41.葵の恋愛相談室
ジョージから連絡が来なくなった。普通なら遅くとも夕方の五時までにはなにかしらメッセージが来るのだが、その日は夜になっても音沙汰がなく、既読になったまま翌日の昼になった。
いてもたってもいられず、美奈は昼休憩になったと同時に店を出て、喫煙所へ向かった。久美子に相談しようか迷うが、恋する高校生じみた悩みを久美子に相談するのは恥ずかしかった。
喫煙所で煙草をふかしながら、美奈は込み上げて来る不安と苛立ちに涙を流しそうになった。春の風は生暖かく、背中と脇の下にじんわり汗がしみ出した。
喫煙所のドアが乱暴に開き、隙間から髪の毛をアップにまとめた葵の顔がひょこっとのぞいた。葵は煙草を吸わない。
葵が美奈を見つけて眉を上げた。
「あ、美奈さん、貴之さん知らないですか?」
「知らないよ」
「ええ。私これから昼休憩なのに、貴之さん戻って来なくちゃ休憩入れない」
「トイレじゃない?」
美奈が言うと、葵の後ろから貴之の声が聞こえた。
「葵ちゃん、どうしたの? 煙草吸うの?」
「ちょっと! なに呑気におしっこしてるんですか! 私これから休憩!」
葵が振り返って怒鳴る。貴之の笑い声がする。
「ごめんごめん。でも、おれの名誉のために言うと、おしっこじゃなくて、うんち」
「どっちでもいいです! ウンコマンはさっさと店に戻ってください!」
「ごめんごめん。美穂は?」
「美穂さんは銀行に両替!」
「あちゃあ」
葵が眉を釣り上げ美奈に顔を向け直す。
「ほんと勘弁してほしい。美奈さんもこれから昼休憩ですか?」
美奈は頷きかけて、ふと、奈央が「葵ちゃんのアドバイスで彼氏ゲットしたよ」と言っていたのを思い出した。
葵は男性経験が豊富だ。橋田と会うまでは月替わりで恋人を取っ替え引っ替え、すごいときには週替わりのときもあった。しかもその都度男のタイプが違う。そんな葵なら、きっとこの現状を打破する術を知っているに違いないと思った。
美奈は藁をもすがる思いで、葵をランチに誘った。
アヒルの隅の席に座った。貴之のはからいで、美奈にも葵と同じ、まかないカレーが振舞われた。葵は白シャツの袖をまくり、カレーライスを食べ始めた。
「ねぇ、奈央から聞いたんだけどさ」
「奈央? あ、なおりん? 妹?」
「そう。奈央から聞いたんだけど、葵ちゃん、恋愛のアドバイスとかしてあげたの?」
葵は口をもぐもぐ動かしながら考え、ごくりと飲み込んで首を傾げた。
「恋愛のアドバイス? なんだろう」
「奈央が、葵ちゃんのおかげで彼氏ゲットしたって言ってたんだけど」
「ああ、アドバイスって、大したことじゃないですよ。なおりんは可愛系なんだから、変にカッコつけないほうがいいって言ったんです」
「可愛い系だから?」
「そう。それぞれ自分の武器ってあるじゃないですか。そのやり方でやらないと、落とせるもんも落とせないよって」
「自分の武器ね。じゃあ私の武器ってなにかな?」
「なんですか美奈さん。美奈さんは存在自体が武器ですよ。大量破壊兵器。皆殺しですよ。美奈だけに」
葵は言うと、「うわあクソみたいなダジャレ。言うんじゃなかった」と恥ずかしそうにした。
「そんなことないよ」
美奈は否定した。葵はスプーンを動かす手を止めて、じっと美奈を見つめた。
「ダジャレ、おもしろかったですか?」
「いや、ダジャレはクソだったけど、それじゃなくて、私の存在自体が武器だってこと」
葵はスプーンを置き、目をぱちくりした。
「え? 美奈さん、恋の悩みですか?」
直球の質問に美奈は声が出せず、ただ黙って頷いた。
「ええ? どうしたんですか、百戦錬磨の美奈さんが。え? もしかして、あのミステリアスなギタリストですか?」
葵がぐいぐい前のめりになった。興奮している。
美奈は葵の好奇心に気圧され、観念して自分の置かれている状況を説明した。メッセージのやりとりを見せてくれと言うので、美奈はジョージとのラインのやりとりを見せた。
葵はスマホの画面を指先でなでながら吹き出した。
「なんですか、この時候の挨拶だけで本文がない手紙、みたいなやりとりは」
「向こうから誘ってくれると思って、こっちからは核心に触れること言いにくくて」
葵がスマホを美奈に返した。
「いやあ、これはダメですよ。相手はあのミステリアスなギタリストなんですから」
「だよねぇ」
「あのギタリストは私が見る限り他人に興味がないタイプの人ですからね。あ、もしかすると、美奈さんみたいな人が最も苦手とするタイプかも」
「どういうこと?」
葵はテーブルに肘をつき、人差し指を立てた。
「あのですね、美奈さん。他人に興味がないタイプの人って、心のどこかで諦めてるんですよ。自分なんてどうせ相手にしてもらえないって。これは恋愛においてだけではなく、友達づくりにおいても言えますね。自分なんかが他人に影響を与えられるわけがない、相手の世界に入れるわけがないって。だから、自分から他人に興味を持たなくなる」
葵はコップの水を飲み、咳払いをした。また口を開く。
「そんな人は、絶対に向こうからアプローチしてくることはないんです。待ってても待ちぼうけですよ。特に美奈さんって、見た目はクールビューティ系ですから。声が低くなってより凄みが増しましたし。あのギタリストみたいな人たちにとって、一番とっつきにくいんです。だから、美奈さんから動かないと」
「でも、動き方わからないよ」
「美奈さん、ディフェンス専門ですもんね、恋愛においては。いつも向こうからガンガン攻められるタイプでしょ。つまり、言い寄られるタイプでしょ」
「まあね」
「憎たらしい! 私なんか、美奈さんほど美人じゃないから、なんとか作戦練って、毎回攻め方や守り方変えたりで大変だったのに」
「だからね、そのテクニックを教えてほしいの」
恥をしのんで頼むと、葵は腕を組み口を尖らせた。
「ううん……まあ、てっとり早く落とす方法はあるっちゃあるんですけどね」
「なになに?」
「でも、その前にデートに行かなくちゃしょうがないですよ」
「とにかく教えて」
葵はしばらく目を閉じてから、ゆっくりと開いた。
「美奈さんって、結構男の前だと猫かぶりますよね」
「そうなのかな」
「そうです。なんでもかんでも相手の言うこと肯定するじゃないですか。『すごぉい』とか『そうなんだぁ』とか。あれはダメです。普通のガンガン来る系の男には有効ですけどね、あのギタリストみたいな、他人に興味ない系の男にはほとんど無意味です。いくら相手の話に興味を持って肯定したって、『偶然、考え方や興味の対象が同じだっただけだ』と思うだけで、特別な人にはならないんです。相手の特別になるにはですね、まずは相手の言うことを否定するんです」
「否定すんの? なんで?」
葵が指先を揺らす。
「慌てずに最後まで聞いてください。否定って言っても、全否定じゃないです。疑ってかかるんです。例えばですね、相手が『おれ、ビール好きなんだ』と言うとしますよね。美奈さんはそれに対してなんて言いますか?」
「私も好きって言うよ」
「ダメです。そこで否定するんです。『ええ? ビールってなにが美味しいの? 私イヤだ』って。たぶん、相手はちょっとイヤな顔をします。そこで、『ビールってなにがいいの?』ってかまをかけるんです。そしたら相手はちょっとムキになって、ビールの美味しさや魅力について説明してくれます。それで、その説明を聞いた後で、『へぇ、なんだかビールって結構美味しそう、飲んでみようかな』ってコロッと意見を変えるんです」
「ええ、そんなことして、主体性のない奴だと思われない?」
「言い方が肝心なんです。あたかも、相手の説明で意見が変わったみたいに言うんです。真剣に話を聞きながら、徐々に表情を変えたりして。そうするとですよ、相手の中に、『おれが、この子を変えた』っていう達成感みたいなものが生まれるんです。自分なんて、って諦めている他人に興味ない系の男は、これだけで美奈さんのことを特別視するようになります。『偶然意見が一致した』んじゃなくて、『自分が変えた』っていう意識が芽生えますからね。自分の説明で美奈さんみたいな我の強そうな女が意見を変えてくれたと思って、相手は自信を持って、美奈さんにアプローチして来るようになりますよ」
半信半疑ながらも、美奈はなるほどと感心した。
「すごいね、葵ちゃん」
「いや、まさかあの清水美奈に講釈垂れるなんて思ってもなかったです」
葵は誇らしげにカレーライスを頬張った。
美奈は俄然食欲が湧いてきて、カレーライスを口に運んだ。
「でも、美奈さん、真剣だったら、こんな作戦使わないほうがいいですよ」
「どうして?」
「だって、この作戦はどちらにしても、どこかで嘘をつくことになりますから。貴之さんに聞いたんですけど、関係を長続きさせるために大切なのは、お互いに自分の弱みを見せ合うことだって。正直に自己開示することだって。それは友達関係にも言えるらしくて、正直に自分の弱みを見せて、要所要所で自虐できるかどうかが肝心だって」
美奈はカウンターで会話している貴之と美穂を見た。声は聞こえないが、二人は楽しそうに笑っている。
「たしかに、あの二人には嘘がなさそう」
「男もバカじゃないですから。嘘ついたり取り繕ったりしてても、長く付き合っていけばそのことに気づきます。嘘つき相手に正直になれる人はいませんし、いつか男のほうが息苦しくなって逃げちゃいます」
葵は言うと、残ったカレーライスを一気に平らげた。
ぐうの音も出なかった。
葵はなにも考えず、本能の赴くままに行動しているものとばかり美奈は思っていた。しかし、実際はかなり考えている。それに比べて自分はどうだろう。いつも受け身で、周りが自分のためになにかしてくれるのを待つばかり。
美奈は自省して、さっさとジョージにメッセージを送ろうと躍起になった。
葵に礼を言い、サクサフォンの控え室へ急いだ。
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