6.田島の万能神経

「ああ、よく来てくれた」

 しんと静まりかえった武田整形外科の診察室まで美奈を案内し、お茶を入れると言って出て行った看護師が戻ってくるのをひとり椅子に座って待っていると、パタンパタンとスリッパの底を鳴らしながら武田がパーテーションの向こうからやって来た。

 美奈は立ち上がった。

「治し方わかったんですか?」

 武田は小脇に抱えていたカルテを机の上に置くと、美奈に座るよう促し、グレーの安っぽい椅子に腰をかけた。ギィギィ音が鳴る。

「いや、治し方はね、わからないんだよ」

 武田が眉をいじりながら首を横に振る。美奈は気が遠くなって、背もたれのない丸椅子に尻餅をつくようにして腰を落とした。

「だってね、清水さん、これはね、かなり稀有なことなんだよ」

「ケウ?」

 そこへ看護師が湯飲みにお茶を入れて戻ってきた。美奈は気分を落ち着かせるためにひと口飲んだ。

「あのね、清水さん、今回君の身に起きたことはね、これまでの医学では説明のつかないことなんだ。なにしろ突然なんの前触れもなく首がもげたんだからね。しかも切断面が完全に皮膚で覆われている。そして当の本人がピンピン生きている。マリーアントワネットも嫉妬するよ」

 そんなことはどうでもよかった。

「早く、治し方を見つけてください。こんなんじゃ私、生きていけません」

「うん。わかるよ。大変だろう。ただ、私ひとりでは、とうてい無理なんだ」

「そんな……」

「いや、清水さん。私ひとりでは無理と言うのはね、私ひとりでなければ治し方がわかるかもしれないということなんだ」

「というと、どういうことでしょうか」

「君のカルテを、アメリカの大病院へ送って、助けを求める」

「アメリカの大病院?」

 複数のアメリカ人医師に囲まれ、ストリッパーがイヤらしい目で凝視されるようにじろじろ体の細部まで観察されている自分の姿を、美奈は想像した。冗談じゃないと思った。

「私はストリッパーじゃありません!」

「なんのこと?」

 武田が首を傾げる。顔は笑っている。美奈はその笑顔から小さな希望を見出した。医者の笑顔ほど患者に勇気を与えるものはない。

「あのね、イリノイ州の病院で働いている俺の医学部時代からの友人がいるんだけどね。そうとうできる奴なんだよ。二百年にひとりの逸材なんて言われて、もちろん大学も首席卒業だったんだけど、まぁ、いまはそんなことはどうでもいいか。とにかくね、整形外科医としては世界的に有名なんだ。田島って男なんだけど、そいつがね、運動神経の研究をずっとしていてね。運動神経ってのは、運動が得意だとかそういうことじゃないんだよ。なんて言うかな、まぁ、つまり、人間の体が動く仕組みについて研究しているんだ。あのね、人間の体ってのは、簡単に言えば脳から指令を受けて動いているんだ。一次運動野っていうんだけど……」

 それから武田はややこしい専門的な話を美奈に聞かせた。文系の美奈にはちんぷんかんぷんだった。

「あなた、そんな話はいいんじゃないの? 要点だけ伝えれば?」

 脇に立っていた看護師が口を挟んだ。武田が頷く。

「そうだな。まぁ、なんというかね。清水さんの首の断面が、頭側も体側も、皮膚に覆われているってのは伝えたよね。まぁ、食道や気管やなんかは穴になって残っていて、だからこそ飯を食ったり水を飲んだり、呼吸したりができるんだけど」

 武田はカルテと一緒に挟んであった写真を美奈に見せた。それは先日撮った首の断面写真だった。いくつか黒い穴があいている。それ以外は皮膚に覆われていて、肉や骨やなんかは見えなかった。

「あのね、この皮膚、調べてみたんだけど、ちょっとおかしいんだよ。だってね、どうもこの皮膚はここ二、三日でできたものではないらしいんだ。もっと、何年も前からあったようなんだ……」

「どういうことですか?」

「つまり、この間、清水さんの首がもげる以前も、この皮膚はあったということ。以前に、レントゲンとかMRIとか撮ったことある?」

「……ないと思います」

「でしょ、だから、きっと気づかなかったんだ。あのね清水さん、清水さんの首と体はね、ずっと以前から皮膚によって遮断されていたんだよ。それで、首がつながっている間は運動神経もなんとかつながっていたんだけど、なんかの拍子に首がもげたときに、完全にちょんぎれちゃったんだ」

「でも、体を動かすことはできますよ?」

「うん。それが本当に不思議でね。はっきりしたことは言えないんだけど、おそらくね、首と体の接着面だけが、運動神経のない状態になってしまって、そこにだけ脳の指令が行かなくなっちゃってるんだ。だからそうやってテーピングで首と体を固定しても、首を動かすことだけができないんだよ……たぶん……。でも、そのほかの、顔や、体は、きっと遠隔的に指令が行っているんだ。運動神経が残っているから」

 意味がわからなかった。

「わけがわからないんですが」

 美奈は正直に言った。武田が眉間にしわを寄せる。

「俺もわけがわからないよ! だからこそ、稀有だと言うんだ。稀有というか、前代未聞だよ。従来の医学じゃ説明ができない。でも、切断面にだけ運動神経がないことは確かなんだ。あれからいろいろ調べたんだから」

「じゃあ、その運動神経を切断面にもつけてください」

「無茶言っちゃいけない。私にはできないよ。私にはね。ただ、さっき言った田島にならできるかもしれない」

 それから武田は、田島という名医であり研究者である友人の話をした。専門的な話は理解できなかったが、田島が神経を人工的に作り出すための研究をしているらしいことはわかった。

 万能神経と呼ばれ、この研究が完成すれば、例えば視神経が切れて視力を失った人の目が見えるようになるらしい。また、指を切断して、神経が切れてしまった人でも、それまで通り指が動かせるようになるとかなんとかかんとか。

「当然、清水さんみたいに首がもげた人でも元どおり首を動かせるようになる」

 美奈は興奮して首が落っこちそうになるくらい激しい勢いで立ち上がった。丸椅子を蹴飛ばし、武田の襟元に掴みかかる。

「じゃあ、その万能神経が完成すれば、首が元どおりになるんですね?」

「うん、まぁ、理論上はね。ただ、かなり難しい研究だから、いつ完成するかわからないよ。なにしろ、万能神経が完成すれば、理論上は、この聴診器や、椅子や、テーブルみたいな、無機物にだって運動神経をつけられるんだから。まぁ、筋肉の代わりになるものをつけてやらないと動きはしないけどね。要はさ、万能神経の完成は、医学界のみならず、ITやロボット工学の世界にも大きな影響を与えるものなんだ。完成すればノーベル賞間違いなし。まぁ、だいぶいい線まで来てるって言ってたけど、気長に待ちなよ」

「もたもたしないで不眠不休で研究しろって伝えてください!」

 美奈はそわそわと落ち着かず、体がフルフルと震えた。

「じゃあ、田島にお願いするってので、いいんだね?」

 武田が襟元を直しながら訊ねる。

「もちろんです!」

 武田先生は安心したようにニッコリ笑った。

「いや、よかった、よかった。実はね、もうすでに、田島に清水さんのカルテや写真をメールで送っててね、田島も躍起になっていたんだよ。それにね、田島のやつ、清水さんのカルテを送ってくれたお礼にね、研究論文の共著者として私のことも連名してくれるって言うんだ。ノーベル賞ものの研究だよ? それに私の名前が載るんだよ? すごいことだ。あ、もちろん、清水さんの名前も、載せられるよ。清水さんも歴史に名前を残せるね」

「冗談じゃないです! 私の名前は載せないでください! このことは、誰にも知られたくないんです!」

 首がもげたことで歴史に名前が残るなどまっぴらだった。

「本当にいいの? せっかくのチャンスなのになぁ。まぁ、匿名にしておくこともできるから、その点は心配しなくていいよ。あ、そうだ、田島の研究はチームで行われているから、チームのメンバーには清水さんのこと伝わっちゃうけど、それはいいよね?」

「ええ……? でも、それは仕方がないんですよね。だったら、いいです」

「うん、あとは安心して、医者には守秘義務ってのがあるから、誰にも言いやしないよ。あ、ご家族には連絡しておいたほうがいいかな」

 家族のことを言われて、美奈は慌てて否定した。

「いや、家族には絶対に言わないでください」

「どうして?」

「そういう感じじゃないんです」

「どういう感じなの? 喧嘩でもしてるの?」

「喧嘩というか、勘当されてるんです」

「勘当? いまどきそんなことする親がいるの?」

「私は、パパ……父と母に嫌われてるんです。とにかく、家族には言わなくていいです。本当に」

 武田は眉をひそめて首を傾げていたが、すぐに頷いた。

「まあ、どんな事情があるかは知らないけど、そこまで言うなら、黙っとくよ。清水さんはもう成人だから、あなた自身が同意してくれれば問題ないし」

「ありがとうございます」

 美奈は胸をなで下ろした。

「それにしても清水さんラッキーだよ。田島の手術を確約しちゃったんだからね」

「ラッキーなんですか?」

「うん。相当ラッキーだよ。田島は世界的に有名な外科医で、世界中から田島に執刀してもらいたいって患者が後を絶たないんだから。手術なんておいそれと受けられない。でも田島のやつ、研究が完成し次第、清水さんの手術を優先的にやってくれるってさ。それもこれもね、私が田島と医学部時代からの友人だったから。いやね、私、学生時代、アイツの恋の相談にのってやっててね。アイツ、女関係に関しては相当奥手で、いまの奥さんに惚れたときも、話しかけることすらできなくて、私が、間に立っていろいろ世話してやったわけだよ。アイツは義理堅いから、それ以来私の頼みはいろいろ聞いてくれる……」

「あなた、そんな話はいいんじゃない?」

 看護師が武田を制した。武田はおどけたように眉を上げて口を閉じた。

 美奈はふと思い出して、武田にあるお願いをした。

「あの、先生。その田島さんの研究が完成するまで、私の首を手術でとりあえずつなぎ合わせてくれませんか? いまはテーピングで固定しているんですけど、汗をかくとはげたりするんです」

「ええ? それはダメ。やめたほうがいい。これは田島も言っていたんだけどね、清水さんの場合はケースが特殊すぎてね、うかつに手が出せないの。もしも手術でつなぎ合わせたら、首の中がどうなってしまうかわからないんだ。もしかしたら、神経がないまま首がつながっちゃって、一生、首を動かせなくなるかもしれない。だから、手術でつなぐのはやめたほうがいいよ」

「でも、テーピング巻くの、すごく大変なんですけど……」

「ああ、うん、それは、そうだね」

 武田が腕を組んで美奈を見た。美奈はすがるような目で見つめ返した。美奈のすがるような目に見つめられて、落ちなかった男はいない。武田が頷いた。

「じゃあ、こうしよう。首にギプスを巻いてあげる。そうすれば、首は落ちにくくなるし、首が動かないことを他人が不思議に思うこともないでしょう」

「ギプス? ギプスなんてイヤです!」

「どうして?」

「だって、ギプスなんてしたら、なんというか、オシャレができないというか。私、アパレル店員なんですよ。オシャレするのも仕事のひとつなんです」

「なるほどね。でも、ギプスだってオシャレの一部になるんじゃないの?」

「まさか、無理です」

「どうして?」

「だって、完全に医療器具じゃないですか」

「医療器具というかね、まぁ、たしかにケガをして治療を受けているのは明確だね」

「そうなると、オシャレは難しいじゃないですか」

「そうかな?」

 武田が前屈みになった。

「清水さん、ケガをしたり病気になったりしたって、オシャレはできるんじゃないかな? オシャレは健常者にしかできないわけじゃないでしょ。だって、ほら、いまじゃ眼鏡はオシャレアイテムなんて言われてるけど、もともとは目が悪い人のためのものだったんだ。それがさ、目の悪いだれかがさ、『どうせかけるならオシャレにかけよう』って思って、ファッションに取り入れたんだろ? それ以来眼鏡はファッションアイテム。それを始めたのがだれかは知らないけどさ。首のギプスだってそうできるんじゃない? 清水さんがギプスをオシャレアイテムにしちゃいないよ。いつか世界中のオシャレ女子が、毎朝、今日はどのギプスつけていこうかなぁ、なんて悩む時代が来るかもよ?」

「そうよ、清水さん美人だから、きっとギプスも似合うわよ」

 看護師が口を挟む。

「でも、眼鏡は取り外しが簡単だから、毎日別のをつけて行けるけど、ギプスは……」

「その点も心配なし。コルセットっていう類のものがあってね。それなら簡単に取り外しができるから。知り合いの業者に特注品を頼んであげる。取り外し可能で、表面のデザインカバーを気分によって替えられるやつ。清水さんの場合、骨折しているわけじゃないから、首が落ちないようにすれば事足りるわけだし。ダテ眼鏡みたいなものだから、ダテギプス、いや、ダテコルセットとでも呼ぼうか。あ、お金の心配はいらない。そうそう。治療費も心配しないで。全部タダ」

「いいんですか?」

「いいよ、いいよ。なにしろ、ノーベル賞だから」

 美奈はコルセットを巻くことを了承した。

「今日はとりあえず普通のコルセット着けといて。特注品はでき次第、また後日連絡する」

 病院にあったコルセットを着けてもらい、美奈は武田整形外科を後にした。

 田島の研究がいつ完成するかわからないが、できるだけ早く終わることを祈った。いつ降って来るかわからない流れ星を待つような気分だった。

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