19.退職

 翌日、アヒルが貸し切られ、飲み会が開催された。

 優子のライブ成功を祝すという名目だったが、内容は普段の飲み会と変わらない。参加者も、サクサフォンの従業員と木星屋店主の良介という、いつもどおりの面々だった。

 貴之と美穂は酒や料理の準備をする係で席にはあまり着かなかった。ただ、葵はウェイトレス用のエプロンをしたまま席に座り、一番飲んで、一番喋った。

「ってかさ、大森くんフリーなら来ればよかったのに」

 葵がアヒル特製のピクルスをつまみながら大森に言う。

「本当、大森くんにも聴いて欲しかったわ、わたしの美声」

 優子も残念そうに言って、ピクルスを口に放り込んだ。

 大森が申し訳なさそうに頭をかく。

「オレも聴きたかったっす、ゆうたんの美声」

 葵がピクルスを飲み込み、口を開いた。

「大森くん来ないって言うから、いつの間にか彼女ができたのかと思ってた」

「いやあ、いないっすね。昨日はサークルの飲みがあったんす。でも、マジでゆうたんのライブ行きたかったっす」

「本当に来ればよかったのにぃ。フリーの女の子たくさんいたよぉ、食べ放題だよぉ、ねぇ、美奈さん」

 葵が美奈を見る。美奈は口角を上げて小さく「うん」と答えた。

「いやぁ、オレ、人見知りが激しいんすよね、初対面の人と話すと頭の中真っ白になるんすよ」

「よく言うよ。大森くん、サクサフォン入ったばっかの頃、葵ちゃんにちょっかいかけまくってたじゃん」

 久美子が茶化す。大森がむせる。

「たしかに大森くん、私のこと狙いまくってたよねぇ、マジでキモかった」

「ちょ、勘弁してくださいよ」

「でも急にアタックしなくなったよね」

「良介さんにどやされたんです」

 皆が良介を見る。良介が首を傾げる。覚えていないらしい。

「どうして俺がどやすんだ」

「いやいや良介さん、覚えてないんですか? 葵さんに手を出したら、俺がおまえに手ぇ出すぞって、ドスのきいた声で言ってきたじゃないですか!」

 良介が笑う。思い出したらしい。

 葵が良介を睨む。

「ちょっと良介さん! なんでそんな邪魔をするようなこと言うの!」

「いや、俺はさ、仲間内で恋愛のゴタゴタが起こってほしくねぇんだよ。破局したら気まずくなるだろ。そしたらこうやってみんなで飲めなくなる」

「だからって!」

「それにおまえはな、だれかれ構わず寝過ぎだ。こないだ俺の店の客と寝ただろ? おまえ噂になってんぞ、だれとでも寝るウェイトレスだって」

「だって出会いは大事にしたいじゃん! 乳繰り合うも多生の縁だよ」

「袖振り合うも多生の縁だろ」

 笑う良介を見ながら大森が頷く。

「いずれにしてもよかったっすよ。葵さんマジでガツガツ系だから、オレの手には負えないっす」

 良介が「だろ?」と言うように眉を上げる。

「大森くんって、ここにいる女性陣だったら、葵の顔がタイプなの?」

 エミが興味津々に訊ねる。大森が頭をかきながら皆の顔を見回した。

「いや、美奈さんっすね」

 あっけらかんと言う。葵がおしぼりを投げつける。

「結局あんたも美奈さんかよぉ!」

「いや、だって、美奈さん超絶的に美人じゃないすか。オレ、初めて見たときビックリしたっすもん、こんな美人がいんのか! って」

「でも、私にちょっかいかけてたじゃん!」

「いや、オレ、美人すぎる人とは初対面で話ができないんっす。どこか、へちゃむくれなほうが……」

「ウザァ!」

 葵が箸を取って投げつけようとする。

「いやいや、でも考えてもみてくださいよ。葵さんだって男に生まれ変わったら絶対、美奈さんがいいでしょ!」

「いや、私、男に生まれ変わってもゲイになって男漁りするから」

 美奈以外の全員が笑った。

 楽しい空間の中で、美奈は、孤立していた。

 初対面の人たちと、初めて来た場所で話をしているようだった。会話に入ることができず、話を振られても笑みを浮かべるのが精一杯。皆が宇宙人にでもなってしまったかのようで怖かった。

 いたたまれず、「ちょっとお手洗い」と席を立った。


 トイレは店の外にあり、サクサフォン、木星屋、アヒル共用になっている。

 美奈はトイレに入り用を足し、しばらくそこでぼんやりしていた。あまり遅くなっても心配されると思い、五分くらいして外へ出た。

 アヒルの前に二人組の若い男がいた。かなり酔っていて、なにやら言いながら店の中を覗いている。

「なんで貸切なんだよ」

「どれだよ、その、すぐやらせてくれる店員って」

「見えねぇ」

「マジでなんで貸切なんだよ」

 いかついプレイボーイ風だった。普段だったら避けて通るが、このとき美奈は心がうつろだった。なにも考えずに二人に近寄り、「どうしたんですか?」と声をかけた。

 二人はびっくりしたように振り返り、美奈の顔を見て相好を崩した。

「すげぇ美人」

「こっちでいいじゃん」

 酒臭い息を吐きながら、ぐいぐい体を美奈に寄せて来る。美奈はとっさに手で押し返そうとしたが、逆にその腕を掴まれてしまった。

 それから数分の記憶が飛んだ。

 気がついたら美奈はトイレの個室で、服を半分脱がされた状態で座っていた。

 コルセットに引っかかるようにして、首がかなり傾いている。美奈の視線の先には、トイレの天井があった。

 二人組はそれには気付かず、必死に美奈の胸をまさぐっている。

 美奈も以前から男好きではあったが、葵と違い、だれかれ見境なく体を許していたわけではなかった。好きではない人ははっきりと断ったし、無理やり犯されそうになったときは悲鳴を上げたり暴れまわったりして拒絶した。しかし、このときはそれができなかった。自暴自棄になっていたのかもしれない。

「おい、おめぇらなにやって……ええ? 清水さん! 嘘だろぉ!」

 そういう声に美奈は我に返った。明らかに動揺した、震えた声だった。二人組が慌てて逃げ出す。

「嘘だろぉ! おい! おめぇら! 待て! こら! 嘘だろぉ!」

 それは良介だった。

 かなり焦っているようで息が荒く、ロイド眼鏡の向こうの目玉がきょろきょろ動き回っている。あり得ない角度で曲がっている美奈の首が、折れてしまっていると勘違いしたらしい。

 すぐに美奈の腕を取って、脈を調べた。それから鼻と口の前に、手を添えて、呼吸を確認した。

「よかった、生きてる!」

 良介は安堵の表情を浮かべた。凛々しい眉毛が子犬のように垂れていく。着ていたカーディガンを脱いで、露わになった美奈の上半身を覆った。

「すぐに、救急車呼ぶから!」

 美奈は慌てて首を元の位置に戻し、まくれあがっていた服を下ろした。

「呼ばなくて大丈夫だから!」

 上ずった声で叫ぶ。良介はスマホを操作する手を止めて、ビックリしたように美奈を見た。

「え? あれ? 清水さん、首は? 平気なの?」

「大丈夫だから、大丈夫だから」

 美奈は同じことをただ繰り返すだけだった。

 困惑する良介を尻目に、美奈は何事もなかったかのようにトイレから出て、そのまま駆け足で家に帰った。


 翌日、美奈はサクサフォンに退職届を提出した。優子は驚いて、久美子は泣きだした。それでも美奈は頑なに退職すると言い張った。

 理由は明確にしなかったが、二人は良介から話を聞いていたのだろう、前夜の強姦未遂事件が関係していると思ったようだった。否定するのも面倒だったので、そういうことにしておいた。

 結局、休職扱いで処理されることとなった。

 優子は「いつでも戻ってきなさい」と言ったが、美奈にその意思はなかった。

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