24.即席の人間関係

 しばらくすると、玄関の開く音が聞こえた。

「あ、パパが帰ってきた」

 奈央の言葉に、美奈の胸がズンと振動した。ヘビー級のボクサーに重たいボディブローを打ち込まれたかのようにお腹が鈍く痛んだ。

「会ってくれば?」

 奈央がこともなげに言う。美奈はまだ心の準備ができていなかった。

「ううん。まだ、いいや。晩御飯のときにする。お風呂、沸いてるかな?」

「お風呂? どうだろう、いま何時? 六時か。多分、ママが沸かしてると思うよ」

 美奈は風呂に入ることにした。

 部屋に戻り、かつてパジャマ代わりにしていたグレーのスウェットを引っ張り出す。

 父親に見つからないようにそっと階段を降りて、抜き足差し足、忍者のように素早く風呂場に入った。

 父親との再会をできるだけ先延ばしにする目的で、ゆっくり長風呂した。武田が作らせた特注のコルセットは防水加工になっていたので、お湯につけても平気だった。

 風呂から出ると、廊下に炒め物の匂いが漂っていた。リビングからテレビの音が聞こえてくる。

 美奈は忍び足で階段を上り、奈央の部屋に入った。

 奈央は電話をしながら「シュアー! ええ? なにが違うの? シュアー!」と叫んでいた。ブライアンに英語の発音を教えてもらっているのだろう。

 美奈がドライヤーを貸してくれと頼むと、奈央は「シュアー!」と叫び、どこかを指差した。その先に、コンセントにつながれたドライヤーが置かれていた。美奈はドライヤーを取って、自分の部屋へ行った。

 胸が音を立てて鳴っていた。髪の毛を乾かしながら、引きつった頬を指でつまんだり引っ張ったりした。

「ねぇえ、みなちん下行こうよぉ」

 奈央が部屋に入ってきた。

「ええ、ちょっと待ってよ」

「大丈夫だよ。パパはいま、お風呂入ってるから」

 美奈は意を決して、奈央と一緒に階段を降り、リビングに入った。

 父親はいなかった。奈央の言うとおり風呂に入っているらしい。

 母親はキッチンで料理をしている。テレビがつきっぱなしで、ニュース番組が流れていた。奈央がこたつに潜り込んで、チャンネルを変える。

 母親が美奈のコルセットを見つけて、どうしたのか訊ねた。

 美奈は「筋を痛めた」とだけ言って、ソファに腰掛けた。気持ちがひどく浮ついていて、全く落ち着かなかった。

 二十分ほどすると、風呂場のドアが閉まる音がして、廊下をこちらへ近づいてくる足音が聞こえてきた。母親は料理をダイニングテーブルに運んでいる。

 背後でリビングのドアが開いた。美奈は振り向かず、というよりも振り向けず、じっとテレビを見つめ続けた。

「お」

 低い声がした。

「パパ、みなちんが帰ってきたよ」

 奈央が満面の笑みで言う。美奈はなにも言えず、じっと奈央の顔を見つめていた。

「……おう」

 また、低い声が聞こえたかと思うと、パタパタとスリッパのかかとを鳴らしながら、父親がダイニングへ歩いて行った。

「パパ、照れてる」

 奈央が笑った。

 夕飯の準備が整ったと言うので、美奈と奈央もダイニングへ向かった。父親はいつもの席に座り、テーブルの上の料理を眺めていた。

 五年ぶりの父親の姿は、髪の毛が薄くなったこと以外、あの頃のままだった。大きな目がぎょろぎょろと動き、いつも眉間に皺が寄っている神経質そうな顔。そんな顔が、美奈や奈央を見るときには、固く閉じたつぼみが早送り再生で開花するように、無防備な笑顔になる。

「え?」

 美奈は思わず声を出した。

 父親が、笑顔で美奈を見ていた。ぎこちなさのある、ちょうど、初デートで美奈の機嫌を伺う、緊張した男のような笑顔だった。

「おかえり」

 父親が優しい声で言う。

「……ただいま」

「座れよ、なに飲む?」

「……ビール」

「ママ、美奈はビールだって」

「なおりんは?」

 キッチンから母親の声がする。

「ビール!」

「じゃあ、みんなビールね」

 冷蔵庫の閉まる音がした。

「美奈、首どうしたんだ」

 美奈の首を指差して、父親が訊ねた。

「寝違えて筋を痛めたんだって」

 母親が缶ビールを四本両手に抱え、父親の隣に座りながら言った。

「どんな寝方したら、そんなものつけなくちゃいけないくらい筋を痛めるんだ」

 父親は笑い、缶ビールの栓を開けてコップに注いだ。

「まぁ、安静にすることだな」

 笑顔で美奈にコップを差し出す。美奈はそれを受け取り、取り皿の横に置いて、この不気味になるほど自然な雰囲気を訝しく思った。

 まるで、なにごともなかったかのようだった。

 美奈が不在だった五年間など、まるでなかったかのような……いや、それだけではない。美奈が大学へ行かず、専門学校へ行くと言いだしたことや、歌手を諦めてサクサフォンで働くと宣言して、家を飛び出したこともひっくるめた全てが、あたかもなかったかのようだった。

 美奈も両親があの頃みたいに自分を拒絶することを望んではいなかった。できることなら、優しく迎え入れてもらいたかった。しかしそれはこのように、過去をなかったかのようにして欲しいということではなかった。過去の存在を認めた上で、受け入れて欲しかったのだ。

 この五年間が、本当に夢まぼろしにされてしまうような気がした。

 自分は二人にとって、もう、他人なのだ。

 美奈は被害妄想を抱いた。

 心を開いて、正直に打ち解けあって話をすることはできない。私なんかは所詮お客さんに過ぎず、当たり障りのない、その場しのぎの対応で済ましてしまおうと考えている。

 即席の人間関係!

「それじゃあ、美奈、おかえりぃ!」

「なんなの、これ!」

 突然大声を出した美奈に、父親と母親がビクッとして、ビールの入ったコップを掲げたまま停止した。隣から「みなちん……?」と奈央の不安そうな声がする。

 美奈はそれでも止まらなかった。

「どうして、どうして、そんなによそよそしくするの? 私、五年も帰ってなかったんだよ? それなのに、どうして、そんなに自然に振る舞えるの? なにごともなかったみたいにできるの?」

 美奈はテーブルをグーで叩いた。ガチャンと食器の揺れる音がする。

「どうして、なにをやっていたんだ! って叱ってくれないの? 怒らないわけがないのはわかってるんだよ? 家飛び出してさ、五年も連絡すらしなかったんだもん! それなのに、どうして怒ってくれないの? 他人みたいじゃん!」

 声は徐々に高くなり、ついに涙が溢れた。

 自分で自分を制御できなくなり、自分が明らかにわがままなことを言っているのがわかっているのに、感情はアクセルを緩めなかった。

「美奈のことなんて、本当にどうでもよくなったんでしょ? もう、美奈のことなんて、娘だと思っていないんでしょ? 適当に相手して、さっさと東京へ返してしまえって思ってるんでしょ?」

 口の中に、涙と鼻水が流れ込んできた。しゃっくりが始まって、もうなにも言えなくなった。

 冷蔵庫の唸る音が辺りに響いた。そこに、美奈の喉から漏れる声が絡み付いた。両親はなにも言わなかった。

 自分ひとりに感情があって、自分以外は血の通っていないロボットであるように感じられた。

 目の前に並ぶ食器やコップをすべてひっくり返したくなった。

 美奈は固まっている家族を置いて、自分の部屋に駆け込み、布団をかぶってそのまま寝てしまった。

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