の弾き語りをした。ところどころつっかえたが、ほとんどコードも間違えなかったし、音程も外さなかった。美奈としては上出来だと思った。
ジョージは目を閉じて美奈の演奏を聴いていた。その間中、脚を組んだまま一ミリも体を動かさなかった。と、目を開けて、眉間に皺を寄せながら美奈のギターを指さした。
「歌はいいんですけど、ギター、なんでダウンストロークだけで弾くんですか?」
「え、いや、えっと」
「ダウンストロークだけで弾くからコードチェンジがスムーズにできないんです。アップも混ぜて、こうやるんです」
ジョージが自分のギターで演奏を始めた。美奈はそれを黙って見ていた。ジョージが手を止める。
「見てるだけでできるようになるんですか?」
美奈は慌ててジョージ真似をした。
軍隊の上官が目の前にいるようだった。ストロークのやり方やミュートの仕方、コードチェンジの方法など、ギター演奏についていちいち細かく注意された。ジョージはときどき声を荒らげた。美奈はその都度、体を強ばらせて、必死になって言われたことをやった。ほとんど恐怖に突き動かされていた。
一時間、美奈は何度も何度も同じ小節をギターで繰り返し演奏させられた。右の手首が痛くなり、弦を押さえる左上腕の筋肉がひきつり始めた。左手指先が赤くなってヒリヒリ痛む。美奈が苦しそうにしていても、ジョージは調子を一切変えなかった。
結婚報告パーティで演奏するだけなのに、どうしてここまでスパルタでやらなくてはいけないのだろう。もっと、楽しく、朗らかにやればいいのに。目の前にいる人は、本当にあのジョージさんだろうか……? 美奈はジョージに対する不信感を募らせていった。
ジョージが腕時計をちらりと見て、
「煙草でも吸いますか?」と訊ねた。その一瞬だけ、ジョージの声が以前の、弱々しい優しさを取り戻したように感じられた。
煙草を吸っている間、美奈はジョージの顔は一切見ずに、じっと、筒状の吸い殻入れの縁についている黒いシミを眺めていた。ジョージの顔を見ず、一切話しかけないことで、ジョージのやり方に不満があることを伝えようとした。煙を吐く息さえ殺して、無言をつらぬいた。
しかし、それは功を奏さなかった。
ジョージは防音室に戻ると、ギターを取って、尖った声で言った。
「じゃあ、さっきの続き」
美奈はショックで動けなかった。ジョージは自分のことが嫌いなのだと思った。しかし、それはショックの主たる原因ではなかった。このとき美奈を悲しませたのは、自分が、ジョージを嫌い始めていることだった。
自分の気持ちが冷めてしまうことでも、失恋は成り立つのだと、このとき初めて知った。美奈はこみ上げてくる涙を懸命にこらえ、ジョージの顔をすがるような目で睨みつけた。
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