33.パリ散策
その後、いったんアパルトマンに戻ってから、十時過ぎに、エッフェル塔を見に行くために再び出かけた。
メトロに乗り、途中で乗り換えて、エッフェル塔付近の駅で降りて外へ出る。
テレビや写真などで何度も見たことがあるエッフェル塔が目に飛び込んできた。
周囲に背の高い建物はなく、エッフェル塔の存在はかなり際立っていた。
美奈たちはシャンドマルス公園へ行き、エッフェル塔をバックに記念撮影をした。観光客が大勢いて、皆スマホを出してそれぞれ好きな角度で写真を撮っている。
シャンドマルス公園は長方形をした広い公園で、その名前は戦争の神であるマルスから取られている。
「シャンドマルスは『マルスの野原』って意味があるんだよ。かつてこの場所は練兵場、閲兵場として使われていたんだ」
緑が多く、ベンチがあり、青空とエッフェル塔が見える居心地のいい公園だった。
「ベンチに座ってぼんやりしているだけで、自分がなにか特別なことをしているような気分になれるよ」
真之の説明に、美奈はベンチに腰掛け黄昏れている自分の姿を想像した。
真之がエッフェル塔を上ろうと言うので、美奈たちはエッフェル塔まで歩いた。
エッフェル塔を上るには荷物チェックを受けなくてはならなかった。すでに長蛇の列ができていたが、ここで帰るのはもったいない。美奈は率先して列に加わった。
列がゆっくり進んでいる間、真之がエッフェル塔について解説をした。真之は博識で、いろいろなことを知っている。美奈が感心して見せると、真之は肩をすくめた。
「知っていることを喋り続ければ、だれだって物知りになれるよ」
真之は冗談っぽく言うと、「実はね」と片眉を上げた。
「マリイと初めてデートしたときに、エッフェル塔に上ったんだよ」
「初デートがエッフェル塔って素敵ですね」
「うん。観光客にとってはね。でも、パリに住んでる人はエッフェル塔なんて上らないんだよね。デートでエッフェル塔に上ることもないらしい」
「そうなんですか?」
「うん、少なくとも俺の知る限りでは」
「日本人はデートでスカイツリー上りますけどね」
美奈は言いながら、ふと太一との一件を思い出して息が詰まりそうになった。
真之が目を大きくして「そう!」と叫んだ。
「当時の俺は、まだ日本人気分が抜けてなかったんだよ。日本人的な考え方と言うかね。だから、スカイツリーデートみたいな気分でエッフェル塔に誘ったんだ。マリイはね、当時、かなりのプレイガールでね。いろんなパリジャンからデートの誘いを受けるような女の子だったんだよ」
「美人ですもんね」
「そう。そんなデート経験豊富なマリイが『デートでエッフェル塔に上るなんて、生まれて初めて』って笑いながら言ったんだよ。それを言われて、あ、エッフェル塔は定番のデートコースじゃないんだって気づいて慌てたんだ。でも、後から聞いたら、初デートがエッフェル塔だったから、俺に興味を持つようになってくれたんだって」
「どうしてですか?」
「うん。彼女、それまでパリジャンとしかデートしてなくて、毎回似たようなデートばっかりだったらしいんだよね。でも俺とデートして、異なった考え方や文化を持つ人間がいることに気づかされたんだって。パリジェンヌの彼女にとって、初デートでエッフェル塔に上るのは、異文化体験だったんだよ。そしてその異文化を味わわせてあげたのが、極東の島国からやってきた日本人の俺だったってわけだね。おもしろいもんだよね。パリの象徴になっているエッフェル塔に上ることで、パリの外に対する興味が強まったって言うんだから」
列は順調に進んでいた。真之は列の先頭にちらりと目をやって、腕を組んだ。自分たちの番が回ってくるまでは、もう少しかかりそうだった。
「それからマリイ、日本の文化や言葉を勉強し始めたんだ。まあ、俺が教えてあげたんだけど。それでね、またおもしろいのが、日本文化という異国の文化を知るにつれて、パリやフランスに対する興味が強くなったんだって。俺という外国人と付き合うようになって、日本という国を知れば知るほど、自分がフランス人であるという自覚が強くなったんだ。自意識ってのは、わからないもんだよね」
真之の話を聞きながら、美奈はなにか腑に落ちたような気がした。
「『自分以外の人探し』が大切なんですね」
試しにそう言ってみると、真之は「はは」と笑って、
「清水さん、なかなかいい表現をするね。そのとおりだね。自分を知るには、自分以外の人を探さないといけないね」
美奈は嬉しくなり、ちらりとジョージの顔を見た。ジョージもどこか嬉しげに、にこやかな微笑を目元にたたえていた。
小屋に入り、バッグの中やポケットの中身をチェックされた。おとがめを受けることなく、三人はすぐに通して貰えた。
入場券を買い、今度はエレベーターに乗るための列に加わった。どこもかしこもひどい人だかりだった。階段を使うこともできたが、最上階までは行けないし、どうやら高所恐怖症であるらしいジョージが尻込みしているので選択肢にはならなかった。
エレベーターを乗り継ぎ、美奈たちは最上階へ辿り着いた。
最上階の展望台からは、パリの街が一望できる。
眼下にシャンドマルス公園が見える。先ほどまで自分たちのいたベンチが、小さな毛虫ほどのサイズにしか見えなかった。セーヌ川、ルーヴル美術館、凱旋門、ナポレオンの墓だというドーム型の教会アンヴァリッドなど、真之がいちいち指さして説明してくれた。
青い空とパリの街。目の前に広がる開放的な空間が、まるで完結したひとつの世界のようだった。
展望台に壁はなく、柵と落下防止の網があるだけだった。冷たい風が吹き抜け、まるで空中に浮いているような気分になる。
ジョージは内側の壁に張り付いたまま、柵のほうへ来ようとしなかった。美奈はジョージの顔を覗き込んだ。
「景色、すごくキレイですよ」
ジョージは美奈の顔を目だけで見下ろし、眉間に深い皺を寄せた。なんとか口元に笑みを浮かべようとしているのは分かるが、恐怖に震えているのか小刻みに痙攣しているだけだった。美奈は可笑しくて、顔をぐいっと近づけてみた。ジョージの青ざめた頬が、少し赤らんだように見えた。途端に美奈も恥ずかしくなって姿勢を直した。
「ジョージくんなにやってんの。パリの景色、見とかないと。やっとここまで来たのに」
真之が柵に背中をもたれて手招きする。
「清水さん、ジョージくんはね、もう三回くらいパリに来てるのに、エッフェル塔上るの初めてなんだよ。いっつも、行こうって誘うんだけど、絶対来なかった。でも、今回、ようやく着いてきた。なのにこのザマだ」
真之は、頑なにその場を離れようとしないジョージに近寄り、柵を指さして言った。
「モーパッサン曰く。『エッフェル塔から眺めるパリが最も美しい。なぜなら、エッフェル塔が見えないからだ』」
どこかで聞いたことがある言い回しだと美奈は思ったが、なんだったかは思い出せなかった。
美奈は真之と一緒になりジョージを引っ張った。やっとのことで柵のそばに立たせると、真之が「記念写真を撮ってあげる」と言い出した。
「あ、じゃあ、私のスマホでも撮ってください」
真之にスマホを渡し、ジョージとのツーショットを撮ってもらった。ジョージの顔には生気がなかった。「ゴーストだ」と思って、美奈は写真を見ながら心の中で微笑した。
その後、三人はエッフェル塔を降りて、セーヌ川沿いにコンコルド広場へ向かった。
コンコルド橋を渡ると、先端の尖った四角い柱のようなものが見えた。
「エジプトのルクソール神殿から送られたオベリスクで、側面にはラムセス二世に関するヒエログリフが書かれているんだよ」
例のごとく真之が説明するが、美奈にはなんのことかはほとんどわからなかった。
「ほら、コンコルド広場だよ。ルイ十六世やマリーアントワネットが処刑された場所」
真之に言われ、美奈はドキリとした。
自分の首元に手をやって、首がもげても死ななかった奇跡に感謝した。
「マリーアントワネットやルイ十六世も確かに、この場所にいたんだ」
真之が言いながら辺りを見回した。美奈とジョージもそれに倣った。
「そして、この景色を見ながら、死んだ」
「この場所で……」
「うん。なんだか、不思議な感じがしない? かつてたくさんの人々の首が斬られた場所に、我々は立っている。なぜなら、観光地だから」
「人がたくさん殺された場所なのにね……」
「日本なら心霊スポットになってるよ」
そう言われるとなんだか気味が悪くなった。中にはこの世に大きな未練を残し処刑された人もいただろう。美奈は背筋に寒いものを感じて、ついきょろきょろ周囲を見た。と、ジョージと目が合った。「ゴーストだ」とまた心の中で笑った。
ここでも記念写真を撮った。そばを歩いていた中年の男性に真之のスマホを渡し、シャッターを切ってもらった。シャッターが切られるのを並んで待っているとき、真之が「もしかしたら、マリーアントワネットの亡霊が写り込んでくれるかもしれないよ」と言っていたが、もちろん、撮られた写真に不自然な部分はなかった。
三人は凱旋門に向かってシャンゼリゼ通りを歩いた。
世界一有名な道を歩いていると思うと、ただそれだけで気分が高揚し、美奈は思わず「オーシャンゼリゼ」と低い声で口ずさんだ。
「その歌の、『オー』はね、感嘆詞の『Oh』じゃないんだよ」
「そうなんですか?」
「うん。フランス語の前置詞に、『aux』ってのがあるんだけど、その発音が『オー』なんだ。意味は『〜で』みたいな感じ。つまり『オーシャンゼリゼ』ってのは、『シャンゼリゼ通りで』って意味になる」
「そうなんですね! 『シャンゼリゼ最高だぜ』みたいな意味だと思ってました!」
凱旋門までたどり着き、記念撮影をしてから、カフェでコーヒーを飲んでいる内に夕方になった。
六時に優子たちと落ち合う予定になっていた。
約束の場所へ向かう途中、時差ボケの影響か、強烈な睡魔が美奈を襲った。うっかりすると眠りそうになるのをこらえながら地下鉄に揺られた。
優子たちと合流し、一同は「ブイヨン・シャルティエ」という赤いネオンの看板が出ている古風な食堂に入った。
一八九六年創業のレストランで、もとは労働者のために開かれた大衆食堂だった。外食が高くなりがちなパリで、リーズナブルな値段で普通の食事をとれる数少ない店である。
いまでは客のほとんどが観光客になってしまっているが、かつての名残として、一ユーロで飲めるスープがそのままその店の名物になっている。店内は広く天井が高い。内装も古めかしく、タイムスリップしたみたいな気分が味わえる。
人であふれかえった店内の片隅のテーブルに案内され、銘々好きなものを注文した。ウェイターはペンを取り出すと、テーブルクロスに受けた注文をメモした。
「テーブルに書かれているメモを確認してから料理を置くんだよ」
「斬新ですね」
「これがこの店のしきたりらしいんだよ、よくわかんないけどね」
美奈は「シュークルート」という料理を選んだ。ワンプレートにザワークラウトとソーセージ、ベーコン、ポテトなどが盛りつけられた郷土料理だった。シュークルートの「シュー」はフランス語でキャベツを意味し、「クルート」はドイツ語でキャベツを意味する。つまり、日本語に訳すと「キャベツキャベツ」となる。
美奈は吹き出した。
「変な名前ですね。若手の漫才コンビみたい」
「フランス語とドイツ語が混ざっている理由はね、その昔……」
真之が説明を始めたが、アルザス地方の歴史がどうとか、普仏戦争がどうとか、内容が難しかったのと、時差ボケで睡魔がひどかったのとで、美奈にはほとんど理解できなかった。ただ覚えているのはシュークルートが美味しかったということだけだった。
半分寝ながら食事を済ませた後、美奈は優子と隆一に別れを告げタクシーでアパルトマンまで戻った。ふらふらになりながら部屋まで行き、シャワーも浴びずにベッドにダイブし、そのまま眠ってしまった。
かなり疲れたが、とても楽しい一日だった。
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