2.つまらない彼氏

 美奈が目を覚ますと、同時に手の中のスマホが鳴った。

 寝ぼけ眼で起き上がってスマホを耳元に当てる。つもりが当てがった先に耳がなかった。

 寝ているうちにテーピングがはげてしまったようで、頭だけ枕の上に転がっていた。

 体をひねり、半ば手探りで自分の頭を見つけ出し、髪の毛に隠れている耳にようやくのことでスマホを当てた。

「美奈? 美奈? もしもし」

 太一の声だった。

「もしもし? おはよう」

「もしもし? おはよう。おはようって、美奈、いま起きたの?」

「うん。え? いま何時?」

「もう十一時半だよ。どうしたの? 今日……」

「あ、うそ」

 美奈は慌てて、部屋のかけ時計を確認しようとした。しかし頭が動かない。スマホを顔の前に掲げた。十一時半だった。

 今日は十一時から太一とデートの約束だった。

「ごめん! いまから用意するから!」

 美奈はスマホを放り投げて頭を抱えた。悩んでいるわけではない。実際に小脇に抱えている。

 洗面所に頭を入れて髪の毛を洗い、ついでに洗顔もしてドライヤーでそこそこ髪の毛を乾かしてから、今度は化粧をしようと思った。

 化粧は鏡を見ながらでないとできない。頭を持ち上げて、顔が鏡に映るよう試みるが、そうすると両手がふさがる。何かいいアイデアがないか頭をひねったが、悠長に考えている時間はなかった。

 化粧は諦めることにした。とりあえず頭を体に取り付けて、あとで眉毛だけ簡単に描けばいい。太一とは何度もお泊りを繰り返している。いまさらすっぴんを見られて困ることはない。それに、美奈は自分のすっぴんに自信があった。

 頭を肩の上に置き、ぐるりとひと回りテーピングで巻きつけた。白いタートルネックセーターを引っ張り出す。今日の気温には少し厚着だったが、仕方がない。マスクをすれば、風邪気味なのだとごまかせるだろう。

 マスクとマフラーを着用し、トレンチコートを羽織って家を出た。空気は少し肌寒かった。しかし、タートルネックにマフラーをするほどの寒さではない。首元にさっそく汗が滲んできた。

 早歩きで駅へ向かっていると、曲がり角から小さな女の子が飛び出した。小学校に上がったばかりといった年頃で、ピンクのリュックサックを背負っている。

「ママァ! パパァ!」

 涙声でなにやら叫んでいた。

「ママァ! パパァ! どこぉ!」

 迷子らしい。周囲に人はいない。急いではいるものの、放って行くのも気がひける。

 美奈は少女に近寄った。少女は身長が低く、近寄ると視界からその姿が消えた。

「どうしたの?」

 できる限り前かがみになって声をかける。

「ママァ! パパァ! いない!」

「どこからきたの? 名前は?」

「ママァ! パパァ!」

「お名前は?」

 そこでコロッと頭が転がった。汗でテーピングが緩んだらしい。

「うわああああああん!」

 少女が大声でわめきだした。

 美奈は頭をお腹のところで抱え、コンクリートの地面に落下するのを防いだ。

「おばけぇ!」

「違うの、違うの、ほら、おばけじゃないの」

 慌てて頭を元の位置に戻す。しかし、女の子は泣き止まない。そこへちょうど主婦と思しき中年女性が歩いてきた。

「あの、この子、迷子みたいなんですけど……」

 早口で事情を説明し、女の子を主婦に託して美奈は駅へ向かった。

 おばけ。

 女の子の言葉が胸に鋭く突き刺さっていた。

 美奈は自分の美貌に自信を持っていた。ファッションもこだわり、仲間内からはいつもオシャレな人として見られてきた。すっぴんを見られてびっくりされたことは一度もない。それが、言うに事欠いておばけとは。

 そんなバカな! 

 美奈は駅のトイレに入って、ハンドバッグからテーピングを取り出して首に巻いた。今度ははげないように念入りに何重にも何重にも巻きつけた。ついでに眉毛を描いて、ファンデーションも叩いておいた。こうしておけば、どこに出しても恥ずかしくない、ちょっとした美人であるはずだった。


 駅前でタクシーを拾い、渋谷まで出て、半蔵門線に乗って押上に向かった。

 今日はスカイツリーに上る予定だった。

 太一は駅前のカフェで待っているとのことだった。

 首がもげていると、小さなカフェで彼氏がどこにいるか見つけるのも大変だった。

 ロボットみたいに体をあちらに向けて、こちらに向けて、

「美奈」

 声が聞こえてもすぐに振り向けない。

 ゆっくり振り返る。太一がいた。

「どうしたの? 遅刻するなんて、珍しい」

 時刻は十二時半。一時間半の遅刻だった。

「うん、あの……」

 言おう言おうと思うが、言葉は喉元まで来て切れ目から漏れ出て行く。

「昨日から少し風邪気味で」

「ああ、そっか。最近気温が下がってきたからね。こっちきて、コーヒーでも。あ、お腹空いてる?」

「え、あ、うん。お腹空いてる」

 二人はカフェを出た。

「ほら、美奈、スカイツリー」

 歩きながら、太一が間近に見えるスカイツリーを指差した。美奈は見上げようにも見上げられないから、そちらは見ず口元に笑みを浮かべるだけだった。

「本当だね」

「見上げてみないの?」

「うん、今日は、いいや」

「だって、スカイツリーに来たことないんでしょ?」

「うん。でも、上ったことがないだけで、見たことはあるから、うん」

 美奈はただ前だけを見据えて歩くしかなかった。

 太一は隣でいろいろと喋った。美奈はほとんど聞いていなかった。

 そもそも太一の話はメリハリがなく単調でおもしろくない。大して笑えない話を抑揚も間も関係なくただ大きな声で話す。

「面白い話をしようか」

「うん」

「俺の大学時代の友達に、すごく面白い奴がいてさ。ミカンをさ、ははは」

「うん」

「口に、ははは、丸々一個、ははは、プシュっと汁が、ははは、飛び出して」

「ははは、おもしろいね!」

 声が低く渋くて、顔もそれなりに整っていて、身長も高くて筋肉質で、有名企業で働いていて、彼氏としては申し分なかった。が、いかんせん話のおもしろくなさが尋常でない。

「美奈、なんだか今日、おかしいよ」

「なにが?」

「いや、だって、姿勢が」

 美奈は体をひねって太一を見た。たしかにおかしい。

「ロボットみたいに動くね」

「うん、ちょっと、首を寝違えちゃって」


 二人はソラマチタウンの六階にある回転寿司屋に入った。

 カウンター席に座り、おしぼりで手を拭い、湯飲みにお茶を入れて、美奈はコハダが回ってくるのを待った。

 太一はいきなりイクラを取り、醤油をどばどばかけて頬張った。美奈は横目でチラチラ太一の食べっぷりを伺っていた。

「美奈は、なにが欲しいの?」

「コハダが欲しいな」

「コハダ? コハダってどんなの?」

「コハダは、光り物で、サバみたいな……」

「あ、これ?」

 そう言って太一がとったのはハマチだった。

「それ、ハマチだよ」

「ハマチかぁ。ハマチの罠にハマっチまった」

 これはひどい! 美奈は思わず舌打ちしそうになるのをこらえた。太一は自信満々にニヤニヤしていた。

 太一はハマチを美奈の前に置いた。美奈はハマチなど食べたくなかった。しかし目の前に置かれてしまえば食べざるを得ない。どうせ太一のおごりだ。ちょっと高めの皿でも構うものか。

 美奈はハマチを食べた。切れ目から出てこないように喉元を押さえながら飲み込む。ゆっくり少しずつであれば問題ないようだった。美奈は湯飲みのお茶を飲んだ。飲み物も、ゆっくり飲めば溢れてこなかった。

「すみません。コハダ、お願いします」

 太一がレーンの内側で寿司を握っている板前に声をかけた。板前は威勢のいい返事をすると、ちゃちゃっと手際よくコハダを二貫握って、太一に差し出した。

「これが、コハダかぁ」

 太一はコハダをまじまじと眺めた。それからパクリと一貫食べた。美奈は横目でそれを見て声を出しそうになった。

 私が食べたいって言ったのに。

 太一はコハダを飲み込むと、残りの一貫を美奈に譲った。

「これ、結構美味しいよ。はい」

「ありがとう」

 美奈はコハダを食べた。

「美味しいでしょ?」

「うん」

「それ、オススメだよ」

 さっきまでコハダがどんなものかすら知らなかったのによく言うよ! 美奈はしわくちゃになりそうになる眉間を指先で隠した。

 太一には、すべての手柄を独り占めしないと気が済まない図々しい部分があった。人に勧められて気に入ったものを、あたかも自分が発見したかのように人にオススメするのだ。自分にそれを勧めてくれた人にも平気でオススメするのだからしょうがない。場合によっては人をイラつかせる性格である。

 実際、そのとき美奈はかなり苛ついていた。

 それから美奈は五、六皿を平らげて満腹になった。太一は十五皿ほど食べたが、まだレーンの上をきょろきょろ物色していた。

 結局太一は二十皿平らげた。

「美奈はもういいの?」

「もういいよ。さっきからずっと待ってたんだけど」

 美奈は少しトゲのある声で言った。太一は頓着せずにお腹をさすりながらニコニコしている。

 太一が支払いを済ませ、二人は回転寿司屋を後にした。

 それから展望台へ上った。曇っていて、それほど綺麗な景色ではなかった。美奈は窓から少し離れたところに立ち、遠目に景色を眺めていた。おもしろくもなんともなかった。

 時刻が四時を過ぎた。

「ねぇ、もう行こうよ。コーヒーでも飲もう」

 美奈は太一の肩を叩いた。太一は振り返り、眉をひそめた。

「でも、これから夜景がキレイになるんだよ」

「いいよ、夜景なんて。少し疲れたの。私、風邪気味なの」

 美奈はわざと咳をしてマスクの位置を直した。

「そっか。具合悪いんだったね。気づかなくてごめんね」

 二人はソラマチタウンのカフェで二時間弱過ごした。美奈はアイスカフェラテを頼み、コップを持ち上げストローで飲んだ。太一はしばらくぼんやりとホットコーヒーをすすりながら黙っていた。時折スマホを取り出してなにやらいじる。たまに思い出したように仕事の調子について訊ねた。美奈は椅子の背にもたれたまま、適当に返事をした。

「なんだか美奈、今日しんどそうだね。もう帰ろうか」

 やがて太一が腕時計を見ながら言った。

 やっと帰れると美奈は胸をなで下ろした。


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