25.高校時代の同級生

 翌朝、十時前に目が覚めた。

 家族と顔を合わせたくなかった。

 昨日と同じ服を着て、マフラーを巻き、スッピンのまま部屋を出た。テレビの音がするリビングには顔を出さず、できるだけ静かに玄関のドアを開けた。

 近所の住宅街を、まっすぐ前を見据えて歩いた。高校を卒業するまで、毎日のように歩いた道だ。見覚えのある家やマンションが建ち並び、美奈は辺りを見ずとも、そこにどんな建物があるのか察することができた。

 東京の専門学校に通うために上京して、在学中、年に数回地元に戻っていた頃は、この街がそれまでと全く違う、ちっぽけな街にしか見えなかった。当時は、自分が全能にでもなったかのような傲慢さがあった。

 しかし、あれから五年が経過し、成長したはずの美奈には、この街が高校生、いやもっと昔、中学生、小学生の頃に感じていたように、広く果てしないように思われた。

 時間が流れれば自然と成長するわけではない。美奈は思った。

 時間が止まっていたって、成長する人はいる。奈央は中学の頃からほとんど変わらない。でも、たしかに、成長している。少なくとも、人を愛することを知っているのだ。私はなにも知らない。愛することも、愛されることも。

 私はひとりぼっちだ。

 十字路に差し掛かり、そこを左折すると、住宅街の向こうから子連れの女性が歩いてくるのが見えた。ようやく自分で歩けるようなったくらいの小さな子の手を引いて、時折立ち止まりながら歩いている。母親は子供の足元に目をやっていて、美奈の存在に気づいていない。

 距離が近くなると、子供が美奈のことを見つけて、笑顔になった。頬が赤く、ぷくっと膨らんでいる。服装から推し量るに、男の子だ。

 男の子は笑顔で美奈に手を振った。美奈は小さく控えめに手を挙げるだけにとどめた。すると、母親がこちらを見た。二十代半ばくらいの、若い女性だった。

「こんにちはぁ、すみません……」

 女性が照れ笑いしながらそこまで言って、狭まっていた目を大きく見開いた。

「美奈? 美奈じゃない?」

 急に図太い声になる。

「美奈でしょ? 久しぶりじゃん」

「え?」

 子供の手を引きながら、こちらへ向かってくる女性の顔をよく見た。高校時代の同級生だった。

「サオリ?」

「そうだよぉ。なにしてんのこんなところでぇ? え? 美奈ってこっちに住んでたっけ?」

「ううん。東京に住んでるけど、いま、働いてる店がリニューアルでお休みに入ってるから、ちょっと戻ってきてるんだよ」

 スッピンで、目のくまが濃いこと以外、サオリは高校時代と同じ顔をしていた。いや、顔の作りというよりは、浮かぶ表情や声色があの頃のままだった。

「それスッピンでしょう? 相変わらず、美奈は美人過ぎ」

「サオリはこっちに住んでるんだよね。藤村くん元気?」

 藤村は、美奈の高校時代の同級生で、サオリが一年生の頃から片思いをしていたサッカー部の男子だった。

 藤村と仲が良かった美奈は、よくサオリに恋の相談をされていた。とは言え、適当にそれらしいことを言ってあげるだけで、それほど親身になっていたわけではなかった。高校二年の秋にサオリが藤村に告白し、二人は付き合うことになった。サオリは高校卒業後、地元の進学塾の受付事務員になり、藤村は神奈川の大学へ進学した。ちょっとした遠距離になりながらも関係は続き、藤村の大学卒業とともに二人は結婚した。

 藤村は地元の中小企業に就職し、結婚式は地元の結婚式場で開催した。招待されたが、美奈は式には出席していない。当時は家出真っ最中で地元に帰る気はなかった。

「この子、何才? 名前は?」

 顔を下に向けられない美奈は、顎を手で押さえて傾くのを防ぎながら、しゃがみこんで子供の視線に高さを合わせた。

「タカシだよ。タカシ、何才になったの?」

 サオリが言うと、タカシは恥ずかしそうに下唇を噛みながら、顔の前に小さな指を三本立てた。

「三才なの? 大きいね」

「違うでしょ、二才でしょ」

 サオリがツッコむと、タカシはヒャヒャと笑いながらサオリの脚に顔を押し付けた。

「サオリも子持ちか」

「まぁね」

「いいね、幸せそうで」

 サオリは、ふん、と鼻で息を吐くようにして小さく笑った。

「幸せなんかじゃないよ」

「どうして? 高校時代から好きだった人と結婚して、こんなに可愛い子がいて」

「あたし、藤村と離婚して、シングルマザーやってんだよ、いま」

 サオリがサラッと言った。美奈はなにも言えなかった。悪いことを言ってしまった後悔と、サオリの不幸を知って気分が軽くなった多少の罪悪感が、喉を詰まらせた。

「あいつさ、そもそも、あたしと結婚する気はなかったんだってさ。大学時代に、あいつ、向こうで付き合ってる彼女がいて、あたしと二股してたんだよ。それで、最初は浮気だったんだけど、だんだん向こうの女の方が本命になったんだって。そりゃそうだよ。毎日一緒にいるんだもんね」

 サオリは、まるで笑い話をするような口調で話した。

「でもさ、卒業間近に振られたんだって。なんか、その女、たしか関西の方の出身だったらしいんだけど、地元に男がいたんだって。そっちも浮気。それで、それがショックで、仕方がなくあたしと結婚したんだってさ。離婚切り出されたときに言われたよ。言わなくてもいいのに」

「ひどいね」

「でも、いいんだよ。結婚生活は悲惨だったし。あたし、当時漠然と結婚したいと思ってたからさ。結婚が目的になっていたというか。自分のために結婚しようと思ってたの。たぶん、藤村もそうだったんだろうけど、結局、それじゃ結婚生活なんてうまく行きっこないんだよ。だって、結婚したら、自分のことを考える時間なんてないもん」

 そう言って、サオリはタカシに視線を落とした。

「全部相手のため、になるんだよね。結婚すると。自分のためにするのが恋愛なら、相手のためにするのが結婚。あたしは悟ったね。自分のことばかり考えてたら、相手のことが邪魔で仕方がなくなるんだよ。だからって、自分ばっかり相手のことを考えてたって、相手がこっちのことを考えてくれなくちゃ、こっちは幸せになれないでしょ」

 サオリはそこで声を出して笑った。

「でも、ほんとに離婚経験できてよかったよ。なんか、いろいろと選球眼が養われたような気がするもん。いまは、タカシのために必死になって働いてる」

「まだ、受付事務やってんの?」

「そうだよ。週五で入って、土日はコンビニの準夜。ほんと、毎日クタクタ。普段は、両親にタカシの世話してもらってるんだよ」

「苦労してんだね」

「苦労もいいとこだよ。よくさ、若いうちの苦労は買ってでもしろ、って言うじゃん。はっきり言ってさ、そんなものわざわざ買える余裕があったら苦労しないっつぅ話なんだよね」

 サオリは眉をしかめながら言い捨てると、すぐに吹き出して笑いだした。美奈もつられて笑った。タカシもエヘエヘ笑う。

「でも、愛するタカシのためだ。ママは頑張るぞぉ!」

 サオリはタカシを抱きしめ乱暴に体を揺すぶった。タカシの笑い声が大きくなる。

 日が高くなった。それでも気温は低く、冷たい風は肌に突き刺さるようだった。

「そろそろ、行かなくちゃ。お昼の支度しなくちゃ」

 サオリは言うと、ふらふらとどこかへ歩いていこうとするタカシの手を引っ張るようにしながら美奈を見た。

「美奈、まだこっちいるんでしょ? 年末年始まで?」

「うん、まだいつまでかはわからないけど」

「じゃあ、またみんなで飲もうよ。同窓会しよ」

「うん。そうだね」

「きっとみんな、美奈の東京での武勇伝聞きたがってるからさ」

「武勇伝なんてないよ」

 美奈が笑うと、サオリも笑って、「じゃあね」と言った。

「ほら、タカシ、美奈お姉さんにバイバイは」

「タカシくん、バイバイ」

 美奈がしゃがんで手を振ると、タカシも控えめに手を振った。

 去って行く二人の後ろ姿を眺めながら、美奈は幸せのことを考えた。

 幸せの輪郭はわからない。しかしそれが、オシャレな洋服のように、目で見えるものではないということは、わかったような気がした。

 自分がまるで、貧相な体を隠すために派手で目立つ服を着ているだけであるような感じがした。

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