35.二人で留守番

 真之はその夜、マリイと二人でパーティへ行くことになっていた。美奈たちは六時過ぎにモンルージュのアパルトマンに戻った。マリイもすでに帰宅しており、ドレスを物色していた。

 八時過ぎごろ二人は出かけて行った。晩御飯は冷凍庫に冷凍のハンバーガーがあり、ワインやウイスキーも自由に飲んでいいとのことだった。

 美奈は玄関先で二人を見送ってから、ウイスキーでも飲もうと考えながらリビングに顔を向けた。

 ジョージがソファに座って、美奈を見ていた。

 ジョージと二人きりで留守番をする。

 美奈は自分の置かれた状況に、妙なプレッシャーを感じた。

 もともと社交的な性格の美奈にとって、ジョージと一緒にいるのは苦ではない。

 しかし、ジョージは無口だ。いくら話しかけても返事をしない人と二人きりでいるのは、間がもたない云々以前の問題である。

 鼓動が早くなり、頭の中が真っ白になった。なにを話せばいいのか、わからなかった。部屋の中がやけに静かに感じられる。自分が声を出さなければ、この沈黙は破られない。

「ウイスキー、飲みますか?」

 美奈はなんとか言葉を絞り出し、キッチンへ歩いた。返事はないのだから、質問に対してイエスなのかノーなのかは、ジョージの顔を見ないとわからない。しかし、なんとなく恥ずかしくて、ジョージの顔を振り返ることができなかった。

「僕はワインがいいです」

 リビングから声がした。最初、だれの声かわからなかった。

 美奈は振り返った。ジョージがギターのハードケースの留め金を外しながら、美奈の顔を見ている。

「ワインが欲しいです」

「え?」

「あ、もう、ワインはない感じですか? だったらウイスキーでも大丈夫です」

「いや、えっと、ワインもあると思いますけど……」

「あ、じゃあ、白で」

「はぁい……」

 あまりにも自然だった。自然すぎて、不自然だった。

 美奈はウイスキーを棚に戻し、冷蔵庫から白ワインを取り出した。食器棚からワイングラスを二つ持ってリビングに戻ると、ジョージがギターを抱え、チューニングをしていた。

「どうぞ」

 白ワインのボトルとワイングラスをローテーブルに置いて、布張りのストゥールに腰掛けた。ジョージはギターの弦に向けていた視線をテーブルの上の白ワインに移した。

「あ、ありがとうございます」

「いえ……あ、注ぎますね」

 美奈はボトルの栓を抜き、グラスに白ワインを注いだ。

 ポーンポーンと鳴るギターの音と、グラスに注がれるワインのトポトポという音とが混ざり合う。美奈はボトルにコルクを再びはめて、グラスをひとつジョージの前に置いた。

 ジョージはチューニングが終わったのか、コードを押さえて和音を響かせていた。

「ありがとうございます。じゃあ、乾杯しますか」

 ジョージがギター越しに長い腕を伸ばしてグラスを手に取った。美奈もグラスを持って、二人は小さく乾杯した。

 ひと口だけ飲み、ジョージの顔を見た。

 なにを言うべきか迷った。突然喋り始めたことについて訊ねてもいいだろうか。ジョージはひょうひょうとしており、特別な感情を抱いている様子がない。

 美奈は悩んだあげく、ジョージのギターについて話を振ることにした。

「そのギター、カジノに似てますね」

 ジョージはグラスをテーブルに置きながら、片眉を上げた。

「これですか? たしかに形状は似ていますね。これはギブソンの335です。そのチェリー」

「へぇ……」

「清水さん、ギターお詳しいんですか?」

「え? いえ、妹がギターを持ってて、それがカジノだったので」

「カジノ持ってるんですか?」

「そうです。その、ベージュっぽいやつ」

「ジョン・レノンの?」

「そうですそうです。二十万くらいするやつです」

 ジョージはギターをソファの上に置いて、腕を組んだ。

「良いギター持ってますね」

「まぁ、私が借りて弾くだけで、妹は弾いてないんですけど……」

 やはり気になる。気になって話が頭に入ってこない。どうして急に喋り始めたのだろう。

「あの、ジョージさん」

 美奈は思いきって訊ねることにした。

「ジョージさん、急に喋るようになりましたね」

 できるだけ軽い感じになるように言った。ジョージはまばたきを繰り返して、ワインをひと口飲んだ。

「パリにいる間中、ずっと喋らなかったのに」

 ジョージが恥ずかしそうに口元を歪めた。痛いところを突かれた、というような表情で、目を閉じる。美奈は気まずくなり、誤魔化すようにワイングラスを口に運んだ。

「……やっぱり、おかしいですか?」

 ジョージが訊ねた。美奈がワインを飲み込んで返事をするよりも早く、再びジョージが口を開く。

「……そりゃ、おかしいですよね」

「いえ、おかしいというか、ちょっとびっくりしただけですよ」

 美奈は慌てて否定した。ジョージは両肘を両膝につき、前屈みになって額に手を当てた。

 ジョージはその姿勢のままなにも言わなかった。指で額を叩くトントンという小さな音が鳴っている。

 せっかく喋り始めるようになったのだから、そっとしておいて会話を楽しめばよかったのだ。巣から顔を出した野生のリスを驚かせ、再びその姿を見失ってしまった少女のように、美奈は後悔した。

「ゆうたんから、なにも聞いてませんか?」

 ジョージが不安そうに目を細めて美奈を見た。

「いえ、なにも聞いてないんです」

 美奈が答えると、ジョージは安心したともがっかりしたとも取れる表情を浮かべ、視線をギターに落として鼻で大きく息を吐いた。

「そりゃ、そうだよな……」

 小さく呟くと、目を閉じて、下唇を噛んだ。

「あの、清水さん」

 しばらしくして、小さな声で言った。

「誤解されるのは嫌なので、伝えておきます」

 美奈は姿勢を正し、腿の上に手を載せた。ジョージは視線を落とし気味にして、大きく息を吐いた。

「僕は、その、なんというか……発達障害なんです」

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