14.ゆうたんと二人飲み
月曜午後九時のアヒルはそれほど混んでいなかった。入り口正面にあるカウンター席でウイスキーをちびちびやっている仕事帰りのサラリーマンがひとりいるだけだ。
店内にはクイーンの「ボヘミアン・ラプソディ」が流れていて、あとはカウンターの向こうで貴之と葵がおしゃべりをしている声が聞こえてくるだけだった。
美奈と優子は店の奥のソファ席に向かい合って座っていた。右手の位置に窓がついていて、表の路地を見下ろせる。アヒルの中でも一番落ち着く場所だった。
優子は、美奈が喫煙所で良介の愚痴を聞いているときに出勤して、久美子から話を聞き、心配して喫煙所に顔を出したのだった。
『久美子が、美奈の顔がひどいなんて言うから、どんな顔なのかと思ったら、ホントにひどい顔でびっくりしちゃったわ』
優子はそう言って、今夜アヒルで飲むことを美奈と貴之に告げたのだった。
話をする気分ではなかったが、優子となら気を張らずに話ができるのではないかと思った。優子は姉のような存在で、長女の美奈にとって唯一甘えられる同世代の女性だった(同世代と言っても、優子は美奈より六歳年上だった)。
「もうすっかり、クリスマスね」
優子はシャンディガフを飲みながら窓の外を見た。少し高い位置から井の頭公園へつながる表の路地を見下ろせる。美奈はちらりと、横目で窓の外を見た。クリスマスまで一ヶ月を切った街並みは、緑と赤の装飾で溢れていた。
優子がアヒルの店内を見回す。美奈も視線をアヒルの店内に移した。
アヒルの店内は普段通り、レンガ調の壁紙が薄オレンジの間接照明に照らされているだけだった。『イージーライダー』や『イーストサイドストーリー』のポスターが貼られてあり、店の隅には動かないジュークボックスが置かれている。店内BGMはトラックが変わり、クイーンの「レディオ・ガガ」が流れていた。
「この店からはクリスマスムードのクの字も感じられないけど」
優子が呆れたように言って、体をのけぞらせカウンターを見た。美奈はビールをひと口飲んだ。
「でも、いまの私にはちょうどいいかも。クリスマスムードはちょっと耐えられない」
美奈は正直な気持ちを言った。実際、カップルが幸せそうに歩くクリスマスの雰囲気は美奈をかなり惨めな気分にさせた。これまでクリスマスシーズンに寂しさを感じたことはなかった。中二のときに初めての彼氏ができて以来、クリスマスに相手がいないことなどなかったのだ。
「クリスマスなんてなくなればいいのに」
ため息をつく美奈を、優子はテーブルの上に頬杖をついて、じっと見つめた。切れ長なのに大きく見える優子の目が美奈を捉える。美奈はばつの悪さを感じて、慌ててジョッキを口に運んだ。
「そんなこと言っちゃだめよ」
優子がぽつりと言った。顔は笑っていたが、その声はどこか寂しげだった。
美奈はジョッキをテーブルに置いた。優子がわざとらしく目を細めて美奈を睨む。
「わたしはクリスマス大好きなんだからね」
「ゆうたんは彼氏がいるからだよ」
「あら、彼氏がいなくちゃクリスマスを幸せに過ごせないなんて、そんなことはないわよ」
「どうしてよ。彼氏がいなくちゃひとりぼっちじゃん」
「ひとりぼっちでもいいじゃない。わたしだって、今年は隆一がいるけど、去年と一昨年はひとりだったのよ。それでもクリスマスは、幸せな気分で過ごしたわ」
優子はひと口シャンディガフをすすり、上唇で下唇を覆うようにして口を閉じた。それからコップのふちを指で拭いながら、少し考えて、口を開けた。
「どうしてわたしが、ひとりだったのにクリスマスを幸せに過ごせたか、教えてあげようか?」
「うん」
「わたしは自分の幸せじゃなくて、他人の幸せを願うことにしているのよ」
優子はにっこり笑った。
どうして他人の幸せを願うことが自分の幸せになるのか、美奈にはわからなかった。自分が幸せにならなければ、ただ惨めな気分になるだけではないか。貧乏人が大金持ちの生活を見て満足するようなものだ。
半信半疑でいる美奈に気づいたのか、優子は前のめりになった。
「わたしだってね、聖人じゃないから、年がら年中、他人の幸せばっかり願ってはいられないわよ。無償の愛なんて凡人には実践できないんだから。でもね、せめてクリスマスくらいは、自分ではなく、他人の幸せを願うようにしているの。不幸な気分になるのって結局、自分の幸せばかり追い求めているからなのよ。でも、他人の笑顔を願えれば、幸せの種ってそこらじゅうで見つけられるものなんじゃないかって思うわ」
美奈はいままで、自分以外の人間の幸せを本気で願ったことなど一度もなかった。
恋人の幸せすら願ったことがない。ただその男が自分を幸せにしてくれることだけを望んだ。それができないとわかれば、すぐに捨てて別の男を見つけた。その繰り返しだった。
繰り返し……。
当然だ。
美奈は思った。
だって私は、どうしたら幸せになれるのか、知らないのだから。
「幸せってなんなんだろうね、ゆうたん」
美奈は視線を落とし、つぶやいた。幸せとはなにか……そんな間抜けな質問を自分がだれかにすることになるとは夢にも思っていなかった。
優子は笑うと、腕を組んで「うぅん」と首を傾げた。
「人それぞれ違うとは思うけど、少なくとも、『幸せってなんだろう?』っていう疑問を抱いている内は、幸せとはほど遠い状況だと思うわ」
優子は笑い、シャンディガフを一気に飲んだ。体をのけぞらせ、大きな声でおかわりを注文する。貴之の返事が聞こえる。
「とにかくね、美奈、幸せになりたかったら、卑屈になっちゃダメよ。クリスマスシーズンにカップルを妬んでいるなんて、美奈らしくない」
「でも、クリスマスって、もともとは家族で過ごすものでしょ? 日本だけだよ、クリスマスをカップルで過ごすなんて」
「あら、恋人は将来家族になるかもしれないでしょ?」
「ゆうたんとディベートして勝てる気がしないや」
「美奈だって去年まではカップルで過ごしてたでしょ。なにが、家族で過ごすもの、よ。……ところで実家にはまだ帰ってないの?」
「うん……別に帰りたくもないし」
優子の問いに美奈は下唇を噛んだ。
葵がシャンディガフを持ってやって来た。黒いシャツにアヒルの刺繍が施された前掛けをして、黒い髪の毛を後ろで結ってアップにしている。
「美奈さん、この間の男の愚痴ですか?」
テーブルに置きながら美奈の顔を見る。
「あのカメラマン、ひどい男だったんですよね? エミから聞きました。ホント、鼻クソの食い過ぎで死ねばいいのに」
葵は眉間にしわを寄せ、同意を求めるように口を「ねぇ?」と動かした。美奈はとりあえず「うん」と笑って返事をした。葵は空になったコップを持ってその場を後にした。
「ゆうたんの幸せってなんなの?」
美奈が訊ねると、優子は眉を上げ、顎に手を当てた。
「わたしのデザインが世界中で人気になって、サクサフォンが世界展開して、オシャレな服を着て、毎日美味しいものを食べて、美味しいお酒を飲んで、隆一のバンドが世界で活躍して、美奈や久美子やエミや大森くんが幸せになって、世界に平和が訪れて……」
「欲張りだね」
美奈は吹き出した。優子も声を出して笑う。
「幸せに妥協はできないのよ」
「私が幸せになることも、ゆうたんの幸せなの?」
「そうよ」
優子ははっきりと言った。
「美奈の幸せはわたしの幸せの一角を担うの。だから、美奈には幸せになってもらわないと、わたしが困るのよ」
「プレッシャーだな」
「美奈、絶対に幸せになりなさいよ。幸せにならなかったら、私がこの手で幸せにしてやるからね」
目は真剣だった。
自分の幸せがだれかの幸せの一部になるなど、美奈はそれまで一度も考えたことがなかった。プレッシャーを感じたが、なぜだかとても嬉しかった。美奈は小さく「はい」と返事をした。
それから優子は、今週の土曜日に吉祥寺のジャズバーでライブをすると美奈に告げた。
「孤独をテーマにしたライブなのよ。だから恋人のいた美奈は呼べないと思ってて、久美子だけ誘ってたんだけど、いま、美奈はフリーでしょ? 久美子は彼氏ができたけど」
美奈は気が進まなかった。孤独がテーマのライブに参加するなど、自ら率先して「私は魅力のない女です!」と触れ回っているようなものという気がしてならなかった。しかし、優子の目を見ていると、断る気は起きなかった。
「わかった。行くよ」
優子は胸の前で叩くようにして手を合わせた。
「決まりね! これ、チケット」
美奈は優子がバッグから取り出したチケットを受け取って、財布の中にしまった。
「美奈もステージに上がって歌えばいいのにって思うのよね」
「なんでよ」
「美奈は歌が上手いしね」
「私くらいの歌い手はごまんといるよ」
美奈は専門学校に通っていたこともあり、人並み以上には歌が上手かった。音域が広く、声量もある。一時は本気で歌手を目指していたこともあった。
「私はステージで歌えるほど上手くないよ。カラオケでびっくりしてもらうのが関の山」
優子が腕を組んで美奈を見つめる。
「わたしは美奈の歌、好きだけどな」
「私は才能ないから」
「才能のない人が歌う歌のほうが、心に響くこともあるのよ」
優子はいたずらっ子のように歯を見せて笑った。
結局その晩、美奈と下田のデートに関する話題はいっさい出なかった。優子なりに気を遣ってくれていたのかもしれない。かなり、気分が楽になった。
美奈は何度か首がもげた事実を優子に言おうと思った。しかし、「相談があるんだけど」という言葉がいつまでも出てこなかった。
十時半頃解散し、家路に就いた。家の最寄り駅に着くと、美奈はなんとはなしにレンタルビデオ屋に寄って、映画『ミスター・ロンリネス』を借りた。孤独について少し勉強しようと思った。
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