40.恋する高校生

 歌手という仕事は、発声練習やビブラートの訓練を繰り返していれば成立する職業ではない。そのようなことを風呂場でしきりに繰り返したところで、それでは単に「歌うのが好きな人」になるだけだ。就職活動でエントリーシートを出すように、自分の歌声を関係各所に提出しないことには、人前で歌う機会など得られない。

 美奈は、その、いわゆる事務的な努力をする気力に欠けていた。

 どこか上の空で、いまの生活を続けていれば、いずれそういうチャンスが訪れるだろうと漠然と思っていた。夏休みの旅行の目的地は決めたのに、飛行機のチケットやホテルの予約を一切怠っているという状況と同じで、移動手段も宿泊先もないのでは、一歩も動けない。気づけば夏休みが終わっている。

 久美子と優子がサクサフォン二号店のオープンに向けて本格的に始動した。エミも就職活動をやめて、その手伝いをしている。そんな三人のいるサクサフォンの、どこか熱を帯びた雰囲気が、美奈の判断を誤らせていたのかもしれない。

 優子が「私の知り合いに、美奈のこと紹介してみるわね」と言ってくれていたし、パリから帰国して以来、ジョージとも一日一通程度の頻度でメッセージのやりとりをしている。ジョージはギタリストだから、きっとなにか道を知っているに違いない。美奈は二人が動き出すのを待っていたのだ。

 しかし優子は二号店オープンの準備に大わらわで、ジョージもスタジオミュージシャンの仕事が忙しく、それどころではなかった。

 美奈はジョージが誘ってくれるのを待っていたが、彼はお茶にすら誘ってくれない。きっとすぐデートの誘いくらいはあるだろうと思っていた美奈は、そのことでも、もやもやしていた。

 デートに誘われず気を揉むなど、初めての経験だった。美奈が興味を持った人間は、こちらから少しアプローチをすれば、必ずすぐデートに誘ってくれた。首がもげていたときにも、奥手っぽい下田にさえデートに誘わせたのだ。それに比べれば、ジョージとは一緒にパリへ行った仲なのだし、二人きりでかなり込み入ったことも話した。

 デートに誘うくらい自然なことではないか。こちらは向こうの、緘黙症という事情も知っているのだから。

 勇気を出して自分から誘ってみようと思うが、勇気が出なかった。『今週末会いませんか?』とスマホに打ち込むと「断られたらどうしよう」という不安が押し寄せてきて、送信ボタンが押せない。結局全部消して、『お疲れ様〜。今日は寒かったですね。でも明日は暖かくなるらしいですよ〜』と、当たり障りがないだけが取り柄のメッセージを送ることになってしまう。

 毎日必ず返事はあるが、こちらが当たり障りのないメッセージを送るものだから、向こうからの返事も『今日は寒かったですね。明日は暖かいんですか? でも僕花粉症だからそれはそれで(笑)』とむなしい内容になる。

 そのような日々を三週間も過ごしていると、パリで養った英気も徐々に薄れていく。

 首がもげたことは遠い過去のようだし、家族との不仲もなかったもののようだ。低くなった声はもう慣れてしまって気にならないし、周囲も頓着しなくなった。パリでの日々など夢のようで、真之やマリイは架空の人物なのではないかと思えてくる。


 四月も半ばになり、最高気温が二十度を下回る日がなくなった。通りには半袖のTシャツを着る人間の数が増えた。

 生活は相変わらずで、ただなんとなくサクサフォンでの仕事をこなし、時間があるときにスマホを覗き、ジョージからの連絡が来ていないかチェックする。メッセージが届いていれば気分が盛り上がり、来ていなければ落ち込む。

 恋する高校生になったような気分だった。

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