12.ゴースト再来

 土曜日は一日中家にいて泣きはらした。頭は枕の上に転がっていて、体は床に転がっていた。

 頭は熱く、体は冷えていた。風邪でもひけばいいと思った。自分が自分ではなくなったようで、自分自身のことが他人事のようだった。

 

日曜日も一日中家にいた。風邪気味だと優子に連絡をして有給を取った。風邪などひいていなかった。仕事をする気になどなれなかった。

 体をベッドにのせて、いつまでも布団にくるまっていた。心はどこまでも落ちて行った。天国への階段を地上のほうへ転がり落ちていくようだった。

 美奈は恐ろしくなって、必死にもといた場所へ戻ろうとした。しかし、いくらもがいても空は遠ざかっていく。やがて力尽きて、いつの間にか眠っていた。

 目が覚めると、多少落ち着いていた。窓の外は薄暗く、鳥の鳴き声が小さく聞こえてくる。まだ朝早いらしい。

 美奈は首を体にあてがい、テーピングを巻いてコルセットを装着した。コーヒーを飲みながらぼんやりしているうちに、日が昇った。

 美奈は仕事に出かけた。

 サクサフォンの控え室に入ると、久美子とエミが出勤していて、美奈を見つけるなりいろいろ言った。

 二人は美奈が昨日休んだのを仮病だと見抜いていた。レイが下田から話を聞き、そのレイから話を聞いたのだろう。二人はデートのいきさつを大体把握していた。ただ、二人は、下田のあまりの甲斐性のなさに美奈が憤慨し、有給を使って「怒りのふて寝」を敢行したものと思っているようだった。

 たしかに下田のしたことは腹立たしいことだった。普段の美奈なら、なんとしてでも、もう一度下田を呼び出して、とんでもない大恥をかかせて仕返ししてやるところだった。しかし、今回はそんなことをする勇気はなかった。そんなことをすれば、自分自身の恥を上塗りすることになるような気がしてならなかった。

 美奈が傷ついているとはつゆとも知らず、久美子とエミはしきりに下田の悪口を言い続けた。美奈も二人の話に相槌を打っていた。

「やっぱり下田くんはないね。あの人こそミスター・ロンリネスと付き合ってろって感じだよ」

「美奈さんならもっと上を目指すべきですよ」

 久美子とエミは美奈の援護をするように言っていたが、美奈はそれ以上二人と話しているのが辛くなって、売り場へ出た。

 半開きになっていた引き戸を全開にし、店をオープンする。

 月曜日だからか、開店直後の来客はない。

 美奈は女性もののジャケットコーナーをふらふら歩きながら時間が経つのを待った。久美子とエミが控室から出てきて、なにやらおしゃべりを始めた。美奈はその話を意識的に聞かないようにして、二人から遠ざかるように男性物のデニムコーナーに入った。

 そこでぎょっとした。

 デニムコーナーに、ゴーストがいた。ギターのハードケースを片手に持ち、ぼぉっと突っ立ってデニムを見ている。

 いつ入ってきたのかはわからない。サクサフォンは板張りの床だからそもそも歩けば足音がするし、入口のあたりは床が傷んでいるから、誰かが来れば木の軋む音が聞こえてくるはずだった。店内はフレディ・キングのブルースが静かに流れているだけで、入店に気がつかないはずがない。

 本当に幽霊なのではないか。

 美奈は恐る恐るゴーストに脚があるかどうか確認した。脚はあった。

 美奈がボンヤリしていると、反対側から久美子が顔を出して、ゴーストの存在に気がつき目をまん丸にして驚いた。久美子はすぐに逃げ出そうとしたが、ゴーストとの距離が近すぎて、そこにいるのを気付かれてしまった。

 不承不承に作り笑いを浮かべ、ゴーストに声をかける。

「いらっしゃいませ。今日も来られたんですね」

 ゴーストは久美子を一瞥すると、小さく頷いてすぐにまたデニムに視線を戻した。ゴースト越しに久美子が仏頂面で美奈を睨む。美奈は顔の前で拒否するように手を振った。久美子がゴーストを自分に押し付けようとしているのがわかったからだった。

 美奈が必死に手を振っても、久美子はおかまいなしだった。

「あちらに、オススメがありますよ」

 そう言って、美奈のほうへ手をかざした。ゴーストが美奈を見る。

 眠そうな目を大きく見開き、目がキラキラと輝きだした。それまで空中遊泳していた魂が、肉体にストンと戻ってきたかのようだった。

 ゴーストのそんな目をいままで見たことがなかった。淀みのない黒眼はブラックホールを思わせた。覗き込んだが最後、吸い込まれてしまってもう二度とは戻ってこられないような、ある種の恐怖を抱かせる深い闇のような目。それでいてその目は、見る者の目に吸い込まれそうな弱々しさもたたえていた。

 美奈はゴーストに見つめられて初めて、背筋に寒さ以外のものを感じた。

 ゴーストはしばらく美奈を見つめ、すぐに目の前のデニムを無造作に掴んだ。それを持って歩いて来て、美奈の前に立った。美奈は上目遣いにゴーストの顔を見上げた。ゴーストの目はいつも通りの、生気のないものに戻っていた。

「……さい」

 相変わらず声も小さい。

「そちらのデニムをお買い上げですか?」

 ゴーストは首を横に振る。デニムを脇に挟んでロングコートのポケットに手を突っ込んで、うめくような声を出す。

「ああ、ああ、ああ……」

 顔面が青白くなり、少し体が震えているようだ。美奈の背後になにかあるのか、しきりにそっちに目をやっている。

 美奈は怖くなり、ゆっくり、体ごと後ろを振り返った。どうかこの世のものではないものがいませんようにと祈りながら。

 振り返ると、ベルトがかけてある棚の陰からエミが心配そうにこちらを見ていた。「大丈夫ですか?」と目で訊ねてくる。

 美奈は安心して、口元に笑みを浮かべた。

「……ください」

 再び向き直ると、ゴーストがデニムを差し出していた。

「こちら、お買い上げですか?」

 ゴーストは黙って頷いた。

 結局ゴーストは二万円のデニムを買って帰った。帰り際にまたなにか言おうとしていたが、もごもご言うだけでなんと言っているのかは聞き取れなかった。

「やっぱりゴースト、美奈のこと好きなんだよ!」

 ゴーストが行ってしまうと、久美子が興奮気味に言った。

「だってゴースト、昨日も一昨日も来てたんだよ? いままで連続で来ることなかったし、それにね、なんにも買わずに帰ってたんだから。店の中うろうろして、私たちが話しかけても無視で、美奈がいないことに気がついたら寂しそうに帰るの」

 久美子は茶化すように言い続けた。やがてエミも加わって、次第に話題は美奈にあてがう次の男についてに変わっていった。

 美奈はゴーストのキラキラした目を思い出していた。その瞳は、絶望の闇を優しく照らしているようにも思われた。

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