36.ジョージ物語

「発達障害……?」

 ジョージは力なく頷いた。それから首を小さく振った。

「こんなことは、やっぱり、言わないほうがいいかもしれないですね……」

「そこまで言ったんなら言ってくださいよ!」

 美奈は早口で迫った。ジョージの体がびくっと動き、停止した。こんな言い方をする気はなかった。しかし、せき立てられるような気がして、つい、語気が強くなってしまった。

「ごめんなさい……」

 謝っても、ジョージは動かなかった。

「発達障害って、じっとしていられないとか、空気が読めないとかってことですか?」

 美奈はなにか言わなければと思い、とりあえずそのとき頭に浮かんだことを言った。

 ジョージは首を横に振った。

「僕は、人前で、喋れないんです」

「人前で喋れない? いま、喋ってるじゃないですか」

「いや、人前というか、外で複数の人を前にすると喋れなくなるんです。室内で一対一だと喋れるんです」

 どういうことか分からなかった。

「言語障害みたいな感じですか?」

「いえ、緘黙症ってやつです」

「カンモクショウ?」

「はい。あの、場面緘黙症って聞いたことないですか?」

「いや……ありません」

「ないですか……」

「ごめんなさい、無知で……」

「いえ、知らなくても変じゃないです」

 ジョージが素早く手を顔の前で振った。

「緘黙症ってのは、喉とか声帯とか、喋るための器官に問題はないのに、どういうわけか言葉を発することができなくなる病気です」

「そんな病気があるんですか?」

「はい。場面緘黙症は、特定の場面に限定して、話をすることができなくなるんです。正式な医学用語では選択性緘黙症というらしいです」

「特定の場面ってのは?」

「特定の場面ってのは、人それぞれで違うらしいんですけど、僕の場合は、大勢の人が周囲にいる状況で、言葉が出なくなるんです」

「でも、体の能力的には喋れるんですよね? いまも喋ってますもんね」

「そうなんです。だから誤解を受けやすいんです。なんというか、クラリネットみたいなもんですよ。楽器に異常がなくても、素人が吹いたら音が出ないでしょ? なにか、吹き方に問題があるんですよね。それと同じで、僕はまわりに人がいると、声の出し方がわからなくなるんです。場面緘黙症は小さな子供がなることが多い病気らしくて、成長するにつれて症状は消えていくらしいんですけど。つまり僕は、喋ることに関してはいつまでも素人なんです」

「でも、どうして喋れなくなるんですかね?」

「なんだか、緊張しちゃうんですよね。頭の中が真っ白になるというか。どこに意識を向ければいいのかわからなくなって、結局なにも言えなくなるんです」

 ジョージは頬を赤くし、ギターを優しく撫で始めた。

「ひと言も言葉が出ないんですか?」

 ジョージの様子から、彼がこの話について詳しく話したくないと思っているのは明らかだった。しかし、ジョージのことを理解したいという思いが強く、質問を止められなかった。

「子供の頃からですか?」

「ええ、はい。子供の頃から、ひと言も喋れないんです。保育園でも学校でも、友達と仲良くおしゃべりしたりなんてできませんでしたし、国語の授業とかで本読みするでしょう? あれなんか地獄でしたね。クラスの生徒で順々に、一節ずつ音読するんですけど、僕の番になったら必ずつっかえるんです。文章も読めるし、意味も理解できるのに、どうしても音に出して読むことができない。早く読まなきゃって焦るんですけど、まわりのクラスメートがイラついていることも伝わって、先生も呆れているのがわかるから、余計に頭の中が真っ白になって。結局、先生が痺れが切らして、読まなくていいって言って、僕の次の人が代わりに読むんです。屈辱的でしたね」

「先生は、事情を知っていたんですか?」

「ええ、一応両親が説明をしてくれていたらしいんですけど、いまいち理解できていなかったらしくて。気持ちの問題だと思っていたんでしょうね。クラスメートにはイジメられましたし、先生たちにも愛想を尽かされて、ほとんど孤立していました」

 美奈の中で、クラスメートや教師に対する憎しみがこみ上げてきた。

「ジョージさんは病気なのに!」

「身体的なものではないですからね。それで、はじめのうちは僕もなんとか喋れるようになろうと努力していたんですけど、途中で諦めちゃって。どうせ僕はダメな人間なんだって思うようになったんです。人間として欠陥品なんだって。両親に相談しようとも思ったんですけど、心配をかけたくなくて。苦しい日々でした。本当に。中学のときは本気で自殺も考えましたよ」

「イヤだ、自殺なんてしないで」

 自然と飛び出た言葉に、美奈は慌てて言葉を付け足した。

「……しないでください」

 ジョージはバツが悪そうに苦笑いした。

「すみません、なんか重い話になっちゃって。自殺はしなかったので安心してください」

「よかった。ってかいま目の前にいるんだから、当たり前ですよね」

 ジョージが笑う。

「でも、わかりませんよ。僕は実は中学のときに死んでいて、いまここにいるのは幽霊かもしれない。すぅっと、突然消えてしまうかもしれません」

「ゴーストじゃないですか」

「はい……ゴースト?」

「ホラーじゃないですか」

 美奈は可笑しくなった。ジョージがギターを抱える。

「高校に上がったときにね、ある先生と出会ったんです。三十代くらいの体育の先生で、女の先生だったんですけど、大学までずっとバスケをやっていたとかで、男勝りの先生でした。バスケ部の顧問をしていて、言葉遣いも乱暴で、つっけんどんな喋り方をするんですけど、人情に厚い先生で、生徒からの人望もあったんです。で、その先生が、僕の事情を知っていて、いろいろ気にかけてくれていたんですね。でも、僕は普通に会話ができないから、先生に声をかけられても曖昧な笑みを浮かべるだけで、すぐ逃げ出すようにしていました」

 ジョージはギターを開放弦で鳴らした。ジョージが弾くと、ただそれだけで曲を奏でているようだった。

「で、僕、高校一年の終わり頃に、もう耐えられなくなって、両親に高校を辞めたいと言ったんです。埼玉の田舎の高校だったから、同級生は中学時代からほとんど変わっていなくて、相変わらず無視されていましたし、両親の前でニコニコし続けるのもイヤになったんです。高校を辞めたいと言うよりも、人生を辞めたいと思っていたんですね。それで、退学騒動みたいになったんですけど、そのときにその体育の先生が、僕を体育教官室に呼んで、話をしてくれたんです。ほかの体育の先生がいないタイミングを選んでくれたんで、僕も話をすることができました。先生は一切、退学するな、なんて言わずに、僕の顔を見ながら、音楽の話をしてくれたんです。古いロックやブルースを、教官室にあったラジカセで流してくれて。ベン・E・キングの『スタンド・バイ・ミー』、チャック・ベリーの『ジョニー・ビー・グッド』、ジャニス・ジョプリンの『ムーブ・オーバー』、クリームの『クロスロード』『サンシャイン・オブ・ユア・ラヴ』……」

 ジョージは言うと、「スタンド・バイ・ミー」の弾き語りを始めた。

 エレキギターの生音だったが、音が何倍にも増幅されているように美奈の耳には響いた。ギターの技術に比べると、ジョージの歌はお世辞にも上手とは言えなかった。しかし、美奈はその演奏に聴き入っていた。

 一番を歌い終わると、ジョージはギターの弦を手のひらでミュートした。

「自由だなあって感じたんです。なんだか、視界が開けたというか、心がすぅっと軽くなったというか」

 ジョージがワインを飲んだ。ジョージのグラスが空になった。美奈もグラスをあけた。ボトルを取り「飲みますか?」と訊くと、ジョージは「ありがとうございます」と言ってグラスを美奈へ寄せた。美奈は二つのグラスにワインを注いだ。

「結局、それで僕、高校は辞めなかったんです。なんにも問題は解決されていなかったんですよ。緘黙症は治ってませんし、クラスメートは相変わらず無視するし。でも、苦しみが格段に減ったんです。苦しみを楽しめるようになったというか。それまで欠点だと思っていたものが、個性であるように感じられるようになったんです。僕はこういう人間で、こういう形で完成しているんだ、と思えるようになったんですね。あの先生には本当に感謝しかありません」

「いい先生だったんですね」

「……それで、僕、帰宅部で、放課後は時間が余っていたんです。その時間を使って、毎日ギターの練習をするようにしたんです。夜中まで。音楽で生きていこうと決めたんですよ。父親に事情を説明したら、ギターを買ってくれて。フェンダーメキシコのストラトキャスター、四、五万くらいのやつでしたけど、それを指板が凹むくらい弾き明かしてました。おかげでかなり上達しましたよ。高校卒業後は東京に出て、毎晩のようにライブハウスに通って、そこで飛び込みでギター演奏したりして。実際、そんなことはできるもんじゃないんですけど、僕も必死だったんで、図々しく遠慮なしにステージに乱入して。何回か演奏中のバンドマンと喧嘩になってボコボコにされたりしましたけど」

「ロックですね」

「懲りずにそんなことを繰り返しているうちに、まだコールド・ウォーターズを組んでいない頃の隆一と出会って。隆一は僕のギターの技術を買ってくれて、緘黙症についてはそれほど気にしなかった。隆一は当時からバンド活動をやりながらスタジオミュージシャンやってたんですけど、僕に仕事の口を紹介してくれて。そのときから一緒にバンド組んだりするようになって。もう十年くらい前の話です」

 ジョージはギターを構え直すと、ぽろんと優しく音を鳴らした。

「で、スタジオミュージシャンやってお金を貯めて、僕、三年くらい前にアメリカのシカゴに音楽の勉強をするために留学したんです。本場のブルースを経験しようと思って。言葉の壁がありましたけど、もともと僕は緘黙症ですからね。言葉の壁以前の壁があって、日本にいるのとそれほど変わらなかった。むしろ英語のほうが、言葉っていう感覚が薄くて、喋りやすかったですね。それで、語学学校に通いながら現地のライブハウスとか、通いつめて。二年半くらい向こうにいました。で、帰国したら隆一はコールド・ウォーターズを組んでいて、一緒にやろうと誘ってくれて、この間のライブになったというわけです」

「なんだか、すごい人生ですね」

 美奈は映画を観ているような錯覚に陥っていた。ジョージに感情移入し、その人生が自分の人生と交差する瞬間を聞いたときには、なんとも言えない感動があった。

 映画の主人公に多大な影響を与える重要な脇役のように、自分がジョージにとって大きな存在になれればいいと思った。

「あ、すみません。なんだか、語り過ぎですよね、僕。普段喋り慣れていないから、喋れるときに一方的に話しちゃう癖があって。ちょっと引いちゃったんじゃないですか?」

 ジョージが思い出したように言って、目を泳がせた。美奈は力強く首を横に振った。

「いえ、そんなことないです。すごく楽しい話でした……楽しいってのも変ですけど」

「それならよかった……こういう話をすると、女の子は必ず引いていたから」

「そうなんですか?」

「はい……恥ずかしい話なんですけど、僕、きちんと女性とお付き合いをしたことがなくて。そりゃあ、ステージに立ってギターを弾いていれば、何人か僕に興味を持ってくれた方はいました。でも、結局その人たちは、いっときのスリルを味わうために僕に近づいていたんです。なんというか、動物園のライオンみたいなもんだったんです。檻の外から見ている分にはいいんです。物珍しそうに、寄ってたかって見に来るんです。でも、こっちが気を許して檻から出たら、みんな逃げ出すんです。結局、僕みたいな人間は、檻の中に入っている間だけ、人から興味を持ってもらえるタイプの人間なんですよ」

「そんなこと……」

 美奈は『ミスター・ロンリネス』に登場する「ライオンの肛門に顔を突っ込みたがる男」を思い出した。その話の意味が少し分かったような気がした。

「それで、何人かとデートするんですよ。デート中はもちろん、会話なんてできません。だいたいはそこで愛想を尽かされるんですけど、何人かとはホテルに行って。そこは個室だから、話ができるんですよね。それで、つい、気を許して、いま話したようなことを言うんですけど、もう引かれちゃって……それっきりになっちゃう」

「へぇ……」

 ジョージが別の女とホテルに行ったという話が、美奈の嫉妬心をかき立てた。自分以外にこの話を聞いた女性がいるという事実は、美奈にとってどうにも許しがたいものであるようだった。

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