42.ジョージからの誘い

 店に入ると、レジに立っていた久美子がニヤニヤしながら声をかけてきた。

「美奈、来てるよ」

「だれが?」

 久美子は店の奥を指さして、「ゴースト」と口だけ動かした。

 途端に金縛りのように体が動かなくなった。

 胸が高鳴り、全身から汗がにじみ出る。ラインの返事も貰えていないのに、どのような顔をして会えばいいのだろう。

 美奈の心はさっきまでの弾みを失い、低反発マットレスにずぼりとめり込むボウリング玉のよう沈み込んだ。まずいまずいと繰り返し、一気に急ブレーキをかけようとするが、体だけは惰性で動いてしまい、すすすっと、店内左奥の、アロハシャツが掛けられている円形ラックのそばへ歩み寄った。

 ジョージはアロハシャツを眺めていた。

 白シャツに黒いチノパンを履き、ギターケースを片手に持っている。美奈が来たことに気がつき、目尻が下がる。

「いらっしゃいませ、アロハシャツをお探しですか?」

 美奈はどうすればいいかわからず、つい接客モードで接してしまった。ジョージは慌てて、レーヨン生地のアロハシャツを一着、手に取った。

「あ、それ、レインスプーナーのアロハ……」

 言いながら美奈は、葵から教わった「まずは否定作戦」を思い出した。

 しかめ面でアロハを指差す。

「このなにがいいの? 私は着ない」

 ジョージは目をぱちくりして、なにか考えてから、それをラックに戻した。

 失敗した。

 テンパる美奈に構わず、ジョージは円形ラックをくるくる回し、別のアロハを手に取った。美奈はなにか言うのが怖くて、低い声で「ああ」と頷くことしかできなかった。

 ジョージが辺りを見回し、そばにあった試着室を指さした。

「試着、するんですか?」

 美奈が訊ねると、ジョージが真剣な表情で頷いた。ジョージが商品を試着するのは初めてだった。

 ジョージは試着室に入ると、カーテンを閉める前にもう一度辺りをきょろきょろ見て、ここにいて、と言うように手を動かした。

 美奈が試着室の前に立っていると、中から大きく息を吐く音が聞こえた。

「清水さん、いますか?」

 続けてジョージの声。

「え? はい、いますけど、喋れるんですか?」

「ええ、ここなら、個室なんで。……なんだ、最初からこうすればよかったんだ」

 紺色のカーテンがゆらゆら揺れる。

「今日、ゆうたん来てますか?」

「いえ、今日は、私と久美子と、学生のバイトくんだけです。ゆうたんは用事があって来てません」

「それなら好都合……あ、ライン返せてなくてすみません」

「え? いや、全然気にしてないですよ」

 大嘘。

「すみません。一昨日昨日と立て込んでて」

「そうなんですね、忙しいんですね」

「そうなんです……。それで、ちょっと、相談したいことがあるんですが」

 ジョージの声が低くなる。その調子につられて、美奈も耳をそばだてるポーズをとった。ジョージが言った。

「ゆうたんの結婚パーティの余興で、清水さん、歌を歌いませんか?」


 優子と隆一の知人を招き、結婚報告パーティを開催することになった。

 そのパーティを主催する幹事が、ジョージになにか一曲ギターを弾いてくれと依頼してきたのだった。

 ギター演奏を依頼されたジョージが、美奈のことを思い出し、歌を歌わないか訊ねてきたののである。

 曲目は「オー・シャンゼリゼ」に決まっていた。

 試着室前で訊かれたときは突然のことに頭が真っ白になってしまい、すぐに返事をすることができなかった。しかし、結婚報告パーティの余興とは言え、人前で歌うチャンスだ。それに、美奈もなにか特別な形で、優子への恩返しも兼ねてなにかしたいと思っていた。

 美奈はその晩に、ラインでジョージに歌うことを伝えた。

 どうせなら歌うだけではなく、自分もギターを弾こうと思った。演奏はジョージがしてくれると言っていたが、せっかくある程度練習したのだし、「オー・シャンゼリゼ」はコードの数も少ないから、少し練習をすれば演奏しながら歌えるようになるはずだと思った。

 ジョージから、スタジオに入って練習をしようとメッセージが送られてきた。美奈は自分もギターを弾くと伝えた。ジョージは、それはいいアイデアだと賛成した。

 ギターは奈央の「梶原さん」を東京まで持ってきている。美奈は早速その晩から「オー・シャンゼリゼ」の練習を始めた。

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