31.パリ!
飛行機は定刻に出発した。
美奈はジョージと隣り同士だった。ジョージは終始顔を青くして、額に汗をかいていた。隆一曰く、ジョージは飛行機に乗るたびにこうなるらしい。美奈は可笑しくて、たまにジョージの横顔を窺って心の中で笑っていた。
映画を観たり、ビールを飲んだり、何時間か居眠りしたりしている内に、予定通り、夜の八時にシャルルドゴール国際空港に到着した。
シャルルドゴール国際空港の税関は閉鎖していた。美奈たちは入国審査だけを済ませ、フランスに入国した。時刻が夜七時を回っていたので、税関職員は帰宅したのかもしれないと、隆一と優子が笑っていた。
到着ゲートに行くと、レザーのテーラードジャケットに黒いハットをかぶった長身の男が美奈たちを出迎えた。
隆一の学生時代の友人で、今回のパリ旅行で美奈たちの世話をする野崎真之という男だった。
真之は隆一と握手すると、次にジョージとも「久しぶり」と言いながら握手した。優子とは初対面のようで、ハットを胸に当て、軽く頭を下げた。美奈にも同じようにする。
「どうも、パリで文筆活動をしています、野崎真之です。よろしく」
真之の声は低く、切れ長の目とパーマのかかった長髪から、マフィアのような危険な雰囲気が漂っていた。が、話してみると気さくで、むしろ冗談をよく言うタイプの人間だった。
「まあ、こんなところで立ち話もなんだからさ」
真之は思い出したように言うと、おもむろにその場に座り込んであぐらをかいた。
「座って話そうよ」
「いいから、さっさと行くぞ」
隆一が笑いながら真之の頭をはたく。
真之は立ち上がり、美奈のキャリーバッグを指さした。
「清水さん、そのバッグ重いでしょ? 僕が持ってあげるよ」
「あ、すみません……」
真之は「よいしょ」とキャリーバッグを抱えあげた。
「じゃあ、行こうか」
「なにやってんだ」
隆一が呆れたように言う。
「ウェルカムジョークのつもり」
「疲れてんだから、さっさと行くぞ」
真之はキャリーバッグをゆっくり床に下ろした。
「マドモワゼル、芸術の都、パリへようこそ」
低い声で言い、颯爽と歩き始めた。
五人はバスに乗り、シャルルドゴール国際空港をあとにした。
外はもう暗かった。
はじめのうち、バスは空港の敷地内をぐるぐると回っていた。少しすると空港を出て、すぐに高速道路に入った。
三十分ほど高速道路を走ると、バスはパリ市内に入った。
石造りの背の低い建物が建ち並び、それが暖色の灯りでライトアップされている。東京の街のようなネオンのケバケバしさはない。それは自然の造形物を思わせた。ツバメが軒先に作った巣のように、パリは人間という動物がその歴史の中で作り上げた「自然の街」のようだった。
「清水さん、パリは初めて?」
窓の外を見ている美奈に真之が声をかけた。美奈は、いまでは当然のように動かせる首だけで振り返り、大きく頷いた。
「初めてです」
「じゃあ、今回が、初体験、だね」
真之はハットを取り、窓の外を覗き込んだ。
「キレイでしょ、パリ」
「はい」
「東京ほどクリーンじゃないけどね、ビューティフルなんだ」
「そうなんですね」
「きっと、パリ体験は、今後、一生清水さんにつきまとうよ」
「つきまとうってどういう意味ですか?」
美奈は真之の言葉の選び方を可笑しく思った。真之は目を細めて美奈を見た。
「パリは移動祝祭日だから」
意味はよくわからなかったが、車窓から見えるパリの景色は、すでに美奈の心に根付こうとしていた。
それから二十分ほど走り、バスがモンパルナスという町のバス停に着いた。
美奈はバスを降り、冷たいパリの空気を吸った。
パリの風は硬く、尖っていた。空が低く見え、その下をゆったりと人々が歩いている。どこへ向かっているのか、どこからやって来たのか、これからなにをするのか、いままでなにをしていたのか、美奈には見当がつかない。彼らがすこぶる自由であるように感じられた。
近くには、場違いに背の高いビルが一棟建っていた。それ以外の建物は背が低い。
真之が近くに停まっていたライトバンに駆け寄る。車の前に立っている黒人の男に「ムシュー」と声をかける。
黒人の男は気だるそうに反応すると、真之の話に頷きトランクを開けた。美奈たちを見て親指を立てる。フランス語でなにやら言ったが、美奈には意味がよくわからなかった。
真之が「これ、タクシーだから、荷物載っけて」と美奈たちを促した。
荷物をトランクに載せながら、美奈は不思議な感覚にとらわれた。それはパリという街が持つ独特の空気感によるものだった。
私はパリに来たのではなく、パリに入ったのだ。
美奈はそう思った。
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