38.オーシャンゼリゼ
アルコールが入ると別人格が出るタイプの人間がいる。彼らは、酒の席でいくら仲良くなっても、翌日になるとよそよそしく他人行儀になる。そのような場合はこちらも相手に合わせ、初対面のような感じで話をしなくてはならず、余計に気を遣うことになる。
美奈はそういうタイプの人間が嫌いだった。
行きずりの人であればそれっきりになってしまって構わない。しかし、ジョージとはそうなりたくなかった。
翌朝七時頃にベッドルームからリビングに出ると、ジョージがぼんやりとした微笑を口元に浮かべ、せっせとコーヒーメーカーをセットしている真之と、忙しげに朝の準備をしているマリイを眺めていた。
美奈を見つけ、小さく会釈する。
「おはようございます」
美奈はジョージに向かって言った。ジョージはなにも言わず、代わりにマリイが「オハヨウ、清水」と言って、思い出しように、「ちゃん」と付け足した。
「いまコーヒー入るから、待っててよ」
真之がコーヒー豆を手動のミルで曳きながら言う。
美奈はジョージがベッドに使っているソファに腰をかけた。ジョージは嫌がる素振りを見せず、布団代わりの毛布を丸めて脇に寄せた。
「二日酔いですか?」
美奈が訊ねると、ジョージは苦笑いを浮かべて頷いた。
「顔がやつれてて、ゴーストみたい」
冗談っぽく言うと、ジョージは昨晩見せた「ゴーストのときのモノマネ」をした。
酔っているときに言ったりやったりしたことをシラフのときに再び持ち出してくれる人は、酔いがさめても人が変わることがない。美奈は安心し、ジョージのモノマネを見ながら笑った。
とは言え、そもそもジョージは二人きりでないと口を開かない。皆がいるときは、どちらにしても美奈が一方的に喋りかけなければならない。会話の主導権、というより主導義務は常に美奈にある。
美奈はそれまで以上にジョージに話しかけるようにした。
ジョージはなにも答えず、身振りや表情で返事をするだけだった。それでも、美奈はジョージと会話をしているような気がして嬉しかった。
残りの日はパリを散歩したり、優子たちと一緒に『ミスター・ロンリネス』の作者、リュック・ベルナールドが住んでいたアパルトマンや、作中に登場するカフェのモデルとなった喫茶店へ行ってみたりした。また、マレ地区にあるファッション街を歩き、優子からいろいろと服飾のうんちくを聞いた。
帰国する前日は特に予定を入れず、アパルトマン近くのカフェに行ったり、近所を散歩したりして過ごした。
優子と隆一は二人きりでデートがしたいということで、朝からパリ市内へ出かけていた。
美奈がジョージ、真之、マリイの三人と、アパルトマンで晩飯を食べていると、優子と隆一が帰ってきた。九時を少し回った頃だった。予定では、二人はそのままホテルに戻ることになっており、どうして二人がアパルトマンを訪ねてきたのか美奈には分からなかった。
「みんなあ」
ダイニングに入るなり、優子が弾んだ声を出した。指を伸ばした左手を顔の横に並べる。薬指に、光るものがあった。
「わたし、結婚する」
優子の言葉に皆がフリーズした。
「わたし、隆一と結婚する!」
優子が大きな声でもう一度言う。
「オオ! ユウコー!」
最初に反応を見せたのはマリイだった。フランス語でなにやら言いながら、優子にハグをした。
「ありがとメルシー、マリイ! なに言ってるのか分からないけど!」
優子もハグを返し、顔をくしゃくしゃにしながら「メルシー!」と繰り返した。
「なんだ、おい、隆一、おまえプロポーズしたの?」
真之が立ち上がり隆一に近寄る。隆一が恥ずかしそうに頷く。
「おめでとう!」
真之が叫んで隆一にハグをした。
「ゆうたん、ほんとに結婚するの?」
美奈は優子に訊ねた。優子はマリイから体を離すと、
「美奈ぁ! するよ!」と言いながら美奈に抱きついた。
「見せて見せて! 指輪!」
白く細長い指に、細身のエンゲージリングがしっかりとはまっている。
「おめでとぉう!」
美奈はどっと押し寄せてきた喜びに涙をこらえきれず、震える声で叫んだ。
「どうして美奈が泣くのよぉ」
優子が美奈の額を押しながら言う。美奈はなんとか涙がそれ以上出ないようにするが、涙腺が完全に馬鹿になっていて、涙の滴はとめどなく溢れ続けた。
「だって、嬉しいから!」
優子が涙を流した。
「もう、せっかく我慢してたのに、美奈のせいだからね!」
美奈と優子はオイオイ声を上げて泣き、もう一度、ハグをした。
「どこで、どこでプロポーズしたんだ?」
真之が隆一に訊ねた。隆一は落ち着いた様子で頬をかきながら、「うん」と小さく頷き、
「レストランで食事をした後、シャンゼリゼ通りで」
「シャンゼリゼ通りで!」
真之が興奮した面持ちで美奈を見た。それから、ソファに座って笑顔で拍手していたジョージに、
「ジョージくん! なにしてんの! ギター! ギター出して!」
ジョージが慌ててギターのハードケースを手に取る。真之はマリイに顔を向け、優子と隆一を指さした。
「オーシャンゼリゼ!」
ジョージのギター演奏で、「オー・シャンゼリゼ」を合唱した。フランス語バージョンだったから、基本的に歌うのは真之とマリイで、美奈はサビの「オーシャンゼリーゼ」の部分だけ歌った。美奈たちが歌っている間、優子は隆一に身をゆだね、隆一は優しく優子の肩に手を回していた。
優子の婚約発表とともに、美奈のパリ旅行は幕を閉じた。
シャルルドゴール国際空港のロビーで隆一に寄り添って歩く優子を眺めながら、美奈はまるで自分のことのように幸せを感じていた。
時間はゆっくり、流れていった。その流れは確実に自分を連れて、まだ見ぬ素敵な未来へ向かっている。
そんな予感に胸が高鳴り、そして躍った。
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