7.コンビニにキレる良介

 翌日、日直だった美奈は九時半にサクサフォンへ出勤し、店内の掃除、商品のチェックや釣り銭の準備などといった業務をこなした。

 コルセットは細かな作業を格段に容易にした。が、やはりオシャレとは程遠いものであるような感じがして落ち着かなかった。

 十時ごろ久美子からラインが来た。午前休が欲しいとのことだった。ハーモニカ横丁の男とお泊りになったのだろうと美奈は思った。ラインには「ごめん、午前休で」としか書かれていなかった。しかし、久美子が突然休むのはそういうこと以外に有り得なかった。

 月曜日の午前中は客の数が少ない。学生アルバイトの大森と二人で、まばらな客相手に接客をしていた。

 センター分けで黒縁眼鏡の大森が美奈の首を見て、「美奈さん、首、どうしたんすか?」と気にしていたが、「ちょっと筋、痛めちゃって」とひと言返すと、それきりコルセットの話はしなかった。それ以上触れてはいけないと思ったのだろう。

 美奈は十分休憩に入った。

 喫煙所へ向かう。

 喫煙所には、誰もいなかった。

 冷たい風に吹かれながら煙草を吸う。少し遠くに井の頭公園の黄や赤に色づいた木々の梢が見えた。美奈は手すりに前かがみにもたれ、つい、いつもの癖で真下の路地を覗き込もうとした。首の根元が若干浮き、コルセットの裏側に当たって止まった。美奈はピョンと跳ねて手すりから離れた。

「落ち着けよ、いいじゃんか、それくらい」

 非常階段のドアが開き、貴之と木星屋店主の良介がやって来た。

 良介は三十歳で、縁の細いロイド眼鏡をかけている。映画、音楽、美術に詳しく、よく、優子と一緒にブルースや古い洋楽ロックの話をしている。趣味は珍しいアイテム集め。基本的には気さくで人情味に篤い人間だが、少し短気だった。

 オリーブ色のニット帽をかぶり、白無地のトレーナーにジーンズといういつもの格好でやって来た良介は、そのときもなにかに憤っていた。

「いいや、貴之さん、オレぁこういうのは許せないタチなんだ」

「お、美奈ちゃん、おはよう。どうしたの? それ」

 貴之が美奈の首を指差した。

「清水さん、首の骨、折ったの?」

 良介が目を丸くする。

「ううん。ほら、寝違えてたでしょ? あまりにもひどいから病院行ったら、なんか筋をかなりひどくやってたみたいで、しばらくこれをつけてろって」

 美奈はできるだけ明るい声を出した。

「お大事にしなくちゃね。それよりも、美奈ちゃん、大変だよ、良介がまたキレてる」

 貴之がエプロンのポケットから煙草を出しながら笑う。

 良介はニット帽の折り返しのところにいつも煙草を一本さしている。そこに手を伸ばしながら眉をひそめた。反対の手にはナタデココゼリーを持っている。

「どうしたの?」

「清水さん、今回ばかりは清水さんもオレに同情してくれるはずだぜ。なにしろ信じられないことが起こったんだから」

「だから、なにがあったの?」

「さっきそこのファミマに行ったんだけど、ほら、これ、ナタデココゼリーが食いたくなって。そしたら、あそこの、ほら、茶髪の柴犬みたいな野郎の店員がいるだろ」

「あの、ナヨナヨしてる人?」

「そう、そいつがさ、小さなスプーンをつけてくれなかったんだよ! 信じられるか? オレぁゼリーを買ったんだぜ?」

 貴之が吹き出す。美奈も思わず鼻で笑った。

「どうでもいいぃ」

「どうでもいいってなんだよ! どうやって食えってんだよ! ゼリーにはスプーンがつきものだろうが! いちいち頼まなくたって、そっと添えておくのがコンビニ店員じゃねぇのか!」

「別にスプーンを添えるのがコンビニ店員の仕事じゃないよ」

「なんだよ! 清水さんもあの柴犬野郎の肩を持つのかよ!」

「そういうわけじゃないけど」

「オレぁ、いままで何百人ものコンビニ店員を見て来たけど、ただのひとりだって、コンビニ店員に向いているやつなんていなかったね。だいたいどんな世界にも、何百人にひとりくらい天才がいるもんだが、コンビニ店員ってのはろくでもない。どいつもこいつもダルそうに接客したり、愛想がいいかと思えば言葉を覚えたオウムみたいに同じこと繰り返し言うだけ。オレが思うに、コンビニ店員って仕事は人間にこなせるもんじゃねぇんだ。無理なんだよあんな芸当。さっさと人工知能に仕事を譲りやがれ、すっとこどっこい」

 良介は本当にイラついているようだった。が、どういうわけか良介がキレてもその場の雰囲気が悪くなることはない。いつまでもこの人が言う悪口を聞いていたいとさえ思える。きっと言葉に独特のリズムがあるからだろうと美奈は考えていた。

 貴之が煙草の灰を落としながら笑った。

「そういや、俺も昔コンビニ店員に酷い目に遭わされたことがあるよ。ひとり暮らししてた頃でさ、昼飯にサラダを買ったんだよ。ツナとコーンが入ってる安いやつ。それでアパートに戻って、さぁ食べようと思ったら、『ドレッシング別売り』って書いてあってさ。どうなってんの? 味がないサラダをもそもそ食べたよ。店員はなにかひと言、訊いてくれてもいいよな。『ドレッシングは別売りですが、大丈夫ですか?』って」

「いや、それはただの注意不足」

 良介が一刀両断した。美奈は涙が出るほど笑った。貴之も「ええ?」とビックリしながら笑った。

 美奈は根元まで燃えた煙草を灰皿に捨て、店に戻った。

 大森が退屈そうにレジにもたれかかっている。客はひとりもいない。

「今日はダメっすね」

 大森は美奈を見つけると姿勢を正して肩をすぼめた。

 美奈はちょっと早めに昼休憩に入っていいと大森に伝え、レジの中に立った。店内で静かに流れるブルースに足でリズムを取りながら、ふと自分の置かれている状況を思い出した。

 不安が大きくなり、胸が苦しくなる。すがる思いでスマホを覗いた。

 久美子からラインが来ていた。

『ごめん! きょう、ちょっと無理そう!』

 美奈はスマホを顔の前に掲げながら、『了解。事情は水曜に聞くから、きちんとまとめておくこと』と返事を書いた。

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