11.下田とデート
恵比寿駅に昼の二時に集合だった。
お泊まりになったときのことを考えて、勝負下着を取り出した。化粧品や洗顔シートなど、基本的なお泊まりセットはいつもバッグに入っている……。
お泊り?
ふと、ブラジャーの位置を整える美奈の手が止まった。
首がもげているのに? どうやって?
そういうことができなくて、太一と別れることになったのではないのか。お泊りができれば、太一と別れることもなかったのではないか……。いや、違う。美奈は必死に不安を打ち消した。
どうせ太一とはもう終わるつもりだった。首がもげていようが、もげていなかろうが、どっちにせよあの日私は太一の誘いを断っていたはずだ。
鏡に映る、形良くブラジャーに収まった自分の胸に自信を取り戻し、多少、気分が楽になった。
デートの前にこれほど緊張するのはかなり久しぶりだった。中学二年のとき、ひとつ上の先輩と初めてデートをしたとき以来だろう。
これではまるでウブな少女だ。美奈は苦笑した。
今日の相手は下田くんだ。なにをそんなに緊張しているんだ。
恵比寿駅へ行くと、約束の場所に、サテンのシャツにライダースジャケットを羽織っている下田がいた。なにやらせっせとスマートフォンをいじっている。
「やっほ」
美奈は笑顔を作り下田の肩を叩いた。下田はビクッと体を震わせて、スマートフォンから視線を外した。美奈に気づくと口元に締まりのない笑みを浮かべ、何度も小刻みに頭を下げた。
「すみません、すみません」
なぜか謝る下田を美奈は急かした。
「早く、行こ!」
恵比寿ガーデンプレイスで写真展を見ることになっていた。アルゼンチン出身の写真家で、南米の山の写真ばかり撮っている冒険カメラマンだった。
美奈は興味なかったが、最初のデートは男に任せないといけないという持論があった。どんなふうにエスコートしてくれるのか、どんなお店をチョイスするのか、どんなプランになっているのか、お手並みを拝見する。最初のデートで次のデートがあるかどうか、ひいては付き合うかどうかにつながるのだ。
下田くん、せいぜい頑張りなさい。写真展を選んだ時点でマイナススタートだけど、まだまだ取り返すことはできるから。
美奈は上から目線で下田の後を歩いた。
下田の態度は、お世辞にも及第点に届いているとは言えなかった。
時々申し訳なさそうに美奈のほうをちらちら見るだけで、あとはずっと写真にばかり目をやっている。見る角度を変えたり、距離を変えたりしながら、一枚の写真を五分近くずっと見続ける。近くにいる係員と写真についていちいちあれこれ話し、カメラマンの生涯について紹介する三十分ほどの映像展示を最初から最後まで全部観る。
それほど規模の大きくない写真展を見て回るのに結局二時間半かかった。
外へ出たらもう日が暮れかかっていた。
「やっぱり、すごい人だ」
下田は展示会場から出ると、開口一番そう言った。美奈に言ったわけではなく、ひとりごとのようだった。
「コーヒーでも飲みますか?」
ようやく下田が美奈に声をかけた。
ガーデンプレイス内のテラス席のあるカフェへ向かう。
日が暮れ始め、気温が下がりつつある屋外でコーヒーを飲むのは気が引けたが、美奈は疲れていた。
下田のおごりで、美奈はカフェラテを注文した。
「清水さんは、大学で、どんなこと勉強してたんですか?」
「大学? 私は大学行ってないよ。専門学校」
「あ、そうなんですか。なんの専門学校ですか?」
あまり専門学校の話はしたくなかったが、ここで答えないのは不自然だと思った。
「歌なんだよね」
「歌? 歌手を目指してたんですか?」
「うん、まぁ……」
「すみません、なにか悪いこと訊きました?」
「いや、専門学校の話とか、あんまりしたくないんだよね」
「なにか、あったんですか?」
「うん。ちょっと、そのことで家族と揉めてね……」
美奈がそれ以上言わないでいると、下田は空気を察したのか話題を変えた。
それから二十分ほどカフェにいた。下田はその間、写真展の感想を言ったり、カメラについて喋ったりするだけで、美奈はちっともおもしろくなかった。
下田は緊張しすぎて空回りしているようだった。ずっと頬を赤くし、決して美奈の目を見ようとしない。
しかし、美奈との初デートでこのような態度をとる男は少なくない。この程度のことは問題ではないのだ。太一は初めて美奈とデートしたとき、ろくに口をきけなかった(それが彼のギャグセンスのなさを見抜けなかった大きな要因だった)。それに比べれば下田はよく喋っているほうだ。
おかげで判断がしやすい。趣味はまったく合わないが、波長が合わないわけではない。暴走気味な趣味トークは、付き合い始めてから自分が黙らせればいいだけの話だ。
もう少しチャンスを与えてみよう。美奈はそう考えた。
カフェを立ってガーデンプレイスを二人で歩いていると、アイススケートができるリンクを見つけた。美奈がなんの気はなしにそれを見ていると、下田が「やりますか?」と訊ねた。
スケートなどやったことなかったし、首がもげていて左右に首を振れない美奈は迷ったが、下田がひどく安心したような表情をしていたので、つい「うん」と言ってしまった。
下田が受付へ行き、スケート靴を借りて戻ってきた。
「じゃあ、どうぞ」
笑顔でスケート靴を美奈に差し出す。
「ありがとぉ……」
と言いつつ、美奈はあることに気がついた。
スケート靴が一足しかない。
「じゃあ、楽しんで」
「私だけ?」
戸惑う美奈に構わず、下田はリンクのほうへ歩いていく。
「ちょ、ちょっと……」
下田はニコニコしている。写真を撮ってあげるよ、と言いたげにスマートフォンのカメラレンズを美奈に向けている。
美奈はなんとかして自分だけが滑らなくてはならない展開を回避しようとしたが、下田の満面の笑みに気後れして、結局リンクに降り立つことになった。
リンクには小さな子供やカップルがたくさんいて、皆同じ方向へスムーズに流れていた。スケート慣れしていない女もいたが、だいたいそういう女には彼氏がいて、両手をとられてエスコートしてもらっている。
美奈はどうしていいかわからず、とりあえず慎重に、歩くようにして流れに乗ることにした。転んでしまって首がはずれたら大ごとだ。慎重に、慎重に。突然脇を通り過ぎていく子供に悲鳴をあげそうになりつつ、寒い中、大汗をかきながらようやく半分まで来た。
体の向きを変えて下田のことを確認する。
下田はリンクから少し離れたところで、電話をしていた。
見てすらない!
全身が熱くなった。恥ずかしさと腹立たしさとが一気に襲う。美奈は歩くようにしてずかずかとリンクの中央を横断した。
下田がいる場所までたどり着くと、ちょうど電話が終わったようで、彼もこちらへ歩いて来た。
美奈が苦言を呈すよりも早く、
「ごめんなさい、ちょっと用事ができちゃいました」
「は?」
「ちょっと、ゴールデン街に行かなくちゃいけなくなって」
「ゴールデン街?」
下田はスマートフォンをジーンズの尻ポケットにしまい、何度も頭を下げた。
「え、ちょっと」
「あの、『ゴールデン街の生ゴミ』って呼ばれてる人がいるんですけど、その人に誘われちゃって。その人、断ったら、なにをしでかすかわからなくて」
ゴールデン街の生ゴミ? 私とデートしているのに、ゴールデン街の生ゴミを優先するの? 私はゴールデン街の生ゴミ以下の女なの?
「あの、それじゃ、すみません。断れないんです。すみません」
「え、ほんとに?」
「あの、すみません。あ、あと、今日、実はレストラン予約してたんですけど、行けそうにないんで、もしよかったら、ひとりで行ってください」
いや、行かないし。
「もし行かないなら、悪いんですけど、キャンセルの連絡してもらっていいですか? すみません」
私がするの?
困惑する美奈をよそに、下田はレストランの名前を言って、預けていた彼女のバッグを地面に置いた。
「それじゃ、すみません。今日は楽しかったです」
去っていく下田の後ろ姿を見ながら、美奈は涙が出そうになるのをぐっとこらえた。熱くなっている頭が冷えるのを待ってからリンクを出て、バッグを取ってスケート靴を返却した。そこにいる全員が、自分のことを見て笑っているように思えた。
言われたレストランに電話する。
「あの、今日、七時から二名で予約していた下田ですが……」
「すみません、もう一度お名前をお願いします」
「下田、です」
「下田様、下田様、申し訳ございません。下田様でのご予約は入っておりませんが?」
「え? ……あ、じゃあ、清水です」
「清水様、清水様……大変申し訳ございません。清水様でも入っておりません」
予約すらしてないし! もうなんなの!
美奈は泣いてしまった。
こんな屈辱、初めてだった。感情は追いついていないのに、涙がどくどくと溢れ出た。
涙が頬を伝い、顎からコルセットに染み込んだ。
首がもげていなければ……。美奈は悔しくて悲しくて、叫びそうだった。コルセットにかけた指に力を入れかけて、すんでのところで剥ぎ取ってしまうのをぐっとこらえた。
首さえつながっていれば、下田程度の男に捨てられるようなことはなかった。美奈は思った。
そもそもこんなデートに来ることもなかっただろうし、来たとしても、写真展の時点で見切りをつけてさっさと帰ることだってできたはずだった。それを、なにを血迷ったか、まだまだチャンスを与えようとして、ずるずるデートを引き伸ばした。
美奈は鼻をすすった。
自分を愛してくれる男がいなくなってしまうのではないかという恐怖に怯えていた。下田にチャンスを与えると言いながら、実際は、自分自身にチャンスを与えていたに過ぎなかったのだ。そして結局、こんな仕打ちを受けるはめになってしまった。
自分が捨てるはずだった男に捨てられた。首さえもげていなければ、首さえもげていなければ。
数十分泣きはらし、美奈は歩き出した。
空はもう暗くなっていた。ガーデンプレイス全体に明かりが灯り、これから金曜日の夜を楽しむのであろうカップルたちの姿が増えていた。
皆暖かな服装をして、弾ける笑顔からは心の温もりをも感じることができた。美奈は冷たい風に吹かれ、再度押し寄せた涙の波をぐっとこらえた。
ふと目をやると、ガーデンプレイスタワーの入り口前に、見覚えのある顔が見えた。それがだれなのかすぐにわかり、美奈は息ができなくなった。
太一だった。美奈と付き合っていた頃からしているマフラーを巻き、美奈にだけ見せていた笑みを満面にたたえて歩いていた。横に、知らない女を連れて。
別れてからまだ二週間程度なのに、もうほかに女ができている。
女は太一の話を聞きながら笑っていた。
太一の話であれだけ笑うというのは、相当笑いのセンスがないか、付き合い始めで気を遣っているかのどっちかだろう。美奈は思った。顔も、ぶさいくだ。美容整形手術の執刀医がピカソだったのではないかと思えるほど、崩れ果てた笑顔。顔面アヴァンギャルド。美奈は思いつく限りの悪口を並べた。
自分を捨てたことを後悔して、太一はきっと泣きはらしているという自信があった。一生の間に二度と手に入らない宝石をみすみす逃した自分を恨み、自殺未遂にでもなっているものと信じていた。今日、恵比寿デートに来たのには、恵比寿に住んでいる太一と遭遇して、自分がほかの男と一緒にいるのを見せつけたいという思惑がなかったこともなかった。
そしてそれを見た太一が慌てて、また連絡をしてくるものと……。
「私はもう、ダメだ……」
涙の波が再び、堤防を越えた。
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