39.パーティ

「遅れちゃってごめんなさいぃ……キャア! ゆうたん、見せて見せて!」

 時刻が夜九時を回った頃、リクルートスーツを着たエミが濡れたビニール傘を片手にアヒルに入って来た。

 優子はシャンディガフの入っているグラスを置くと、すっと左手をエミに差し出した。エミは興奮した調子で「すごいすごい! おめでとう!」と叫んだ。

「エミ、就活?」

 葵がカウンターの向こうから大声を上げる。横では貴之と美穂が料理を作っている。エミは眉をひそめながら頷き、大森の隣に座る。

「そうなんだよぉ。もう大変」

「最近、シフト入ってねぇもんな」

 良介がビールを飲みながら言う。

「ってか、雨降ってんの?」

 久美子がエミの傘を指さして訊いた。エミが眉間に皺を寄せる。

「そうなんですよ。もう、イヤになっちゃいますよ」

「マジっすか? オレ、洗濯物干しっぱなしっすよ」

 大森が不安そうな声を上げる。久美子が腕を組んでぼやく。

「あたしもだ。サイアク。お気に入りの下着干してんのに」

 そこへ葵がベーコン入りのスクランブルエッグを持って来た。それをテーブルに置きながら、

「大丈夫ですよ、久美子さん。パンティはどうせ濡れるものでしょ?」

「おまえの品のなさは、天下一品だな」

 良介が呆れたように首を振る。葵は舌を出してカウンターのほうへ戻って行った。

「まぁまぁ、エミちゃんも来たことだし、改めて乾杯しよう」

 カウンターの中から、黒い長袖シャツの上に黄色い七分袖のアロハシャツを着た貴之が、シャンパンボトルを持って出てきた。

「貴之さん、派手ですね」

 エミが笑う。貴之が誇らしげに裾を引っ張って見せる。

 それは貴之が下北沢の古着屋で、「メイド イン アメリカ」だと騙されて、というよりも勘違いして買ったラルフローレンのアロハシャツだった。

「これ、いいでしょ。ラルフだよ」

「メイド イン マレーシアだけどね」

 美奈が口を挟むと、貴之が「言わないでよ」と口を尖らせた。美奈が例の勘違い事件について話すと、エミは口をおしぼりで押さえながら笑った。

「貴之さんの間抜け話なんていいんだよ。さっさと乾杯しようぜ」

 良介が空のシャンパングラスを持ち上げて催促する。

 美奈たちは、「美奈おかえり&ゆうたん婚約おめでとうパーティ」をアヒルで開催していた。パーティとはいえ、例のごとくアヒルを貸し切り、皆で一緒に酒を飲み交わすだけだ。

 美奈は自分の居場所に戻ってきたような気がしていた。まだ帰国してから一週間しか経っておらず、時差ボケが抜け切っていないが、ここにいる人たちと一緒にいると、すごく安心できる。

 優子は、「時差ボケがあるなら、復帰は四月からでもいいのよ」と言ってくれたが、美奈は一刻も早く仕事に戻りたいと思い、帰国した翌々日から出勤している。

 復帰すると、全員が美奈を歓迎してくれた。葵は泣きながら喜んだ。良介は復帰祝いとして、木星屋で取り扱っている木彫りの置物をプレゼントしてくれた。

 不気味な笑顔を浮かべている男の像で、全く美奈の好みではなかったが、「ご利益があるおっさんの像だから」と言いながら笑っている良介の気持ちだけで嬉しかった。

 美奈が休んでいた間は久美子が八面六臂の活躍で店を切り盛りしていた。大森やエミも、普段以上にシフトを増やして働いた。

 優子は帰国後、いろいろやることがあるからと言ってサクサフォンにほとんど顔を出していなかった。

「それにしても、ゆうたん結婚かぁ、いいなぁ」

 葵がおつまみのピクルスをテーブルの上に置きながら言った。葵は珍しく、酒をほとんど飲まずにウェイトレスの仕事に専念していた。

「しかも相手はあの隆一さんでしょ? イケメンだし」

「おまえは結局、顔か」

 良介がシャンパンを飲みながら言い捨てる。葵が腰に手を当てて良介を見下ろす。

「別に顔で選んでないし。顔で選んでたら良介さんだって悪くないけど、無理だもん。人格が」

「こっちだって願い下げだよ」

「あれぇ? 私いま、良介さんはイケメンだって言ったつもりだったのに嬉しくないの?」

 葵がテーブルに手をついて良介の顔を覗き込んだ。良介が睨み返す。

「人格否定されて嬉しいわけがねぇだろ」

「やだやだ、そこで素直に喜ばないから、良介さんは人格破綻だって言われるんだよ」

「オレ、人格破綻って言われてんのか? だれに?」

「私に」

 皆が声を出して笑う。エミちゃんが「私は良介さんが人格破綻だって思ってないですよ」とフォローする。「あたしは思ってる」久美子が蒸し返す。

「でも、いいなぁ、結婚。私も結婚したい!」

 葵が優子のそばへ行き羨ましそうな声を出した。優子が葵の顔を見て笑う。

「葵はまず、相手を見つけないとね」

 葵が待ってましたと言わんばかりに口角を上げた。

「それが、実はね、いるんですよ」

「いるの?」

 優子が訊き返すと、葵は胸を張って頷いた。皆、興味津々前のめりになる。

 エミが訊ねる。

「だれ?」

「橋田さん」

「橋田さんって?」

 エミの問いに、葵が美奈を見た。

「橋田さんって、あの橋田さん?」

 美奈が訊ねると、葵が「そそ」と小さく笑った。

 葵はあのライブのときに橋田と連絡先を交換していた。それから何度もデートを繰り返し、二週間くらい前から付き合うようになった。もうかなり深い関係になっているとのことだ。葵が言う「深い関係」というのは「体の関係以上の関係」という意味である。

「いろいろ、お互いに語り合うんだよ? 将来のこととか、趣味とか、いろいろ」

 葵が頬に両手を添えて、体をよじらせながら言う。

「私、男の人とこんな風に付き合うの初めてなんだよね。なんだか、一緒に将来のことを考えられる人がいるってすごく幸せ。幸せ太りで、二キロ太っちゃった」

「どうりで、最近おめぇでかくなったもんな。体重何キロあんだ?」

 良介がデリカシーの欠片もないことを訊く。葵が眉間に皺を寄せる。

「女の子の体重訊くなんて、良介さんサイテー」

「なんでだよ、体重くらい教えてくれたっていいじゃねぇか。減るもんじゃなし」

「減るなら教えるし!」

 耐えられず葵が吹き出し、締まりのない笑みを浮かべる。

「それにしても、結婚したいとまで考えられる人と出会えたのは初めてなんだよね」

「結婚って、おまえ、カフェ開く夢はどうしたんだ」

 良介が訊くと、久美子が思い出したように口を開く。

「そうだよ。葵ちゃんまだ二十一じゃん。まだまだやりたいことあるんじゃないの?」

 葵が首を横に振る。

「そのこともカレは理解してくれてるの。応援してくれてるの。ホーケン社会じゃないんだから、結婚したからって家に入って自由を失う必要はないって。だから、私、橋田さんと結婚したい」

「おまえも年貢の納めどきか」

 良介が笑いながら煙草に火をつける。

「そういう言い方は気にくわないなぁ。私だってまだまだ落ち着く気はないからね。少なくとも神楽坂にカフェを開くまでは。男遊びはしないけど」

「でも、橋田さんいい人そうだから、いいと思うよ。きっと、真剣な恋しかしないはずだし」

 美奈は思ったことを言った。たしかに二十一で結婚するのは葵らしくないと思ったが、真剣に愛し合っているのなら、年齢など問題ではない。

 葵が目をキラキラさせながら美奈を見る。

「さっすが美奈さん! ですよね! ほんと、美奈さんが戻って来てよかった!」

 そこへ美穂がシーザーサラダとサーモンのカルパッチョを持って来た。

「それはいいけどね、葵ちゃん。カフェオープンしたら、いつまでもお客さんとくっちゃべってちゃダメよ」

「はぁい」

 美穂に注意され、葵は舌を出してカウンターへ駆けた。

「それにしても、美奈さん復帰して、嬉しいっす」

 突然大森がしみじみと言った。目に涙を浮かべている。

「なんだか、すべてが元どおりになった感じがして、嬉しいっす」

「私も、美奈さん戻ってくれてよかった。やっぱり美奈さんいないと寂しいですもん」

 エミも感極まっている様子だった。

 美奈は姿勢を正した。

「ご心配をおかけしました。でももう、大丈夫だから。首も治ったし」

「声変わりしちゃったけどね」

 久美子が笑う。美奈は久美子に改めて礼を言った。

「久美子もありがとね。私がいない間」

「いいんだよ。あたしだっていつかショップ持ちたいと思ってるんだから。いい経験になった」

「そうそう。久美子にね、話があるのよ」

 優子がおしぼりで口を拭いながら久美子に手を振った。久美子が見ると、優子はテーブルに肘をついて前屈みになった。

「あなた、すぐにでもお店持つ気、ある?」

「え?」

 久美子は目を点にした。優子が続ける。

「実はね、サクサフォンの二号店を出そうと思ってんの。下北か西荻か、目黒か、まだ場所は決まってないんだけどね、そこをあなたに任せようかなって」

「え? ほんとに? ってかサクサフォン二号店出すの?」

 久美子は信じられないという顔をしている。優子はひょうひょうとしている。

「いつか出そうと思ってたのよ。いまは店舗探しで大忙し。久美子、店長やってくれない?」

「いいの? ほんとに?」

「いいの。信頼してるから。ゆくゆくは自分の店を持つとしても、何事もまずは経験しといたほうがいいと思うのよ」

 久美子は初めてのお泊まり会を許してもらった小学生のような顔で小さくガッツポーズをした。すぐに美奈を見る。

「でも、美奈は?」

 美奈は微笑んだ。

「私のことは気にしなくていいよ。久美子、おめでとう」

「ほんとにいいの?」

「いいよ」

「美奈は、別にやりたいことがあるのよね」

 優子が訳知り顔で言った。美奈はびっくりして優子を見た。歌手になりたいと思っていることは、まだ優子に伝えていない。

「隆一から聞いたわ。あなた、ブルースシンガーになりたいんでしょ?」

「なんで隆一さんが知ってるの?」

「ジョージさんから聞いたんだって」

 顔が急激に熱くなった。歌手になりたいという大それた夢について知られたことや、ジョージの名前が会話の中に出てきたことが原因だった。

「ジョージってだれ?」

 久美子が訊ねる。

「ゴースト」

 美奈が言うと、久美子は吹き出した。

「なに、あなたたち、ジョージさんのことゴーストって呼んでたの?」

 優子が呆れたように言う。

「だって、あの人幽霊みたいじゃん」

「たしかにね」

 優子も笑った。

「清水さんがブルースシンガーか。いいじゃねぇか。声も低くなったことだし、渋いブルースが似合いそうだな」

 良介がまんざらでもない顔で言う。

「カッコいいっす!」

 大森も目を大きくする。

「ありがと。別にブルースシンガーってわけじゃないけど、シンガーにはなりたいかな」

「ってかなになに、美奈、ゴーストとそんなに仲良くなったの? パリでなにがあったの! その話詳しくしてよ!」

 久美子にかまをかけられ、美奈はパリでジョージと留守番をした日の話をした。

 ジョージがいじめられていたことや、自殺を考えていた話は省略し、緘黙症であることと、彼がどれくらい真剣にギターに取り組んでいるかということだけを説明した。そして、自分も優子のようにステージに立って歌を歌いたいと思っていることを改めて皆に伝えた。

「嬉しいっす」

 話していると大森がなぜか泣きだした。良介が大森の頭をはたく。

「なんでおまえ泣いてんだよ。飲みすぎだ」

「だって、嬉しいんす。オレの周りにいる人、カッコいい人ばっかなんすもん」

「なに言ってんだ」

「良介さんとか、貴之さんや美穂さんとか、ゆうたんとか、葵さん、久美子さん、美奈さん、みんな自分のやりたいことを持ってて、カッコいいっす。自分も頑張らなくちゃって思うんす」

「ええ、私はぁ?」

 エミが口を尖らせる。

「エミさん、夢、あるんすか?」

 エミが頬を赤らめる。

「あるよ」

「なんすか?」

「ゆうたんや久美子さんみたいに、アパレルショップ持つこと」

「あら、そうなの?」

 優子が初耳というように目をぱちくりする。エミが恥ずかしそうに頷く。

「うん。でも、私には無理だと思って言わなかったの」

「無理なことないわよ。エミだって、サクサフォンの大事な戦力になってるんだから」

「ありがとう」

「なんだったら、二号店のオープニングスタッフとして、正社員で働いたら? エミを雇うくらいの余裕、サクサフォンにはあるんだから」

「そうしよう! エミちゃんなら、即戦力だし、きっといい経験になるよ」

 久美子も乗り気だ。エミが口を手で押さえる。

「いいんですか? いいんですか?」

「いいよ! 一緒に頑張ろうぜい」

 久美子が親指を立てる。優子が手を叩く。

「どっちにしろ人は雇わなくちゃいけないんだからね。よし! そうと決まれば、二号店オープンに向けて本格的に動き出さなくちゃね」

「やっぱり、みんなカッコいいっす! オレも、頑張るっす!」

 大森が立ち上がり、良介に顔を向ける。良介が怠そうに視線を返す。

「なんだよおまえ」

「良介さん、大学卒業したら、オレを木星屋で雇ってください!」

「なんでおまえを雇わなくちゃいけねぇんだよ」

「オレ、良介さんみたいになりたいんっす! とりあえずニット帽買って、煙草をそこに挟むっす!」

「おまえ、煙草吸わねぇだろ」

「始めるっす!」

「ばかやろう、おまえが煙草なんて十年早ぇよ」

「オレ、もう二十歳っすよ?」

 美奈たちが笑っていると、貴之と美穂がテーブルまで来て、「ほら、葵ちゃんが料理を作ったよ!」と叫んだ。

 葵が恥ずかしそうに大きな皿を持ってやって来た。それはキッシュのような食べ物で、葵のオリジナルらしい。食べるとすごく美味しかった。


 美奈たちは十一時過ぎまで飲んで騒いだ。皆、かなり酔った。BGMでかかっていたオアシスの曲を全員で歌った。

 美奈は日常が戻ってきたような気がした。その日常は少し以前と違っていた。

 痺れるような緊張感と、透き通るような開放感を持つ、非現実的な日常だった。

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