37.ブルース
「私は引いたりしませんよ」
美奈は強くはっきり言った。力を込めた分、声がより野太くなった。
「よかった……」
ジョージは安心したように言って、ワインを飲み干した。
「実は、清水さんって、すごく話しやすくて、今日、余計に話しちゃったかなと不安だったんです」
「私、話しやすいですか?」
「話しやすいです。だって、僕、本当なら公共の場では一切口をきけないんです。お店とかでも店員と話ができないんです。だからいつも、買い物するときとか食事をするときとかは、指をさして欲しいものを伝えていたんですけど、サクサフォンに初めて行ったとき、清水さんが声をかけてくれたんですけど、どういうわけかそのときは、『これください』が言えたんです。なんだか、波長が合ったというか……」
ジョージはそこまで言うと、急に照れて言葉を詰まらせた。焦ったように口をぱくぱくさせ、自分でワインを注いで一気に飲んだ。
「僕、マジで話し過ぎですよね」
「酔ってるからじゃないですか?」
美奈は笑いながら答えた。
「そういえば、ゆうたんから聞いたんですけど、清水さんって歌が上手いんですよね」
「え? まあ、専門学校に通ってて、歌の勉強したんで、それなりに」
「あ、専門学校ってことは、歌手を目指してたんですか?」
「まあ、はい。実は歌手になりたんです」
照れくさかったが、美奈は告白した。バンドマンをやっているジョージに隠すような夢ではないと思った。
「でも、声が低くなっちゃって」
「確かに声、低くなってますよね。でも、いずれ治るでしょ?」
美奈はいっそのこと、首がもげたことや、そのための手術を受けて喉がおかしくなったことを話そうと思った。しかし、すべてをさらけ出すほどの勇気はまだなかった。
「ほら、私、この間まで首にコルセットしてたじゃないですか。あれ、首がちょっとおかしなことになってたんですけど、その影響で声帯がいかれちゃったらしくて。多分、声はずっとこのままなんです」
「ああ、コルセットしてましたね。あの頃、なんだか元気がなさそうで、僕も心配で、一生懸命『元気出してください』って言おうとしてたんですけど、余計なお世話かなと思ってはっきり言えなかったんですよね……それにしても、そんな事情があったんですね」
「だから、歌手はもう無理なのかなって……」
美奈が俯くと、ジョージは首をかしげて口元に笑みを浮かべた。
「いや、その声でも充分、歌手になれますよ。ブルース歌うとカッコいいですよきっと」
「ブルースか……」
「いや、別にブルースじゃなくてもいいと思いますけどね、例えばです」
ジョージがギターをしっかりと構えた。
「僕が伴奏するんで、なにか歌ってみますか?」
「いまですか?」
ジョージが頷き、「スタンド・バイ・ミー」を弾き始めた。
「英語の歌詞、わからないです」
「歌詞は適当でいいですよ」
ジョージが英語でも日本語でもない言葉で歌い始めた。美奈は一瞬躊躇したが、意を決し、メロディラインに合わせて口から音を出した。声は重たく、思ったように歌うことはできなかった。
ジョージが目を大きくして、嬉しそうに頷いた。美奈の中でなにかが外れた。忘れていた腹式呼吸を思い出し、自分の中身をすべて外へ押し出すようにメロディを口ずさんだ。
真之のアパルトマンが、世界から隔絶された場所であるような感じがした。時間の流れがなくなり、自分たちが絵画の一部になったような、へんてこだが、とても素敵な錯覚だった。
歌い終わると、ジョージが小さく拍手をした。しきりに美奈の歌を褒め、充分、歌手として通用するとまで言った。お世辞だと思い真に受けないようにしたが、どうしても喜ばずにはいられなかった。
それから二人は何曲か、ジョージのギター演奏で歌った。ビートルズを歌いたいと美奈が言うと、ジョージは彼女のキーに合わせて演奏した。
歌うことで、心が通じ合うような気がした。いろんな男と寝てきたが、これほどの快感を得たことはなかった。ジョージの演奏で歌う、歌手になりたいと思った。
ブルースに向いているのなら、ブルースシンガーでもいい。とにかく、歌を歌いたい。
歌い終わってから、二人はしばらく雑談をした。
久美子や奈央から返事が来ていた。
久美子は『なんでゴーストといるの(笑)お似合いじゃん(笑)』と茶化しつつ、『復職するの!? すごく嬉しい!』と美奈の復帰を喜んでくれた。
奈央は『エッフェル塔買ってくるの忘れずにね!』と無茶なことを言っていたが、『エッフェル塔の置物』という意味だったことが分かった。
美奈は久美子や奈央の話をジョージに聞かせた。奈央のとんちんかんな言い間違いや、この間の「ブライアン性感帯事件」の話をすると、ジョージは涙が出るほど笑い転げた。
思い切って、久美子との間でジョージが「ゴースト」と呼ばれていたことを伝えると、ジョージは申し訳なさそうな顔をし、すぐに照れ笑いを浮かべた。顔からわざと生気をなくし、うつろな目をして自分のモノマネをして見せた。今度は美奈が声を出して笑い転げた。
ジョージもライブハウスに入り浸っていたときに出会った個性豊かなバンドマンたちの話や、シカゴで出会った多種多様な国籍の人間たちの話をしてくれた。このとき明らかになったのだが、ジョージはハーフでもクォーターでもなかった。純粋な日本人で、ジョージという名前は「George」ではなく、「丈司」と書く。フルネームは間島丈司。美奈は若干拍子抜けしたが、大した問題ではなかった。
ジョージの名前が、丈司だろうが、ジョンだろうが、ロドリゲスだろうが、ゲリウンコ漏れ太郎だろうが、なにも気にしない。
合コンで出会ったイチゴポテトのことを思い出して、その話をした。ジョージがまた、ひぃひぃ言いながら笑った。
二人は白ワインをもう一本あけ、楽しく会話をした。時刻が十時半を過ぎた頃に、真之とマリイが帰ってきた。途端に、ジョージが口を閉じた。曖昧な微笑を浮かべ、ソファに座り、真之とマリイを見ている。
酔っている美奈たちを見て、真之は嬉しそうに笑った。
「留守番も結構、楽しかったんじゃない?」
美奈はジョージを振り返った。ジョージが顔を赤くして美奈を見ている。美奈は真之に向き直り、「とっても」と答えた。
ジョージはなにも言わないが、構わなかった。黙っていたって、ジョージがなにを考えているのか、わかる気がした。
真之にいろいろ話しかけられ、気まずそうに口を閉じているジョージを見ながら、美奈は胸の奥からなにかがほとばしるのを感じた。
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