23.梶原さん
夕方、昼寝から目覚めても、よそよそしさが残っていた。リビングに下りて母親と一緒にいるのも気まずかった。美奈は階段の前で逡巡した。
見ると、奈央の部屋のドアの隙間から光が漏れている。
【なお】と小さなプレートが提げられているドアをノックすると、「あいよ!」と奈央の返事があった。美奈はドアを開けた。
奈央の部屋は暖かかった。六畳ほどの部屋にはシングルベッドが置いてあり、その上にはさっき奈央が羽織っていたライダースジャケットと、赤いトートバッグが乱雑に置かれている。
小学生の頃から使っている可愛らしい勉強机があり、部屋の真ん中には小さな丸いテーブルがある。奈央はそこに頬杖をついて、スマホをいじっていた。
「久しぶりの我が家はどう?」
奈央がスマホを置いて訊ねる。美奈は奈央のベッドに腰掛けた。
「うん。懐かしいね」
「でしょでしょ。もっと帰ってくればよかったのに。パパだってママだって、みなちんに帰ってきてほしかったんだよ」
「嘘ばっかり。なおりん、そんなこと、いままで一度も言わなかったじゃん」
「いろいろと事情があったんだよ」
奈央は言って、話をはぐらかすように勢いよく立ち上がった。
「そうだ、みなちん、梶原さん覚えてる?」
奈央がクローゼットを開けながら訊いた。梶原という名前に心当たりはなかった。
「梶原さん? だれ、それ」
「だれ、じゃないよ。これだよ」
奈央はクローゼットから黒いハードケースを取り出した。
それはギターケースだった。
「梶原さん」
「ああ、ギターか」
奈央が半年前買ったギターは、エピフォンの「カジノ」というシリーズだった。カジノのカジをとって、奈央はギターに「梶原さん」という名前をつけていた。
「弾いてんの? それ」
美奈が訊くと、奈央はケースを開けながら口を尖らせた。
「全然。もう、こんなの暴漢に襲われたときの盾くらいにしかならないよ」
「暴漢に襲われたときの盾って」
「ケース硬いからさ、これでバコーンって」
「それじゃ凶器じゃん。なんでよ、あんなにギターやるんだって張り切ってたのに」
「だってさ、なおりん、このギター、ジョン・レノンが使ってたのと同じって言うから買ったのにさ、なおりんが好きなのって、ジョージ・ハリスンだったんだもん」
「どういうこと?」
「だからさ、ジョンとジョージがごっちゃになってたの。ジョンって名前を聞きながら、ジョージの顔を想像してたの!」
奈央はあぐらをかいてギターを抱えた。指でジャランと弾いてみるが、チューニングが合っておらず、不協和音だった。
「ジョージが一番カッコいいのになぁ」
「ジョージ……」
「みなちんもそう思わない?」
美奈は優子のライブで見たジョージのことを思い出していた。いや、サクサフォンに買い物に来ていたゴーストの顔を、頭の中に思い描いていた。父親がビートルズ好きで、美奈たち姉妹は小さな頃からさんざん聴かされていた。メンバーの顔はすっかり覚えていたはずだったが、美奈にとってジョージは、ゴースト以外のだれでもなかった。
「全然、弾く気が起こらない」
奈央は相変わらず不協和音を響かせながら、口を尖らせていた。そのギターは、ジョージがあの日使っていたギターの形状と似ていた。
「ちょっと、貸して」
鼓動が早くなって、体が熱くなった。そのギターがジョージのギターに似ているとわかった途端、そのギターを触ってみたくて仕方がなくなった。
奈央は膝立ちになってギターを美奈に差し出した。美奈は前を見据えた変なフォームでギターを構えた。奈央が笑う。
「みなちん、どうしたの、ほんとに。気持ち悪い」
美奈はマフラーを取った。例のごとく筋を痛めていることにして、コルセットをカミングアウトしてしまおうと思った。
「筋が痛くて、こんな状態なの」
「ええぇ、大丈夫なの?」
「うん。大丈夫」
奈央を黙らせるつもりで、Aコードを手探りで押さえて弦をはじいた。専門学校時代に少し勉強しており、基本的なコードは知っていた。
美奈はうろ覚えながら、優子が作った「ミスター・ロンリネス」を歌ってみた。その曲を選んだのは無意識だった。
そもそもギターはそれほど弾けず、加えて指板を見られず、爪も伸びていたし、やはりチューニングがおかしいのとが相まって、途中からはギターの演奏を諦めアカペラにした。
首を動かせない状態でもそれなりに声が出た。
「すごぉい、いい曲! やっぱりみなちんは歌が上手!」
二番まで歌うと、奈央が拍手をした。美奈は妙な達成感に浸っていた。
やはり歌うのは楽しい。
「その曲、だれの曲? ダウンロードしたい」
「ゆうたんの曲」
「なに言ってんの?」
「だから、ゆうたんは、バンドやっててね。そのバンドのオリジナル。『ミスター・ロンリネス』って曲」
「ミスター・ロンリネスって、映画のやつでしょ? え? ほんとに? ゆうたんが作った曲なの? すごぉい! てっきり映画の主題歌かなんかだと思った! やっぱりゆうたんってすごい人なんだね!」
「ゆうたんは作詞で、たしか作曲はバンドみんなでやったとかって言ってたよ。ってか、フランス映画の主題歌が日本語の曲になることはないでしょ」
興奮する奈央に、美奈は先日のライブについて話した。優子がバンドをやっていることを知らなかった奈央は感動しきりの様子で、「ほえぇ」と話を聞いていた。
美奈は、スポットライトを浴びて歌っている優子の姿と、その後ろで守護神のようにベースを弾いている隆一の姿を思い返しながら、二人の関係をひどく羨ましく思った。
自分もステージの上で歌いたくなった。
専門学生時代、課題のためにステージで歌ったことはあったが、そのときは恥をかきたくないという思いばかりが強く、自分を隠すために歌っていた。そうではなく、自分を、ステージの上でさらけ出すようにして、自分自身を発信するようなつもりで、歌いたいと思った。
そして歌う私の後ろで、ジョージさんが演奏を……。
おかしな想像をしている自分に気がつき、ふっと我に返った。
ジョージが後ろで演奏しているのも不思議だったし、そもそも、自分なんぞがステージで歌うなどという思い上がった夢想をしていることに驚いた。
「みなちん、歌、上手くなったね。やっぱり歌手目指しなよ」
奈央が三角座りで言いながら美奈を見る。
「なんか、深みが増したよ。感情がすごいこもってる」
「ほんとに?」
「うんうん!」
美奈は首のコルセットを撫でながら、奈央のお世辞を真に受けている自分を嘲笑した。
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