21.ブライアン

 約五年ぶりに降り立つ成田駅のホームは、どこか他人行儀だった。改札を抜けて、外へ出ても、その景色はツンと済まして、自分のことを無視しているように感じられた。

 停車場にシルバーのフィットが停まっている。美奈が近づくと、運転席にいたサングラスをかけた女性が手を振った。サングラスを外し、車から出てくる。

 白いカットソーにライダースジャケットを羽織り、淡いブルーのジーンズにスニーカー履いている。

 奈央だった。

 垂れ眉で目が大きく、おでこが広く丸顔で、身長は美奈より少し低い。

「みなちん! おかえり!」

 奈央と最後に会ったのはその年の六月半ばのことだった。東京が梅雨入りした頃で、そのときは二人で水着を買いに渋谷へ出かけた。はずだったのだが、どういうわけか楽器屋へ行き、奈央がそこでエレキギターを衝動買いした。二十万円する高級品だったが、ボーナスがあるから平気だと強がっていた。

 それからはたまにラインでやりとりするだけで、一度も会っていなかった。もちろん、美奈の首がもげたことを奈央は知らない。

 感情表現が激しい奈央は、美奈に駆け寄り抱きついた。涙を流している。

「ちょっと、なおりん大げさ」

 美奈が笑うと、奈央は抱きしめる力を強めて、鼻をすすった。

「だって、みなちんがここにいるんだもん……」

 美奈は胸が締め付けられる思いで、奈央の肩を抱き返した。

 フィットの助手席に乗り、二人は実家に向けて出発した。車窓からの景色は懐かしかったが、どこかよそよそしくも感じられた。

「総入れ歯」

 奈央が運転しながら言った。

「そういえば、でしょ」

 美奈が訂正すると、奈央は楽しそうにケタケタ笑った。赤信号で車が停まる。

「ゆうたんとか、久美子ちゃんとか、元気?」

「ああ、うん……」

 美奈は言葉に詰まった。サクサフォンで働いていたことが、遙か遠い過去の話であるように感じられた。

「あ、葵ちゃん! 葵ちゃんは? 葵ちゃんは元気?」

 奈央は過去に何度かアヒルへやってきて、あのメンバーと一緒に飲んだことがある。

「元気だよ」

「いいよねぇ、葵ちゃん」

「ねぇ、もっと別の話しようよ」

「なんでよぉ。なおりん、葵ちゃんのこと大好きなのに」

「いいから、ほら、信号、青」

 美奈が言うと、そのタイミングで後方の車がクラクションを鳴らした。奈央は慌ててハンドルを握り直し、アクセルを踏んだ。

「葵ちゃんが教えてくれたテクニックで、彼氏ゲットしたよ」

 奈央が前を見据えながら言う。

「ああ、同僚の子だっけ?」

「違うよ。あの人は転勤になって、別れた。今度の彼氏はイギリス人」

「イギリス人?」

「そ。ずっと香港に住んでたらしいけど。留学生。いま、日本語学校に通ってる。そうだそうだ」

 奈央は言うと、思い出したようにハンドルを切って左折した。

「どこ行くの?」

「ブライアンに会わせてあげる」

 それから何度か右左折を繰り返し、道沿いのドラッグストアの駐車場に入った。

「ブライアン、ここでバイトしてんの」

 ブライアンとは、このドラッグストアで店員と客の立場で出会い、奈央が一目惚れし、デートに誘ったのだという。

 車を降りると、奈央は「ちょっと待ってて」と言って店へ駆けて行った。美奈は入り口脇にある灰皿の前で煙草を吸って待つことにした。しばらくすると、ドラッグストアの制服を着た、身長の高い白人男性を連れた奈央が店から出てきた。

「みなちん、この人が、ブライアン」

 奈央は言うと、ブライアンの腕にそっと自分の腕を回した。

「ブライアン、この人が、私の、お姉ちゃん、みなちん」

 奈央はゆっくり言葉を途切れ途切れにしながら喋った。ブライアンが茶色い瞳をきらきらさせながら美奈を見つめる。

「初めまして、みなちん。よく話を聞いています」

「美奈だよ。本名は美奈」

 美奈は慌てて訂正した。ブライアンが眉をひそめる。

「じゃあ、間をとって、ちん、にしましょう」

「美奈!」

 ブライアンは今年の六月から日本に留学しているとのことだった。茶髪で、無精髭も茶色。彫りが深くて、鼻が高い。眉毛が濃く、かなり大人びて見えるが、実際は奈央の一歳年下だった。

 日本のサブカルチャーが好きで、昔から日本の漫画やアニメ、音楽などを読んだり観たり聴いたりしていたらしい。父親の都合で九歳の頃から香港に住み、香港大学へ進学。言語学を研究するために院まで行ったものの、やはり日本語への憧れが消えきらず、日本に留学することに決めたのだとか。かなり勉強ができるようで、日本語も留学半年とは思えないほど流暢だ。

「まずは、日本語学校で日本語を勉強して、それから、大学へ進学しようと思ってる」

 慣れてくると、ブライアンは徐々に敬語を崩しはじめた。

「まだ、研究分野は定まっていない、が、たぶん、日本語学か、日本文学」

「へぇ。すごいね」

 美奈は素直にすごいと思った。男を落とすためのお世辞ではない。香港大学で修士号まで取った上で、わざわざ日本にまで来て、また大学に入り直そうとするその行動力が羨ましかった。

「それで、ここで、アルバイトしているときに、奈央と、出会った」

 ブライアンは脇に抱いていた奈央の顔を見下ろした。奈央はブライアンを見上げ、二人は軽くキスをした。

「僕の、一目惚れだった」

「え?」

 ブライアンの発言に奈央がびっくりした。

「ブライアンが一目惚れじゃないでしょ。私でしょ」

「奈央も、したかもしれないが、僕もしたよ」

「ええ? ウソ! だってブライアン、いつまで経っても誘ってくれなかったじゃん」

「だって、恥ずかしいからさ」

「イギリス人って、平気でデートに誘うもんじゃないの?」

「そういう人もいるだろうが、僕は、ほら、えっと、性感帯が気になるからさ」

「まぁ、そうだよねぇ」

「ちょっと待って」

 美奈が口を挟んだ。

「ブライアン、性感帯が気になるって、どういうこと?」

 ブライアンが不思議そうに片眉を上げた。真面目な顔をしている。

「デートに誘うとき、気にならない? 性感帯」

「デートに誘う段階では気にならないけど……いや、気にしてるのかな……」

「僕は女の子をデートに誘うとき、いつも性感帯が気になって気になって、なかなか誘えない」

 やはりなにかがおかしい。

 美奈はブライアンを問いただし、謎を解いた。

 ブライアンが言いたかったのは、「世間体」だった。どこかで見つけた「世間体」という単語に、ふりがなが振られておらず、単純な音読みで「セエカンタイ」と読んでいたらしい。

 奈央は大笑いした。ブライアンは顔を真っ赤にさせて、しきりに「ごめん、ごめん」と謝った。

「なおりん、笑うのはいいけど、間違ってたら教えてあげないと」

「ええ? だって、ブライアンが、奈央との会話のときは会話に集中したいから、日本語間違えても流してくれって言うんだもん」

「それにしても、この間違いは……」

 美奈の苦言を無視して、奈央は「ちょっと、おトイレ行ってくる」と言い残し、店の中へ入っていった。

 美奈は体をブライアンに向けた。ブライアンは店の中へ入っていった奈央の後ろ姿を目で追っていた。

「ブライアン、奈央なんかと付き合ってたら、日本語上達しないよ?」

 冗談めかして言うと、ブライアンは目元に柔らかい笑みをたたえて、首を振った。

「日本語の勉強のために、奈央と一緒にいるんじゃなくて、一緒にいたいから、一緒にいるだけ」

 ブライアンは口角を上げた。

「よく、語学を勉強するなら、恋人を作れ、と言うが、恋人ができて、言葉が上手くなるのは、結果論、だと思う。結果論、正しい?」

 美奈は「うん」と答えた。ブライアンは安心したように息を大きく吐いた。

「なにかの目的のために、人を好きになるのは、本当の恋ではないと思う。恋は、結果論」

「恋は、結果論……」

「奈央と、キスをすると、まるで、溶けて混じるような気分に、なる。紅茶にミルクが、混じっていくみたいに、二つのものが重なり合うんじゃなくて、二つのものが混じり合って、ひとつの、別のものになるみたいに。紅茶とミルクが混じると、ミルクティーになるでしょう。それはもう、紅茶とミルクではなく、ミルクティー。僕と奈央は、ミルクティーなんだ」

「そうなんだね」

「ブライアーン、もう戻ってこいって」

 奈央が店から出てきて言った。

「もう、トイレ済んだの?」

「ううん。人が入ってたから、諦めた」

「大丈夫なの?」

「うん。別にギリギリってわけじゃないから」

 奈央は笑顔で背伸びをして、ブライアンにキスをした。

「じゃあ、僕、戻るよ。また、連絡する」

 ブライアンは奈央にそう告げると、美奈に向かって小さく会釈し、小走りに店へ戻って行った。

「なおりん、ブライアンに愛されてるね」

 車に乗り込みながら、美奈が奈央に言った。奈央はサングラスをかけながら、口元を緩めた。

「なおりんもブライアンのこと、愛してんだよ」

「そうなの?」

「そう。今回はもしかしたら、特別かもしれない。だから葵ちゃんには、マジで感謝。いま、ブライアンのために英語の勉強中」

 美奈はシートベルトを締めながら、自分が微笑んでいることに気がついた。自然な微笑みを浮かべられるのは、首がもげて以来、初めてのことだった。

「なおりん、幸せになってよ」

 美奈が呟くと、奈央はエンジンをかけながら、

「みなちんもね」

 と、笑った。

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