5.久美子と二人飲み

 八時に店が終わり、美奈は久美子と一緒に飲みに出かけた。

 アヒルにも顔を出してみたが、混んでいたのでハーモニカ横丁にある行きつけの店に行くことにした。

 一階と二階に四、五人並べる程度のカウンター席があり、屋上に二人がけのテーブル席が四つあるだけの、小さな店だった。

 屋上に案内された。

 客はほかに、スマホで動画を見ながら笑っている学生風の男二人組がいるだけだった。灯油ストーブが燃えており、半透明のビニールが屋根になっている。

 美奈が生ビール、久美子がハイボールを注文して席に着く。

「それで、なにが原因なの」

 席につくなり久美子が言った。

「えっとね……」

「今度はどうやって振ったの?」

「違う、違う。聞いて、とりあえず」

 美奈は顔の前で手を振って否定した。久美子は煙草を出して口にくわえた。

「なにが違うのよ」

「どう言ったらいいかなあ」

 美奈も煙草を口にくわえた。どうも切り出しにくかった。

「なにが違うのよ。まさかあんたが振られたわけじゃないだろうし」

「そう、それがね、その」

 久美子が口から煙を噴き出した。

「え? そのまさかなの?」

「うん、まあ」

 美奈は昨夜起こったできごとをかいつまんで話した。話の途中にハイボールとビールが運ばれて来た。話を中断して乾杯し、また続きを話した。

「……なんで、やんなかったの?」

 太一の股間を蹴り上げる部分を話そうとすると、久美子が不思議そうに口を挟んだ。

「やればよかったのに。別に生理じゃないでしょ」

「だから、風邪気味だったの」

「よく言うよ。どこが風邪気味なの、そんな透き通った声しちゃってさ。それにいつだっけ? 太一さんの前の彼氏だっけ? あれ? その前だっけ? あんたインフルなのにやっちゃって、彼にインフル移してたじゃん」

「あれは、インフルの熱を発情と勘違いしただけ!」

 二人は声を出して笑った。すぐ久美子がかまをかけてくる。

「そんな清水美奈がどうして、誘ってくる太一さんを拒んだりしたの?」

「だから、風邪気味で、寝違えてたしちょっと気分じゃなかったの」

「たしかに、寝違えてるのは辛そう。今日大変そうだったし。そんなにひどいの?」

「うん、かなりきつい。それでね、とにかく聞いてよ。無理やり犯されそうになったから……」

 続きを話すと、久美子がハイボールを噴き出した。美奈は太一が激昂したこところまで一気に続けた。

 久美子がテーブルをおしぼりで拭きながら美奈を見る。

「ってかさ、それってやっぱり、美奈が振ったんじゃん」

「どうして?」

「だって、太一さんがそんなに怒った原因を作ったのはあんただし、それだってあんたの気持ち次第でどうにかなったことでしょ。太一さんのほうが美奈に拒絶されたわけで、あたしは太一さんのほうがダメージ大きいと思う。それに、あんた最近太一さんの話あんまりしなくなってたしね、こりゃもう長くないなと踏んでいたんだよ、あたしは」

 久美子の言うことには一理あると思った。自分が太一の立場だったら、今よりもみじめな思いになっているに違いない。美奈は傷ついていたプライドが徐々に癒えていくのを感じた。

「ねぇ、あなたたちもそう思うでしょ?」

 突然久美子が後ろを振り返って、学生風の男の子たちにからみはじめた。

「え? なにがですか?」

 ウインドブレーカーを着ている男が困惑したように久美子を見た。久美子は大きな声で笑いながら男の子の頬をなでた。

「なにがですかじゃないでしょ。どうせあたしたちの話、聞いてたんでしょ。こんな美人二人が近くで話してて、あなたたちくらいの男の子が気にしないわけないもんね」

「ちょっと、久美子、品がないからやめな。ごめんね、無視して」

 美奈は男たちに苦笑いをしてみせた。久美子は別に酔っているわけではない。シラフでからんでいる。だからタチが悪い。

 久美子の強引な誘いもあって、結局男たちと一緒に飲むことになった。椅子を移動して、小さな丸テーブルを四人で囲み、飲み物を追加で注文する。

 二人は美奈から向かって左右で差し向かうようにして座った。彼らが話すたびに体の向きを変えるのに苦労した。しかし、全員酔っていたから美奈の不自然な動きに頓着する人間はいなかった。

 聞くと、大学生だと思っていた二人はれっきとした社会人だった。それも美奈たちのひとつ年下。久美子は学生でないと知るとあからさまにがっかりしてみせた。

 二人は渋谷の旅行代理店で働いているとのことだった。ウインドブレーカーの男は久美子ばかりに話をした。ときおり思い出したように美奈を見るが、ちょっと笑顔をみせたり会釈したりするだけだった。

 もう一人の男は恋人がいるとかでそれほど積極的ではなかった。太ったタヌキみたいにずんぐりしていて、美奈のタイプではなかった。

 しばらくするとスマホが鳴った。美奈は別れたことも忘れて、それが太一からの着信だと思った。

「もしもし、ごめんね、いま久美子と飲んでるの」

「そうですか」

 電話の向こうの声が怪訝そうに言った。それは太一の声ではなかった。

 慌てて誰からの着信か確認すると、知らない番号だった。

「もしもし、すみません、ちょっと勘違いしてて。どちら様ですか?」

「あ、清水美奈さんの電話番号でお間違いないですか?」

「はい、そうですが」

「あ、夜分遅くに申し訳ありません。私、武田整形外科院長の武田ですが、この間はどうも」

「武田整形外科? ……あ、あの」

「ええ、この間は失礼しまして。なにぶん夜遅かったものですから、少しイライラしてしまって。それでですが、例のあれ、あれからどうなりました?」

「ちょっと待ってください」

 美奈は電話が来ていることを身振りで伝えて、席を離れた。

 階段付近の誰もいない場所に来て、スマホを持ち直す。

「もしもし、首のことですよね? 治るわけないじゃないですか! なんとかしてくださいよ。私、本当に困っているんです」

「ええ、ええ、そうでしょう。そのことなんですけどね、ちょっとお話ししたいことがありまして。いまからこちらへおこしくださいませんか?」

「いまからですか?」

 美奈は時刻を確認した。九時半を少し回っていた。時刻などどうでもよかった。首を元どおり治してくれるのであれば、たとえ夜中の二時だろうと明け方だろうと飛んでいく。

「いま吉祥寺なんで、五十分、いや、四十分くらいで行けると思います!」

 美奈はすがるような思いでスマホに叫んでいた。しかし電話の向こうの声は淡々としている。

「まぁ、なんというか、詳しいことはおこしくださったときに説明しますので。はい、それじゃ、後ほど」

 電話が切れた。

「久美子、ごめん、私ちょっともう帰るね」

 美奈は急いで席に戻り、椅子の背もたれにかけていたダッフルコートと、肩掛けのバッグを手に取った。久美子は男の肩に手を回しながら顔を真っ赤にさせている。

「なんでよぉ、これからカラオケ行って、美奈の美声を聴こうと思ってたのにぃ。あのねあのね、美奈ね、メチャクチャ歌が上手いの!」

 久美子がウインドブレーカーの男に言う。

「そうなんですか?」

「そうなの! なにしろ美奈は専門学校で歌の勉強してたんだから!」

「ちょっと久美子、その話」

 美奈が睨むと、久美子が舌を出して喋るのを止めた。

「ちょっと用事があったの忘れてて。ごめんね」

 美奈が気を取り直して笑顔で財布を出すと、ウインドブレーカーの男が手を振り、

「いいんですいいんです! ここは僕らが払いますから!」

「いいぞ! 愛してるぞ!」

 久美子はもうへべれけだった。美奈もハナから支払う気はなくただポーズで財布を出しただけだった。

「ごちそうさま。それじゃ、久美子のことよろしくね。久美子、明日も仕事なんだから、無茶しちゃダメだよ」

 こんな忠告が役に立たないことを知りながら言い残し、ハーモニカ横丁を後にした。

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