32.真之の部屋
真之は都内の有名私立大学で西洋史、特にフランス革命時代の歴史を研究していた。隆一とは大学の軽音楽部の仲間だった。
卒業後、ソルボンヌ大学の大学院に進学し、歴史学の修士号を取得した。フランス留学中に知り合ったパリジェンヌのマリイと大学院生の頃に結婚し、いまはモンルージュというパリ近郊の町にアパルトマンを借りて二人で住んでいる。
マリイはパリの小さなカフェで店長をしている。赤毛で目が大きく、背の高い女性で、そばかすが少し目立つが、まばたきするたびに風が起きそうなほど長く生えそろったまつ毛が特徴的な美人だった。真之の一目惚れで交際を始め、半年後にシャンゼリゼ通りを散歩しながらプロポーズしてゴールインした。
真之は大学院を卒業後、日本の歴史雑誌や、フランスの機関誌に寄稿したり、フランス革命に関する新書を日本で何冊か出版したりするなど、執筆活動をしながら生計を立てている。
美奈たちはタクシーでモンルージュに着くと、真之とマリイが住むアパルトマンで十時頃までワインを飲んだり、一キロ二千円程度で買えるという生ハムを食べたりして時間を過ごした。
マリイは日本語を少しだけ話せて、わからないところは真之が通訳したり、英語で話したりした。美奈は日本語専門だったので、真之の通訳に頼りきりだった。
二人のアパルトマンには、玄関を入ってすぐ目の前にトイレと一緒になった湯船のないシャワールームがあり、右手にキッチンが併設された八帖ほどのリビングダイニングが広がっている。
美奈とジョージは滞在中、二人のアパルトマンに居候することになっていた。
ベッドルームは二つあり、ひとつにはクイーンサイズのベッドと、いろいろな史料が散乱している机が置いてあった。真之とマリイの寝室である。
もう一方の部屋にはセミダブルベッドとサイドテーブルと本棚が置かれていた。普段は真之の書斎になっている部屋らしく、今回のために仕事机を自分たちのベッドルームに移動したとのこと。
美奈が客室で寝て、ジョージがリビングのソファに寝ることになった。
優子と隆一は、シャンゼリゼ通り付近にホテルを予約しており、十時過ぎにアパルトマンを出た。
翌日、優子はパリのマレ地区にあるアパレルショップに商品の仕入れについての交渉に行くことになっており、一日中別行動になる。隆一も付き添うとかで、二人とは明日の夕食まで会わない。
時差ボケにならないよう、シャワーを浴びたり、真之たちとお喋りしたりして夜中の十二時まで寝ずに過ごし、体の全機能が停止しそうになる頃に、美奈はベッドに潜り込んだ。
ベッドの脇に大きな窓があった。紫色のカーテンがされてはいるものの、ひんやりと冷たい空気が降ってくる。美奈は薄手の掛け布団をてるてる坊主のように体に纏わせた。
眠りに落ちそうになった頃、隣の部屋からギシギシと規則的になにかが軋む音が聞こえてきた。その合間合間に、甲高いマリイの叫び声に似た喘ぎ声。
「嘘でしょ……?」
美奈は夢見心地で苦笑しながら、大きな枕で両耳を覆うようにして意識を失った。
目が覚めても、窓の外は暗かった。
もうひと眠りしようと思い目を閉じるが、目が冴えて眠れなかった。
スマホを手に取り画面を見てびっくりした。時刻が八時と出ている。まさか二十時間も寝ていたかと慌てて、もう一度窓の外を見た。やはり夜のように暗い。
呆然としていると、部屋の外からだれかの話し声が聞こえてきた。
美奈は髪の毛を整え、ゆっくりドアを開けた。
リビングは電気がついていて明るかった。髪の毛をボサボサにしたジョージが寝ぼけ眼でソファに座ったまま美奈を見た。会釈したので美奈も会釈を返した。するとバスルームから、パジャマ姿で歯磨きをしている真之が出てきた。
「今日は、エッフェル塔に行くよ……あ、清水さん、おはよう」
「おはよう……?」
美奈は嫌味を言われているのだと思った。
「よく眠れた?」
「え? まあ、なんというか、はい」
「夜、うるさくなかった? ごめんね。愛がほとばしってしまったんだ」
「あ、夜……愛ですか。かなりバッチリ聞こえてきて、気まずかったです」
美奈は半笑いで言いながらジョージを見た。ジョージもマリイの叫び声を聞いていたのか、なんとも言えない微妙な笑みを口元に浮かべていた。
真之が笑いだした。
「はっはっは、ようこそ、愛の都パリへ」
「それにしても、ごめんなさい。時差ボケのせいなんですかね、私、とんでもなく寝過ごしてしまって」
「なんのこと?」
「いや、夜になってるし……」
真之はちらりと部屋の掛け時計に目をやって、それから窓に視線を向けた。
「時差ボケってバカにできないですね……」
「朝だよ」
「え? でも、こんなに暗いし……」
「うん。夜みたいに暗いけどね、朝なんだ。冬のパリは日照時間が短いからね」
「これ、朝なんですか?」
「うん。三月の終わりにサマータイムに変わるけど、その頃になると太陽ももっと早い時間から昇ってくるよ。ようこそ、太陽ものんびりしている花の都パリへ。まあ、厳密に言えばここの住所はパリ市内ではないんだけど」
美奈は寝過ごしたわけではないことを知り安心した。
八時半を過ぎた頃に日が昇り、青白い朝の光が窓から差し込んできた。
ふとマリイがいないことに気がついて、彼女がどこにいるのか訊ねると、すでに仕事へ出かけたとのことだった。「マリイは太陽より働き者なんだ」と真之はマリイを讃えた。
近所のパン屋へ朝食を買いに出かけることになった。美奈はジーンズを履き、お気に入りの黒い薄手のセーターに着替えた。軽く化粧をし、ベージュのトレンチコートを着て表へ出た。
少し雲はあったが、快晴と言って差し支えない天候だった。気温は十度を少し超えている。
パン屋は歩いて五、六分のところにあった。ショウウインドウのカウンターがあるだけの狭い店内には、パンの芳しい香りが充満していた。
ショウウインドウにはいろいろなパンが並んでいる。端のレジには若い白人女性店員が立っており、注文をしている中年男性と笑顔で会話をしていた。
注文は全部真之がしてくれた。真之も女の店員となにやら笑いながらお喋りしていた。
美奈は真之がおすすめしてくれたチョコチップの入ったクロワッサンをひとつ買った。ジョージは味がついていないプレーンのフランスパンを買った。
「クロワッサンを食べながら歩くパリの朝は格別だよ。厳密にはここはパリ市内ではないんだけど」
真之に勧められ、美奈は紙袋に入っていたクロワッサンを出して、歩きながら食べた。
少し冷たい風に頬を吹かれながらかじるクロワッサンの味は、感動的に美味しかった。自分が映画の登場人物になったように感じられ、美奈の歩調は自然と軽やかなものになった。
「ジョージさんも、クロワッサンにすればよかったのに」
硬そうなフランスパンに必死の形相でかじりついているジョージに、美奈は思い切って声をかけてみた。
ジョージはひと言も言葉を発することなく、パン粉のついた口元をただ歪めるだけだった。
それから三人は真之が足繁く通うというカフェでエスプレッソを飲んだ。
店内には出勤前なのか、それとも仕事をしていないのか、のんびりとお喋りしながらコーヒーを飲んでいる客が大勢いた。東京の朝のような慌ただしさがなく、美奈はそのゆっくりとした時間の流れ方に強い憧れを抱いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます