34.ミロのヴィーナス
翌朝、美奈は五時に目覚めてそれっきり眠れなかった。外は暗く、リビングもまだ明かりがついていない。
美奈はスマホをいじることで時間を潰した。
昨日撮った写真を奈央に送ったり、しばらく連絡を取っていなかった久美子にメッセージを送ったりした。久美子にはジョージとのツーショット写真を貼付した。
二人から返信はなかった。日本は火曜日の昼間だから、二人とも仕事中なのだ。
自分たちがいないから、久美子は休日返上で働いているのだ。申し訳ない気持ちになり、帰国後にサクサフォンに復帰することと、退職騒動に関する謝罪のメッセージも追加で送信した。
六時半頃にリビングの電気がついて、話し声が聞こえてきた。
美奈はスマホを置き、リビングに出た。
真之とジョージがダイニングに座り、マリイはカットされたフランスパンをかじりながら忙しげに歩き回っていた。
マリイは今日も八時前に家を出るらしく、これからシャワーを浴びるのだという。美奈は真之が淹れたコーヒーを飲みながらそれを待ち、マリイを見送ってからシャワーを浴びた。
優子と隆一はパリに住んでいる友人に会うとかで、一日中別行動することになっている。美奈たちはルーヴル美術館に行くことになっていた。
十時過ぎにアパルトマンを出発して、メトロを乗り継ぎルーヴル美術館に向かった。
ガラス張りのピラミッドと、かつては宮殿だったという厳かな建物が美奈の目に飛び込んできた。ルーヴル美術館は建物そのものも美術品のようだった。
観光客の数が多く、チケットを買うにはまた長蛇の列に並ばなくてはいけなかった。二、三十分ほど待たされて、ようやくチケットを購入できた。
「芸術との出会いってのは、恋愛と同じだよ。突然魅力に取り憑かれる。そして、人が良いと言っているからって、すべての人にとって良いものとは限らない。自分にとっての特別を見つけるといいよ」
真之は言って、可能な限りいろいろな作品を紹介してくれた。
ダヴィッドの「ナポレオン一世の戴冠式」は、美奈も歴史の教科書で見たことがあり、なおかつ巨大な作品だったので、強く印象に残った。しかし恋愛と言えるほどのものではなく、心が濡れるような感動はなかった。「モナリザ」も「サモトラケのニケ」も同じで、大勢の人が我先にと殺到しているわりに、美奈の心はカラカラに乾いていた。
自分にはいわゆる「芸術を見る目」というものがないのかもしれないと思った。
考えてみれば、私はこれまでの人生で恋をしたことがない、美奈は思った。常に自分のことばかりで、自分以外のなにかに心を焦がしたことがない。結局そんな人間に、芸術がわかるはずないのだ。
階段を上り、人混みをかき分け歩いて行くと、人だかりの先に、白肌の女性の彫刻が見えた。「ミロのヴィーナス」だった。
滑らかな肌に、ふくよかな胸、憂いと力強さを併せ持った端正な顔。両腕を失っているはずなのに、それは理想的な美として人々の注目を集めていた。
両腕を欠きながら二千年以上、美の象徴であり続ける「ミロのヴィーナス」に、美奈は釘付けになった。
自然と涙がこみ上げてきた。いつまでも見ていたいと思った。家に持って帰りたかった。自分だけのものにして、いつまでも手放したくなかった。
「ミロのヴィーナス、気に入ったの?」
いつまでも立ち尽くしている美奈に、真之が声をかけた。美奈は頷いた。
「清水さんにとっての特別を見つけられたんだね。よかった」
「家に持って帰りたいと思うくらい、好きです」
「持って帰りたい気持ちもわかるよ。でも、ミロのヴィーナスを持って帰るとなると大変だよ、税関を通過できるかなあ」
後ろ髪を引かれる思いで、美奈は「ミロのヴィーナス」を後にした。
それから真之の一押しだと言うフェルメールを見に行った。しかし、あるはずの場所にフェルメールの作品はなかった。学芸員に事情を訊くと、ルーヴル美術館のコレクションであるフェルメール作品二点は現在、海外の美術館に出張展示されているとのことだった。
真之はひどくショックを受けた。
「なんだか、デートの約束をすっぽかされたような気分だよ」
「大丈夫ですよ。ただ、忙しいだけですよ」
美奈は笑いそうになるのをこらえて、うな垂れている真之を励ました。ジョージはそれを見て可笑しそうに笑っていた。
三時間ほど美術館を歩き回った。
時刻が三時近くなり、腹の空いた美奈たちは、隣接する「カルーゼルデュルーヴル」というショッピングモールへ行き、そこにあるフードコートで遅い昼食を取った。
その後、モンマルトルに向かった。小高い丘の上までケーブルカーで上り、丘の上に建つドーム型のサクレクール聖堂からパリの景色を眺めた。
映画『ミスター・ロンリネス』で、「男の家を渡り歩く女」がスクーターでトラックにはねられるシーンを撮影した場所が近くにあるというので見に行った。
なんの変哲もない交差点で、さほど感動的ではなかった。それよりも、ムーランルージュの赤い風車のほうが印象的だった。
その付近に軒を並べている大人のおもちゃ屋さんに堂々と入っていくカップルや夫婦の存在に、美奈はびっくりした。中にはゲイやレズビアンのカップルもいるようで、外から覗くと、皆、楽しそうに大人のグッズを物色していた。
驚いている美奈を見て、真之は「愛を育むための手段だからね。オープンなんだよ」と笑い、
「ようこそ、愛の都パリへ」
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