29.首がつながった!……けど

 手術は三時間半ほどで終わった。

 意識が戻ると、美奈は首にギプスを巻かれた状態で病室にいた。

 ベッド脇に両親と奈央がいる。三人とも、笑みを浮かべて美奈を見ていた。

 それからすぐ田島が病室に入ってきた。意識がまだ朦朧としていた美奈は、半分眠った状態で話を聞いた。

 手術は成功だった。首はしっかり接合され、万能神経も運動神経とつながった。あとはすべてが馴染むまで安静にしていればいいとかで、三週間もすれば、首はまったくの元どおり、手術痕も残らず、以前のようにまた動かせるようになるとのことだった。

 美奈は寝ぼけ眼で田島の話を聞きながら、固定されて動かせない首を、自由自在にぐるぐる回している自分を夢想していた。


 夜中に目が覚めた。辺りは暗く、ひとり部屋の病室は死んだように静かだった。

 美奈は静けさが恐ろしくなり、誤魔化すようにして笑い声を上げた。つもりだった。

 妙だった。いくら口を開いても、自分の笑い声が聞こえてこなかった。

 気を取り直し、今度は「おーい」と声を上げようとした。結果は同じだった。お腹に力を入れて、腹式呼吸で声を出した。

「おーい!」

 低く、しわがれた声が、バネで弾かれたボールのようにボヨンと飛び出した。

 自分の声にびっくりして、美奈は思わず口を閉じた。もう一度ゆっくり、お腹の底から声を出した。低く太い声が病室に響いた。

 それは明らかに自分の声ではなかった。美奈はもう一度、問いかけるようにして声を出した。

「嘘でしょ?」

 嘘ではなかった。美奈の声は小鳥のさえずりのような繊細さを失い、ゴリラのうなり声のような……それは言い過ぎだとしても、ひどく骨太いものになっていた。

 一過性のものだと思った。きっと麻酔の影響かなにかだと言い聞かせた。ひと晩眠って目が覚めれば、元どおりの声になっていると信じた。

 目が覚めても声はゴリラっぽいままだった。むしろ悪くなっているようで、翌朝になると、ウイスキーでうがいをした風邪ひきゴリラの断末魔のようになっていた。

 昼前に母親が見舞いに来た。「おはよう」と言ったので、美奈も「おはよう」と返した。母親が目を丸くして「あら?」と変な声を出した。

「いまの声、美奈ちゃん?」

「そうだよ」

「どうしたの? 風邪でもひいたの?」

 母親が心配そうに美奈の額に手を当てた。熱はなかったらしい。

 田島も美奈の声に驚いた。いろいろとチェックしたが、美奈の体に異常はなかった。

 原因は不明だった。接合面が馴染むまでは、なにかしらが声帯に影響を与えて声が出にくくなっているかもしれない、との結論だった。

 しかし、二週間ほどして、首が完全につながった後になっても、声は元どおりにならなかった。

「まったく声が出ないわけではないから、大した問題じゃないよ」

 両親は励ますように言った。


 それから一週間後に美奈は退院した。

 声以外に異常はなく、術後の経過も良好で、特に入院している必要はないとのことだった。ただ、田島も喉について気になるらしく、その後も武田と協力して原因の究明に努めることになった。

 美奈の日常生活は、ほとんど元のように戻った。もう日常のちょっとした動作に煩わされることはない。

 美奈はギターの練習を再開した。

 首がつながったおかげで、格段にギターが弾きやすくなった。弾き間違いの数も大幅に減った。

 しかし、声が出ないのは辛かった。極力声量を抑えて歌おうとしても、かつて出ていた声が出ない。無理に声を出そうとすると、シャンパンボトルの蓋のように、ポンッと弾けて野太い声が飛び出てしまう。

 首がもげていることと比べれば、大した問題ではない。世界中を探せば、これくらい声の低い女性も大勢いるだろう。しかし、美奈はもともとの声が好きだった。もともとの声で歌を歌いたかった。現在の声ではかつてのように高音域を出すことはできない。

 せっかく歌という生きる道を見つけたのに、その矢先にどうしてその道を奪われなくてはならないのか。

 自分の人生が思いどおりにならないことに、美奈は落胆にも似た憤りを感じた。

 そんなところへ、優子からラインが届いた。それ自体が意外なことだったが、メッセージの内容も、思いがけないものだった。

 優子は『久しぶり! 元気?』と前置きしてから、次のように続けた。

『今度の週末から一週間パリに出張するんだけど、美奈も来る?』

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