20.奈央からのライン

『パパが今年で完璧になるんだよ! 帰ってきなよぉ』

 妹の奈央から意味不明なラインが届いた。このような意味の通らないメッセージが送られてくるのはよくあることだった。

 還暦だ。美奈はすぐにピンときた。

 父親が今年で六十歳になる。還暦だからそのお祝いをしようと言うのだろう。「還暦」を「完璧」と打ち間違えたに違いなかった。

『パパとママもみなちんに会いたがってるよ! もちろん、なおりんも会いたいよ』

「なおりん」というのは奈央のニックネームで、彼女はいまだに家族の前では自分のことをなおりんと呼んでいる。美奈はいい加減やめるよう言うのだが、その度に奈央はテへテヘ笑うだけで、一向にやめようとしない。自分より二歳年下なだけだが、中学で精神年齢が止まっているようで、美奈は奈央のことを愛おしく思っていた。

『みなちーーーーーーーーーん』

『おーーーーーーーーーーーい』

『おなかすいた』

『おーーーーーーーーーーーい! 既読スルーダメ絶対!』

 いつまでも鳴り続ける着信音を聞きながら、美奈は返事をすべきか考えた。

 奈央は、両親が美奈に会いたがっていると書いていた。しかし、信じられなかった。

 美奈と両親の仲は良好ではなかった。

 特に父親は、美奈に大学へ進学して欲しいと強く思っていた。美奈が専門学校に進むと言いだしたときにかなり揉めた。しかしそのときは、「プロの歌手になるまで頑張る」と言った美奈の言葉を信じてどうにか送り出してくれた。美奈も、自分ならプロの歌手になれると信じていた。

 しかし、だめだった。専門学校には、美奈程度の歌唱力を持つ人間がごろごろといた。美奈に対する周囲の評価は低く、彼女自身も、自分の歌が人の心に響くものだという自信を失っていった。

 美奈が歌手になるのを諦め、当時バイトしていたサクサフォンの正社員になることを伝えると、父親は嘲るように鼻で笑った。「それ見たことか」と言いたげな父親の態度が、プライドの高い美奈を激高させた。

 美奈は自ら夢を諦めたことを棚に上げ、父親に食ってかかった。自分に歌の才能がないのは、両親の遺伝のせいだと怒鳴り散らした。

 父親の目は冷め切っていた。冷たく突き放すような目だった。

「大学に行ってりゃよかったんだ」

 父親のひと言が、美奈からも熱を奪った。

 結局、自分の思い通りにならないと、気が食わない。いつまでも子供扱いで、こっちの気持ちなんて考えていない。

 美奈は、もう両親にはなにも期待しないと、そのとき心に誓った。

 客観的に見れば、父親と娘が喧嘩別れして音信不通になるほどの大きな問題ではなかった。実際、事情を知る周囲の人間は、美奈に両親と仲直りするよう勧めた。しかし美奈は意地になっていた。両親の言いなりにならず、自分だけで道を切り開くのだ。

 それ以来、約五年間、美奈は両親と連絡を取っておらず、実家にも帰っていない。

 ただ、奈央とだけは、たまに連絡を取り合い、彼女が東京へ出てきたときに会うことがあった。


『みなちーん、みなちーん』

 奈央はいつまでもメッセージを送り続けていた。

 画面にどんどん増えていくメッセージを見ながら、美奈は泣いた。

 かつて持っていたひとりでもやっていけるという自信は完全に消失していた。海に放り込まれた金魚になったみたいだった。

 自分がこんなところでなにをしているのかわからない。ただただ息苦しく感じられた。

『みなちんのバカちん! バカちんみなちん! 略して、ちんちん!』

 奈央はしきりにメッセージを送り続けていた。

 美奈はベッドに座って時の止まった空間を眺めていた。

 仕事を辞めて一週間になる。その毎日をこの部屋にこもって過ごした。ここには、昨日も今日も明日もなく、ただ永遠に続く物寂しい闇が広がっているだけだった。

『略し方がおかしい(笑)』

 美奈はスマホを顔の前に掲げ、奈央に返事を打った。送信するとともに既読になって、すぐに返事が来た。

『みなちーーーーーーーーーーーーーーーん!』

『わかったから(笑)』

 そう打ってから、意を決した。

『近いうちに帰るね』

『ほんとに⁉︎ ほんとのほんとに⁉︎』

『お店がリニューアル工事で休業になったから』

 美奈は嘘をついた。

『帰る日が決まったらまた連絡するね』

『ひゃっほい!』

 美奈はスマホのスイッチを切って、ベッドの上に放った。

 過去など存在しないようだった。すべてが夢まぼろしで、いま、ふと目が覚めただけであるような感じがした。いずれどこかで再び目覚めて、いまの自分も夢の中の住人であることが明らかになるのではないかと思った。

 美奈はコルセットを撫でながら、目だけで部屋中を見回した。現実的なものはなにひとつ見えなかった。

 ただ、いままで積み上げて来た自分の人生の、無残に崩壊した瓦礫の山を眺めているかのようだった。

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