16.葵と橋田
土曜日は今シーズン一番の冷え込みで、雪が降るのではないかと思えるほど寒かった。
美奈は一日中マフラーを巻いて、首のコルセットを隠していた。
ライブは夜七時から始まるとのことだった。
三時頃家を出て、アヒルのソファ席でコーヒーを飲みながら『ミスター・ロンリネス』の原作を読んでいた。恋人のいない人だけが入場できるライブには、葵と良介も参加することになっており、美奈は二人を待っていた。
「フリーの人しかいないってことは、そこにいる男はみんな食べ放題メニューに入ってるってことですよね!」
葵は店が暇なのをいいことに、いつまでも美奈の側に立っておしゃべりをしていた。美奈は小説に集中したかったが、邪険にする気にはならず、言葉だけで相づちを打っていた。
五時に葵が上がり、良介が来るのを二人で待った。
六時過ぎに、良介がやってきた。普段より二時間早めに店を閉めたらしい。
美奈たちは貴之と美穂に送り出され、ミュージックバー「オールウェイズ」を目指した。
オールウェイズはサンロードを突っ切った先の路地にある。道沿いの階段を降りた地下に店の入り口があり、中に入ると、右手にレジ台がある。店員の女性が立っていて、チケットを見せるよう言ってくる。
美奈たちはチケットを渡し、ドリンクの引き替え券代わりのギターのピックを受け取った。
店内はかなり広い。
壁のいたるところに楽器を演奏するブルースシンガーの白黒写真が飾られている。
すでに結構な数の客が入っていた。音楽が好きそうな人たちばかりで、それぞれ顔見知りなのか、アルコールを飲みながら楽しげに会話をしている。
店の中央にグランドピアノが置いてあった。普段はその周りをぐるりとテーブル席が囲んでいる。しかしライブがあるので、今日は壁側のテーブル席がすべて取り払われており、代わりにドラムセットやアンプ、マイクスタンドやらが設置されていた。
美奈たちはグランドピアノの近くの席に腰を落ち着けた。ここならまっすぐステージが見える。
良介は知り合いを見つけたらしく、声を上げて席を立った。葵はきょろきょろと周囲を見回し、いい男がいないか物色し始めた。
「そうだ、ピックをドリンクに替えなくちゃ」
葵が思い出したように立ち上がる。
「美奈さん、なに飲みます?」
「じゃあ、生」
「さっすが美奈さん。エッチと飲みは、とりあえず生ですよね!」
下品なことを言いながらバーへ駆けて行く葵を見送り、美奈は目を閉じた。
周囲に人がいる状況が怖く感じられた。ライオンの群れに囲まれている、足をケガしたガゼルのような気分だった。
数分ほどして葵が戻ってきた。
「お待たせしました」
と言いながら、生ビールとジントニックをテーブルに置く。
「どうぞ、座ってください」
それからそう言って、だれかに座るよう促した。美奈が目線を上げると、ウイスキーのロックを手に持った男が、テーブルの脇に立っていた。
「ありがとう」
男は言って、美奈の右手側の席に腰掛けた。葵が左手側に座る。
「美奈さん、こちら、橋田さん。橋田さん、こちら、サクサフォンで働いてる、美奈さん」
美奈は気持ち頭を下げ、すぐに葵に視線を移した。葵は「めちゃくちゃカッコイイでしょ?」とでも言うように、目をくりくりさせていた。
確かに男前だった。日焼けしていて、彫りが深く、高身長。長めの髪の毛をオールバック気味に寝かしつけて、ワイルドな印象がありながら口元には優しい笑みが浮かび、二重まぶたの中で光る黒目がちの瞳にはどことなく知性が溢れている。
「すみません。彼女に促されるままにのこのこやって来ちゃって、迷惑じゃないといいんですが」
申し訳なさそうに言う。図々しくもない。
美奈の胸は高鳴り、ドクンドクンと気持ちが悪いくらい大きな音を立てた。しかしそれは、獲物を見つけた肉食獣が抱くような、体が疼く興奮とは違った。トイレで用を足しているときに突然ドアを開けられたときのような、そんな情けない焦燥感に近かった。
「ふたりは、知り合いなの?」
美奈は動揺を悟られまいと、努めて明るい声で葵に訊ねた。葵は、口に運んでいたグラスを慌ててテーブルに置いた。
「あ、そうそう、橋田さんは、アヒルにたまに来るんです。つまり、アヒルのお客さんです」
「そう、たまにね」
橋田が相槌を打つ。
「実はね、サクサフォンにも何度か行ったことあるんだよ。店長と知り合いだから」
「え、じゃあ美奈さんと会ったことあるんじゃないですか?」
「ううん、それがね、たぶん、俺が行ったときにはいなかったんだと思う」
葵がジントニックを飲んで、首を傾げた。
「今日のこのライブ、だれに誘われて来たんですか?」
「谷口ってやつ」
谷口は、優子や隆一が所属している「コールド・ウォーターズ」のボーカリストである。
「ライブが土曜日でよかったよ。土曜日はこっちで授業があるから」
「そうですよね。アヒルに来るのも土曜日ですもんね」
「授業後にアヒルのコーヒー飲むのが好きでね」
「今日、来なかったですね」
「うん、今日はちょっと学生の相談を受けてて」
「あ、美奈さん、そういえば橋田さん、大学の教授なんですよ」
葵が思い出したように言う。美奈が「へぇ」と感心するよりも先に、橋田が恥ずかしそうに訂正する。
「教授じゃないよ。非常勤講師」
「なにが違うんですか?」
「いろいろと違うよ。教授ってのは自分の研究室を持ってて……」
「美奈さん、橋田さんは美術史の教授なんですよ」
「聞いちゃいねぇ」
呆れ笑いを浮かべてはいるが、橋田には人を小馬鹿にするようなイヤらしさがない。自由奔放な葵との会話を心から楽しんでいるようだった。
「週に四コマだけね、吉祥寺の大学で、美術史とイタリア語の授業を持ってるの。土曜にイタリア語二コマと、木曜に美術史二コマ。本職はギャラリーの経営」
橋田が表情を改めて美奈に説明した。
葵がわざとらしく眉間に皺を寄せた。意地悪そうな目で美奈を見る。
「ギャラリーの経営ってなんのことかよくわかんなくないですか? だから私、教授のほうが聞こえがいいですよって、いっつも言ってるんです。でも、ぜんぜん言うこと聞いてくれないんですよ、この変態」
「だって教授じゃないし、え? なんか突然変態呼ばわりされたんだけど」
橋田は耐えられないというように顔を突っ伏して笑い始めた。ツボに入ったらしい。笑って貰えたのが嬉しかったのか、葵が頬を赤くしながら、食いつくように前のめりになった。
「ところで、橋田さん。今日、このライブに参加したってことは、フリーってことですか?」
「そうだよ」
「なんか意外ですね。橋田さんって、三股くらいしてそうなイメージだったのに」
「大いなる誤解だよ」
橋田が目を見開いて首を振る。表情は楽しそうだ。
「三股どころか、過去に付き合った女性の数も三人に満たないよ」
「ええ? 橋田さん、いままで何人と付き合ったんですか?」
「二人」
「二人ッ?」
葵がジントニックを噴き出した。
「橋田さんって何歳ですか?」
「今年で三十七」
「三十七で二人って、割り切れないじゃないですか!」
「三十七を二で割ってなにを導き出そうとしているのか知らないけど、それぞれの交際期間が長いからね。最初の彼女は、高校二年のときに付き合い始めて、大学院の修士課程が終わるまで続いたよ。修士号取った後、俺がローマの大学院に留学するってときに、遠距離になるだろ? それに、俺、ゆくゆくはイタリアで働きたいと思っていたからさ。一緒にローマへ行こうと言ったんだ。そしたら、無理だってことになって。彼女は就職決まってたからね。別れることになったんだ。俺はイタリアが大好きだけど、あのときだけは、イタリア好きの自分を恨んだよ」
橋田はウイスキーグラスを揺らしながら力なく笑った。
「それで、二人目は?」
葵が興味津々で訊ねる。
「二人目は、ローマで出会ったんだ。俺が向こうの大学院の博士過程二年のときに、彼女は学部の四年生で。俺が入ってた研究室の学生だったんだ。学位論文の手伝いとかしてあげているうちにね、恋に落ちてた」
「日本人ですか?」
「いや、イタリア人だよ。シチリア出身。カナレットっていう十八世紀のヴェネチアの画家の研究をしていてね。彼女自身も絵を描くんだ。風景画が主なんだけど、一度、俺のことを描きたいって言うから。描いて貰った」
「何年くらい続いたんですか?」
「彼女とは、俺が日本に帰国するまで続いたから、八年くらいかな」
「八年も……どうして結婚しなかったんですか?」
「うん。彼女も大学院に進みたいって言ってね。彼女、大学教授になるのが夢だったんだ。それで、自分が博士号を取得して、ローマの大学でポストを得るまでは、結婚はしないって言うもんだからね。待つことにしたんだよ。俺はローマの美術館で学芸員の仕事をして、彼女は勉強を頑張って。で、彼女は博士号を取得して、ローマの大学で授業を持てるようになった。まだ教授ってわけではなかったけど、教授になるためのスタートラインに立てたわけだからね。プロポーズしようと決心したんだ。彼女もそれを望んでいるようだったしね。でも、そんな矢先に、日本の家族から連絡があって。日本に帰って来いって。俺は長男なんだよ。……ここまで言えばわかるでしょ?」
「日本に帰っちゃったんですか?」
橋田は頷いた。
「仕方なかったんだよ。本当は、イタリアに留学するのも反対だったんだから、うちの両親は。まぁ、それで、父親の体調が優れないとかで、すぐに駆けつけられる場所に戻ってくれって母親が連絡してきてね。こうなったら彼女も連れて日本に帰ろうか、ってなったんだ。でも、彼女は夢の第一歩をスタートさせたところだろ? 日本には行けないってことになって、それっきり。あのときばかりは、自分が日本人であることを恨んだね」
「それっきり、誰とも付き合ってないんですか?」
重い恋愛が大嫌いな葵も、どこか神妙そうな面持ちだった。
「何年前の話ですか?」
「三年前。それっきり、誰とも付き合ってない」
「付き合えばいいのに。橋田さん、モテそうだし、失恋の傷を癒やせるのは新しい恋だけですよ」
「うん。わかってるけどね。どうも、うまくいかないんだよ」
「うまくいかないってなんですか。とりあえず片っ端からナンパすればいいじゃないですか。俺、大学の教授なんだぜ、って」
「教授じゃないけどね。でも、やっぱり女性と付き合うってのは、すべてをその人ひとりに捧げなくちゃならないってことだから。すべてを諦めて」
「どういうことですか?」
「例えば、好きな食べ物ってある?」
「好きな食べ物? カレー」
「じゃあ、カレーが好きだとしてね、毎日三食、カレーライスしか食べられないとしたら?」
「最高じゃないですか!」
「いや、死ぬまでだよ? カレーライス以外、食べられないの。来る日も来る日も。お寿司が食べたい、パスタが食べたい、ラーメンが食べたい、でも食べられない。カレーライスだけ」
「そんなんイヤです。牛タン食べたいです」
「でしょ? 俺も、そうなんだ。素敵な女性はたくさんいるけど、一生、その人だけ、って言われると、ちょっと待ってくれって、なっちゃうんだ。俺は、一生その人だけって言われても、構わない! って即答できるような人としか付き合いたくないんだ」
「ええ、そんなの無理ですよ。恋はビュッフェスタイルじゃないと」
「ビュッフェスタイル?」
「そうです。お皿とお箸を持って、好きな料理を好きなだけ食べる。『食べ放題じゃないとイヤだ系女子』です」
橋田がまた声を出して笑った。葵も笑う。
「でも、一生それだけしか食べられないとしても、飽きずに毎日満足できるって、たしかに素敵ですね。私もそろそろ、『定食で我慢できる系女子』になろうかな」
無限の食欲を持つ葵らしからぬ発言だった。うっとりした瞳で、濡れるような視線を橋田に注いでいる。
「『定食で我慢できる系女子』ってなんだよ」
橋田は涙を流しながら笑っていた。
恋愛観がまったく違うはずの二人だったが、どういうわけか、そこには二人の世界ができあがっていた。
美奈はまるで、その場にいないかのようだった。
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