26.和解
それから学校や、高校時代に友達とよく行ったラーメン屋などを見に行き、しばらく辺りを歩き回って家に帰った。本当は帰りたくなかったが、どこを歩いていても落ち着かなかった。
父親がガレージ前でジャガーの洗車をしていた。
「美奈」
父親がホースの水を止めて声をかけた。美奈は立ち止まり、父親のほうを見ずに、
「なに?」
「おかえり」
その声は優しかった。少しだけ肩の力が抜けたような気がした。それでも美奈は父親のほうに体は向けず、なにも答えずに家へ入った。
玄関でブーツを脱いでいると、父親が入ってきた。不安そうに美奈を見下ろし、気まずそうに口をもごもごしている。
「美奈、少し話そうよ」
「……洗車はいいの?」
「いいんだ」
リビングに入ると、三人掛けのソファに母親が座り、こたつに奈央が入っていた。父親が母親の隣に座り、正面のひとりがけのソファを指さした。
美奈は促されるままソファに腰をかけた。
だれもなにも言わなかった。ただ、時計の針がカチカチ鳴る音と、外の通りを車が走り去る音が小さく聞こえるだけだった。
「……美奈、ごめんな」
父親が伏し目がちに言った。
「美奈を、傷つけるつもりはなかったんだ。昨日は、パパも緊張していて、できるだけ優しく迎え入れようとしたんだけど、ちょっと、ぎこちなくなっちゃった」
美奈は目を閉じた。耳もふさぎたかった。全部、嘘だと思った。
「……嘘でしょ」
「どうして?」
「だって、パパやママの期待を裏切って歌手になるとか言って専門学校行って、その歌手の夢も諦めて、古着屋で働くとか言いだしてさ、家を飛び出してずっと音信不通だったんだよ?」
「……うん」
「だから、パパやママは、私のことが、嫌いなんでしょ」
一瞬、間があいた。美奈は視線を父親に向けた。父親が充血した目で美奈を見ていた。
「ふざけるな!」
突然怒鳴った。低い、雷鳴のような声だった。溜まっていたなにかを吐き出すように、堰を切ったよう言葉を切り始めた。
「嫌いなわけがないだろ! パパとママはな、そんなことで嫌いになるほど、生半可な気持ちで美奈を育ててきたわけじゃないんだ!」
「ずっと連絡しなかったくせに!」
父親が言葉に詰まった。うつむいて、なにも言わない。
「違うの、美奈ちゃん、聞いて……」
母親が慌てて間に入ると、父親が手で制した。
「ママ、俺が説明する」
声が小さくなった。興奮が冷めた感じだった。ただ、目には涙が溜まっていた。
「パパとママは、美奈に幸せになって欲しいと、本当にそう願っているんだ。だから、美奈が小さいときは、美奈が楽しめるように、いろいろなことをした。パパの趣味を押しつけてしまった部分はあるかもしれないけど、それは、パパが楽しいと思うことなら、美奈にとっても楽しいものになるだろうと思ったからなんだ」
「パパが、大学へ行けばよかったってあのとき言ったのはね、パパやママにとって、大学生活はとても楽しいことだったからなの」
母親が泣きながら言う。父親が頷く。
「パパとママは、大学で知り合ったわけだからな。パパとママにとって、大学生活はとっても楽しい思い出だった。美奈にも、それを経験して欲しかった。そうすれば、きっと美奈にとっても楽しい思い出になってくれると信じていたんだ」
父親が目を伏せ、力なく笑った。
「だから、美奈が大学には行かないって、パパに言ったとき、パパはすごく悲しかったんだ。なんだか、裏切られた気持ちになった。でも、美奈が『歌手になりたい』と言ったのを聞いて、安心した。ああ、美奈は自分のなりたいものを、既に見つけているんだと、嬉しくなった。だから、パパは応援することにしたんだ」
父親は口で大きく息を吐いた。それからもう一度、今度は鼻で息を吐いた。
「でも、美奈が、専門学校を卒業した途端に、歌手を諦めて古着屋で働くって言いだしたときは、パパは、すごく悲しかった。きっと大きな挫折を味わったんだろうって、美奈に同情した。だからつい、大学へ行ってればそんな挫折を味わわずに済んだのにって、愚痴みたいなことを言ってしまった」
父親は大きなため息をついた。
「でも、すぐに、考え直したんだ。人生を生きていれば、必ず挫折を味わうときがある。歌手に限ったことじゃない。きっと大学へ行っていたとしても、なにかしら挫折を味わうことがあっただろう。だとしたら、一回挫折しただけで諦めているようでは駄目だと思った。美奈は歌手の夢をとことんまで追い続けなくちゃいけないと思った」
美奈が信じられず眉をひそめると、母親と奈央が笑顔で頷き、美奈の疑問に無言で返事をした。
父親も頷いた。
「パパがなんとかしてやろうと思ったくらいだ。実は、パパとママの学生時代の友達に、レコード会社で働いている男がいるんだよ」
「パパはね、その人に頼んで美奈ちゃんを歌手デビューさせてあげようとさえ考えたんだよ」
「本当に?」
「本当だよ。でも、すぐに考えを改めた。そんなことでデビューできたって、美奈は喜ばないだろうって思った。もう、美奈は子供じゃないんだ。頼まれもしないのに、余計なことはしないほうがいいだろうって」
「美奈ちゃん、覚えてる? 美奈ちゃんがまだ幼稚園児だった頃、美奈ちゃんはアンデルセン童話の『人魚姫』が大好きだったでしょ?」
母親が突然訊ねた。
「人魚姫が最後、どうなったか、覚えてる?」
美奈は遠い昔に読み聞かせて貰った『人魚姫』のストーリーを思い出した。
「人魚姫が声の代わりに足を貰って、王子様と結婚するんだよね?」
母親が首を横に振る。
「人魚姫は、王子様とは結婚しないの。王子様と結婚できず、絶望して海の泡となって消えてしまうの。それが、『人魚姫』の結末」
「え? 違うよ。人魚姫は最後王子様と結婚するよ。だから私、『人魚姫』大好きだったんだもん」
父親が小さく笑う。
「ごめんな、美奈。その結末は、パパが作ったんだ」
「どういうこと?」
「美奈に初めて『人魚姫』を読み聞かせしたとき、美奈は結末が悲しくて嫌だって泣いたんだ。ハッピーエンドがいいって、聞かなかった。美奈はまだ小さかったから、覚えていないんだろうね。だからそれ以来『人魚姫』の読み聞かせをするとき、パパはいつも、結末をハッピーエンドにしなくちゃいけなかった。声を失った人魚姫が声を取り戻して、王子様と幸せに暮らせるよう、物語の一部を少し変えたりしてな。だから美奈は、安心してパパの読み聞かせを聞くようになったし、パパもそんな美奈を見て、幸せだった」
「じゃあ、本当は人魚姫って死んじゃうの?」
「死んだとも取れるし、そうじゃないとも取れる」
父親が咳払いして、美奈を見る。
「とにかく、もうパパにはそれができない。いや、すべきじゃない。美奈はもう大人になったんだ。自分で自分の道を歩き始めたんだ。これからは、美奈が自分で、ハッピーエンドを作らなくちゃいけない。美奈が自分の力で、人魚姫を幸せにしてやらなくちゃいけないんだ」
父親の声は低く、力強いものになっていた。
「だから、パパは心を鬼にして、美奈を突き放した。そうするしか、なかった。すごく、寂しかったけど、美奈のためを思って、こちらから手を差し伸べるのをやめた。やり方は、まずかったかもしれない。いや、きっとまずかったんだ。結果的に美奈を傷つけてしまったんだから。でも、信じて欲しいんだ。パパやママは、決して、美奈が嫌いになったから、愛想を尽かしたから、連絡を取らなかったわけじゃない。美奈が自分の人生を自分の足で歩けるようにしてあげたかった、その一心だったんだ」
「ごめんね、美奈ちゃん」
母親が我慢しきれないというような調子で口を開いた。
「パパもママも、すごく心配してたんだよ。どれだけ東京へ飛んで行きたかったか、わかる? でも、それをすると、美奈ちゃんはいつまでも自分で自分の人生を歩けなくなる。いつも、パパやママの顔色を窺わなくちゃいけなくなる。でも、帰ってきたときは、そのときは優しく、迎えてあげようと思ってた。助けを求めてきたら、惜しげなく手を差し伸べようと思ってた。パパとママはずっと美奈ちゃんのことを気にしてたよ。一秒だって忘れたことはないよ」
「美奈がこれから先、どんな風に行きていこうと、決して美奈のことを嫌いになったりしない。絶対だ。美奈が世界を滅亡させようと目論む、悪の女帝になったとしても、パパとママは、美奈を愛し続けるよ」
「なおりんもだよ」
奈央が明るい声で言った。
美奈の目から涙が溢れた。とても温かかった。涙と一緒に、自分がまだこの家族の一員であるという実感が、心の奥底から込み上げてきた。
「……パパ、ママ、ごめんね。なおりん、ありがと」
どのように崇高な芸術映画や小説でも、このとき以上に自分の心を揺すぶることはできないだろうと美奈は思った。人生は撮り直しや推敲ができない。すべての一瞬が意味を持ち、決して消えてなくなることはないのだ。
陽炎のようにぼやけていた五年間が、自分の過去としてしっかり蘇った。薄目で見ていたものを、しっかり目を開けて見たような解放感があった。
「美奈、東京で、なにかあったんだろ」
父親が不意に訊ねた。
「え? どうして?」
「リニューアルで休業中なんて、嘘だろ。ネットで調べれば、通常営業中であることくらい、すぐにわかるさ」
美奈は笑い、首がもげたことを伝えることにした。
コルセットを外し、首を取って見せると、両親や奈央は悲鳴を上げた。しかし命に別状がないと知ると、安心したのか、今度は興味津々に、テーブルの上の頭と、椅子に座っている体とを調べだした。
「なんとか、いい医者を探そう」
父親が真剣な顔で言う。美奈は武田から聞いた田島や万能神経について話した。奈央がすぐに田島についてスマホで検索する。さまざまな記事がヒットした。
その中に、万能神経の開発に関する英語の医療ニュースがあった。
奈央がブライアンに記事のURLを送り、簡単に日本語訳してもらった。
万能神経の開発が完成に近づき、すでに佳境を迎えているという内容だった。
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