4.サクサフォン
翌日は日曜日だった。よほど病院に行こうと思った。しかし近所の病院は軒並み休診日で、なにより仕事があった。
店は十時半開店だった。
首をテーピングで念入りに固定してから化粧をした。接客業だから手は抜けない。薄手の黒いタートルネックを着て、ダッフルコートを羽織り、マフラーを巻いて家を出た。
井の頭公園付近に三階建ての建物が建っている。その建物の二階にある「サクサフォン」という古着屋が、美奈の働く店だった。二階にはほかに「木星屋」という雑貨屋と、「アヒル」というカフェ&バーが入っている。
「おはようございまあす」
挨拶をして店内に入ると、レジ台の向こうから誰かが突然立ち上がって声をあげた。
「おっはよ!」
美奈は驚き、右足を軸にしてグルりと体の向きを変えた。同僚の久美子がレジ台の向こうで笑っていた。
「驚かさないでよ」
「なになに、いまの動きおもしろすぎ!」
久美子は声が大きい。
「もう一度やって!」
「イヤだよ」
美奈は奥のスタッフ控え室へ歩いた。久美子がついてくる。
「どうしたのぉ。なんか元気ないじゃん!」
美奈はドキりとした。
「なんか、動きもぎこちないよ」
「うん。ちょっと寝違えちゃって」
「ふぅん」
久美子は控え室の、ファックスが置いてある棚にもたれかかりながら美奈を見ていた。長い髪の毛をしきりに後ろへ撫で付けている。
久美子は美奈と同い年で、同僚というよりも友人に近い間柄だった。しかし、首がもげたことを相談する気にはならなかった。久美子とは深刻な話をしたことがない。恋愛とかダイエットとか、もっと軽い話題を楽しむ相手だった。
「美奈、太一さんとなにかあった?」
美奈はハンガーにかけようとしていたダッフルコートを落としかけた。
「なんで?」
恐る恐る訊ねる。久美子は自信たっぷりの笑みを目元にたたえていた。
「だって、目が腫れてるよ。昨日の夜、泣いたんでしょ」
美奈はとっさに目に手をやった。いつもより濃く化粧をしたつもりだったが、足りなかったらしい。
「ごまかしたってダメだよ。もうあたし、美奈の顔は毛穴のひとつひとつまでどんなものか覚えちゃってるんだから。そんなに腫れてたら一目瞭然」
「さすがだね」
美奈は観念して、太一との一件について話すことにした。
「別れちゃった」
どうしても「振られた」とは言い出せず、そのときはそんな言い方をした。久美子はびっくりしたように、大きな目をパチクリさせた。
「どうしてぇ? 太一さんのなにが不満だったの?」
久美子は美奈が太一を振ったものと思っているらしい。久美子とは専門学校を卒業してこの古着屋に勤めはじめて以来、五年の付き合いだったが、その間、美奈が誰かに振られることなどなかったのだ。
美奈が曖昧に笑っていると、学生アルバイトのエミが出勤してきた。
「今夜、話聞くからね」
久美子は開店の準備をするために控え室から出て行った。
失恋の辛さは客の相手をしている間、忘れることができた。ただ、首がもげている苦しさはどうしたって常につきまとった。
首を振れないことはかなりやっかいだった。
客が「あれはいくらですか?」と言って指差す商品を確認するために、いちいち体を回転させなければならないし、壁に掛けてあるヴィンテージのジャケットを「試着させてください」などと言われたら、ラジオ体操でもするみたいに体をエビ反りさせないといけない。「ダイナミックですね」と言って笑う客に、「ダイエット中だから体を動かさないとね!」などと心にもない冗談を言って笑わないといけない。
普段ならオシャレな男性客が来たら迷わず声をかけ似合う服を一緒に探し、仲良くなった客から連絡先を聞かれるということもざらだった。しかし、首がもげた状態ではどうしても勇気が出なかった。好みの客が来たら、さりげなく距離をとって、エミに接客を任せた。
午後になると、これも学生アルバイトの大森が出勤し、美奈は昼休憩に入った。
近所のコンビニでサンドイッチとサラダを買って、控え室でひとり食べた。姿勢よく床に座り、ぼんやり壁に貼られているジャニス・ジョプリンのポスターを眺める。
煙草を吸おうと思った。しっかりテーピングを巻いて少しずつ吸えば、切れ目から煙が漏れることはない。
その建物は喫煙できる場所が定められていて、二階の店舗で働く従業員は、非常階段の踊り場に設けられた喫煙所へ行かなくてはならない。そこはサクサフォンの店員だけではなく、木星屋とアヒルの従業員も利用する。
美奈が行くと、アヒルのマスターである貴之がすでにいて、くわえ煙草でスマホをいじっていた。四十歳の既婚者で、三歳年下の奥さんと二人でアヒルを経営している。
「お、美奈ちゃん。おつかれ」
「おつかれさま」
貴之はスマホをしまって、煙草の灰を灰皿に落とした。貴之は黒いシャツの袖をまくっていた。日焼けして引き締まった腕がたくましい。
「ゆうたん、まだ帰ってないの?」
「うん。まだ」
ゆうたんというのはサクサフォンの店長である。本名を風谷優子といい、敏腕店長で、服飾デザイン系の専門学校を卒業したのち、二十二歳のときにひとりでサクサフォンを立ち上げた。開店から十年が経ったいま、サクサフォンの業績は上々、一度テレビにも紹介されたことがあるくらいで、都内はもちろん、全国から客がやってくる有名店になった。人気の秘密は、優子が実際に世界中へ足を運んで仕入れてくる商品と、サクサフォンでしか手に入らない、優子デザインの服。
「自分に敬語を使っている人に対してタメ口をきくと、自分が思い上がっているみたいに感じるから、わたしにはタメ口をきくこと」という決まりがあり、皆、優子には敬語を使わず、サクサフォンの従業員も、店長と呼ばずにゆうたんと呼んでいる。
「ゆうたんはまだニューヨーク」
「いいよなぁ、アポロシアターにも行くんだろ?」
「そんなこと言ってたね」
優子は音楽好きで、特にジャズやブルースを愛好している。半年くらい前からブルースベーシストと付き合い始め、彼と一緒にステージに立つこともあるほどだった。優子はサックスを吹く。美奈も一度、久美子と二人で吉祥寺のジャズバーにその演奏を聴きに行ったことがある。
「なんだか美奈ちゃん今日、姿勢いいね」
貴之が思い出したように言った。美奈はため息をつきそうになるのをこらえて、例のごとく、
「寝違えたの」
「へぇ、そりゃ大変だね」
貴之は眉をひそめて煙草を灰皿に捨てた。それからもう一本取り出して火をつけた。
「そうだ。聞いてよ美奈ちゃん、こないださ、下北の古着屋に行ったんだよ」
「なんで下北に行くの? うちで買えばいいのに」
「いや、友達が下北でカレー屋始めたから、冷やかしに行ったついでに寄ったんだよ。それでさ、夏物がセールになっててさ、ラルフの長袖アロハがあったの。八千円。買おうか迷ってたら店員が来てさ、『これはメイド イン アメリカですよ。ほら、ここ、タグが緑色になっているでしょう。ラルフのメイド イン アメリカは、タグが緑なんですよ』とか言うから、それならってことで買ったんだよ。それでさ、家に帰ってじっくり見てみたらさ、緑のタグにメイド イン マレーシアって書いてあったんだけどどういうことなの」
美奈は声を出して笑った。貴之はわりとしっかり者だが、どこか抜けたところのある男だった。
「ところでさ、そろそろ店のBGM変えようと思うんだよね」
貴之が言う。
「ビートルズはもう飽きて来ちゃったんだよね」
「ええ、私、ビートルズ好きなのに」
「へぇ、そうなの?」
「親がよく聴いててね……」
そこまで言いかけて、美奈は口をつぐんだ。イヤな思い出が蘇る。虫を追うように思い出を隅へやり、改めて口を開いた。
「……で、ビートルズやめてなんにするの?」
「うん、クイーンにしようかなと思ってるんだけど、どうかな?」
「いいんじゃない? 私はあんまり知らないけど」
美奈は煙草の灰を吸い殻入れに落として、腕を組んだ。
「ちょっとタカ、いつまで煙草吸ってるの?」
非常階段のドアが開いて貴之の妻が顔を出した。
「あら、美奈ちゃんおつかれさま」
「美穂さん、おつかれさま」
「タカ、さっさと戻って来てよ。お客さん増えてきたんだから、葵ちゃんだけじゃ回らない」
「ええ? まだ昼飯どきなのに、みんなラーメン屋行けよ、コーヒーなんて飲まずにさ」
貴之は苦笑いしながら煙草を捨てて、建物の中へ入っていった。ドアを閉める前に美穂さんが呆れ顔で美奈を見た。
「ほんと、しょうがない人よね」
そう言う声はどことなく弾んでいた。
ひとりになって、美奈はタートルネックに指を突っ込みテーピングを確認した。少し緩んでいるようだった。美奈はトイレへ行き、テーピングを巻き直した。
休憩から上がると、久美子がニヤニヤしながら駆け寄って来た。
「美奈、美奈、来てるよ、ゴースト」
指差すほうを見ると、店の奥で、ギターのハードケースを片手に持った背の高い男が、虚ろな目で壁にかかっているピーコートを眺めていた。
長い髪の毛が縮れていて、こけている頬が青白い。二重まぶたで顎がシャープな、ちょっとした男前だが、表情に生気がなく存在感もない。少し不気味な男である上に、いつも気づいたら店の中にいることから、美奈たちは彼のことを「ゴースト」とあだ名していた。
ゴーストは半年くらい前から月に二、三回来店するようになった。美奈はゴーストが苦手だった。
話しかけても薄ら笑いを浮かべながらボソボソ喋るだけで何を言っているのかわからない。説明しているのに、一切こっちの顔は見ずに、人の話を聞いているかわからない。単純に気味が悪いのだ。
どういうわけか、ゴーストは美奈を見つけると必ず彼女のもとへ寄って来た。
久美子やエミが近くにいても、気づかないのか無視しているのか必ず美奈を選んで寄ってくる。美奈のことが好きなんだと久美子が冷やかすこともあったが、そのわりに表情は暗く、微笑みひとつ浮かべることがない。私のことが好きならもう少し楽しそうにするべきだ。美奈は度々思ったが、どちらにしても陰気な男は好きではなかった。
「ほら、早く、行ってあげなよ、フリーになったんでしょ?」
久美子が冗談っぽく言いながら美奈の肩を叩く。
「冗談じゃないよ。イヤだよ」
言い合っていると、ゴーストが二人を見た。黒いロングコートを着ていて、死人のように白い顔だけがボンヤリ、それこそ幽霊のように浮かんで見える。美奈は背筋がゾクッとした。
ゴーストが表情ひとつ変えずに歩いて来た。こうなってしまっては観念するしかない。美奈は作り笑いを顔中に浮かべた。
「いらっしゃいませ。また来てくれたんですね」
ゴーストはなにも言わない。
「今日は、なにを探してるんですか?」
「……コート」
「コートですか?」
「……ピーコート」
「あ、ピーコートですか。それだったら、いまお客さんが立っていたところにありますよ」
ゴーストを促し、さっきまでゴーストが立っていた場所まで歩く。ゴーストはなにも言わずについてくる。
「こちらになります」
「……さい」
なにを言っているのかわからない。
「……ください」
「え?」
「……これ、ください」
ゴーストは壁にかかっているピーコートを指差していた。美奈は頭を支えつつ体をのけ反らせ、ピーコートを見上げた。
「あ、こちらですか? ご試着は……」
「……大丈夫です」
「はぁ……」
ゴーストは必ずなにかを購入する。安いシャツのときもあるし、高めのコートやジーンズのときもある。その都度試着はしない。たまにサイズが明らかに小さいものを買って行くこともある。転売でもしているのだろうか。少し癪だが、買った後どうするかについては美奈がどうこう言える問題ではない。買ってくれるのなら売るだけだった。
首が落ちないように気をつけながら台に乗ってピーコートを取り、レジで会計を済ませて商品を渡すと、ゴーストがぼぉっと美奈の目を見つめた。
「……出してください」
「え? なにをですか?」
美奈が聞き返すとゴーストは目を逸らして、そそくさ店から出て行った。
「ほんとなんなの、気持ち悪い」
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